第3話(前)希望を見出す人ってまだ存在したんだ
倒壊したビルの立ち並ぶ廃都の中、白い着物の少女が壊れた建物の陰で大きなボストンバックに寝転がって、手にした缶詰を空にかざしていた。そのアルミの表面は細かく傷ついていて、本来はもっと光沢のある見た目なのだろうが、その傷に塵が入り込んでその光沢は淀んでいる。少女はそれをかざすことで、その中にある何かを容器を透かして見ようとでもしているかのように、目を細めて眺めていた。
「そーらーはーあおいーな、おおきーなー……」
唐突にいつかに聞いた朧げな曲の替え歌を小さな声で歌いだすものの、その声は尻すぼみに消えていく。
「つまらぬのー」
ちょっとした本音がポロリと零れ落ちる。それを口にしたからと言って何かが変わるわけでもないが、思わず飛び出る言の葉はどうしようもない。
「それに、お腹すいたしのー……」
缶詰をバックに戻し、今度はいかにもひもじそうな様子で腹をさする。
少女が以前に何かを腹に入れたのはおよそ五日前。朦朧とした意識の中ではそれすらも曖昧だ。水は余分にあるため、今すぐ死ぬというほどでもないにしろ、歩いて活動していた分エネルギーは消費され、栄養失調の限界は近づきつつあった。ゆえに少女はなるだけ動かないように、日陰で休んでいるのだ。
だからと言ってこの状態でいるだけでは何も事態は解決しない。体の脂肪から骨肉までエネルギーに変換してひたすら消費し続けるだけの毎日では、刻一刻と餓死は迫ってくる。どこかから食料を調達しなければ状況は打開できないのである。しかしそのためには、動くためのエネルギーが必要となり、かといってそのエネルギーは底を突きかけており、と堂々巡りであった。加えて、そもそもそんなことをする気力が今の少女にはない。いつ死ぬかわからないこの世の中で、ただひたすら生きるためだけに力を振り絞ろう、という気にはどうしてもなれなかった。
結果、だらしなく日陰で倒れ伏すだけの、今どきそう珍しくもない行き倒れの様を呈しているのだが。
「あのぅ……これ……少ないですが……」
そんな死体と見違えてもおかしくないような彼女に、声をかける者がいた。声の方向を見ると、目の前には赤い皮のついた丸い果実が一つ。確か林檎というのだったか。
「……おお、リンゴがしゃべってるのー。奇異なこともあるものじゃ……」
「いえ……リンゴがしゃべっているのではないのですが……」
そんな声が聞こえたものの、それは無視して果実に齧り付く。
すぐにそれを完食すると、改めて少女は姿勢を正してその何者かに向き直った。
「ふっかつじゃぁーーー!!うむ!ありがとう!非常に美味であったぞ!」
開口一番にお礼を述べる。実際のところ、小さな果実一つ程度で全くお腹は膨れなかったが、久々に他人のやさしさに触れたのと美味しい食事で、少なくともやる気は満ちた。
そこにいたのは、少女よりも背の小さい、恐らく年も下であろう幼い女の子だった。所々はねているものの肩まで伸びた栗毛と、眠たげに半分閉じているが大きな黒い瞳が愛らしい。
「主は小さいのに偉いのー。じゃが普通はこんな素性のしれぬ行き倒れの不審者に施しはせぬ方がよいぞ?」
その小さな子供のような少女の姿に、その優しさで救われたにもかかわらず老婆心で忠告めいたことをしてしまった。それが完全に余計なお世話であることにすぐに気付いたものの、
「変なしゃべり方ですね」
女の子はクスッと笑うだけだった。
「あの……私、ノゾミって言います、あなたは?」
それが名前を聞かれているということに気付くまで、今度はそう時間はかからなかった。
「わしか?わしはのう、ユウというんじゃ。主は小さいのにしっかりしとるのー?」
余計な一言を付け足してしまうユウ。再びしまったと思うものの、ノゾミという女の子の顔に気を悪くした様子はなかった。
「あの、私たちのおうちにはもっと食べ物がたくさんあるので……よかったら来ませんか?」
それどころか、彼女からにじみ出る優しさは感涙必須レベルのものだった。思ってもない申し出に、ユウは喜んですぐさま頷こうとするものの、
「よいのか?こんな変なやつ入れても?それにわしが来ることで主らの飯も減るのではないか?」
流石に思いとどまる。何も返せるものがこちらにはないのだ。施しを受けるだけではあちら側の損でしかない。こんな世界ではそのちょっとした損害が生死を分けるだろう。そんなリスキーなことをしても大丈夫なのかと問うたものの、
「大丈夫ですよ。私たちのおうちはたくさん食べ物ありますから。まあ……一応おうちの人に聞いてみないとわからないですけど……でも大丈夫です」
「……まあ、それだったら、とりあえず行ってみるかの」
流石にノゾミの一存だけで決められるようなことではないようだ。しかし、ノゾミが自身の家の人に確認してから入れるのであれば、本当に無理な時はそこの管理者が拒絶するだろう。許可が下りた時はそれだけそこに余裕があると思えばよい。ユウはそう判断し、厚意に甘え、彼女についていくこととした。
それになにより。彼女からは“愉しい”気配がしたのだ。
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ノゾミが「おうち」と呼んだそこは、家というよりも基地という風貌だった。それもそこらの要塞だとかいうような見た目の基地ではなく、どちらかというと“秘密基地”とでもいうべき、さらに厨二心くすぐられるような建物だった。
「おう?ここが主の言うてた「おうち」かのう?」
「はい、ここがおうち、です」
「なんというか……カッコいい場所じゃの」
廃墟の中に埋もれて一見ただの廃ビルにしか見えないが、端々には新しめの金属めいた表面が露出しており、その表面には時々一瞬だけ光線のような青い筋が通る。その内部は想像するしかないが、なんだか空にでも飛び立っていきそうな雰囲気がある。
とりあえずは廃ビルの正面玄関の前に立ち、
「あ、今から大丈夫か聞いてくるので、ちょっと待っていてくださいね」
とのことなので、おとなしく待つことにする。
ほどなくして。
「大丈夫でしたよ!」
ここ数分で初めて見た嬉しそうな笑顔でブンブンと手を振りながら、ノゾミが戻ってきた。リュックを先ほどまで背負っていたのだが、置いてきたのだろう、今は完全に手ぶらだ。
「そうかそうか、それはよかったのー」
ユウは他人事のように言うものの、内心ほっと安堵してもいた。実際食料がなく限界に近かったこともあり、食料があるらしいこの場所に入る許可が下りたことはとても喜ばしいことである。さらに理由を付け足すのであれば、ノゾミが嬉しそうな表情で戻ってきたことであろうか。仮に許可が下りなかった場合、今の様子から見るに、かなり悲しそうな表情になったに違いない。
「では入りましょう!」
そう言って、ノゾミがユウの手を引く。ふとほんの数日前、自分が他人の手を引いた記憶が呼び起こされるものの、それを無理やり振り払い、おとなしくノゾミの後についていった。
今はあの時とは違い、少しばかりの余裕があるのだから。
ユウが中に入った瞬間、
パパパーン!
乾いた破裂音が炸裂した。火薬のにおいが充満する。
「!?!?」
ユウは面食らってしまい、その場で硬直する。
続いて、
「「ようこそー!“救世の家”へ!」」
そんな明るい声が響き渡った。
「……は?」
突然の出来事に理解が追い付いていかない。落ち着きながら周りの様子を見ると、先ほどの銃声のような音は銃声ではなく、火薬を用いたクラッカーだった。ざっと数えて十人程度の人々が、それぞれ一つずつ構えて盛大に放っていた。
「これからよろしくね!お姉ちゃん!」
最後にノゾミがユウに向かって言葉を放つ。先ほどまで眠たげに閉じていた目が今はぱっちりと開いている。
「……お、おお、よろしく頼むの」
ノゾミの言葉が随分砕けた口調になっている。それよりも、なぜ「お姉ちゃん」なのか。というかそもそもこの状況は何なのか。そんな様々な疑問が浮かんでいくものの、それらすべてを押し込み。
「えー、あー、それで、食料があると聞いてきたんじゃが、いただくことはできるかの?」
厚かましくもそんなことを聞くのだった。
食料があるという話は本当のようだった。
「はうあ~~~~~~っ!!」
らしくもなく、歓声を上げる。
ユウは別室へ案内された。そこは居間という風な場所で、目の前に差し出された豪勢な料理の数々。どこから調達したのか、数多くの果物に鳥を丸ごと焼いたような大きな肉、調味料もふんだんに使われているようで、香ばしい匂いで鼻腔が満たされる。終末前の生活と比べてみても一般的な中流家庭においては結構豪華な食事に思える。
「これ!全部!食べても良いかの!?食べるぞ!?いいな!?」
勢いよく振り返り、後ろのノゾミに尋ねる。
「好きなだけ食べてもいいけど、私達も食べるんだからね?みんなで一緒に食べるの!これはお姉ちゃんの歓迎パーティーでもあるんだから!みんなもすぐに来るからあとちょっとだけ待ってよ?」
この家の主にそう言われては、待つほかあるまい。きゅるきゅるとなるひもじいお腹を何とか抑え、一方で抑えきれないよだれを口角から垂らしつつ、それでも己を抑えるため食べ物から目を逸らそうとして失敗する。目を離せない。通常状態でも我慢できないレベルの料理だというのに、今の空腹状態でこれを我慢するのには無理があった。自然と足が料理の載ったテーブルへと進む。ダメだダメだとわかってはいても、理性とは裏腹に食欲に支配された体が向かっていってしまう。
「だから待ってってば、お姉ちゃん!」
ノゾミがそんなユウを見て一生懸命止めようと腕を引っ張る。しかしユウより小さな彼女の体重と力では、ユウの足を十分に止めることはできず、ずるずると引きずられていく。いよいよ右手が無遠慮に綺麗に飾り立てられた料理を鷲掴みしようとしたとき、
「待たせたね!みんな揃ったよ!さあ、歓迎パーティーを始めようか!」
扉が勢いよく開け放たれ、ぞろぞろと男女十人くらいの大人たちが入ってきた。その音にユウはハッと我に返り、慌てて手をひっこめる。
「ハッハッハ、どうだい、美味しそうな料理ばかりだろう?」
ここの人々の中でも一番年上に見える中年くらいの体格がよく、愛想もよさそうな男が豪快に笑いながら声をかける。
「もう、遅いよおじさん!お姉ちゃんを止めるの大変だったんだから!」
文句を言う割にノゾミの顔は嬉しそうだ。
「あ、いや、わしはつい、のー?あんまりに美味しそうなものじゃからのー?」
話題に挙げられているユウは、少しばつが悪くなって言い訳を述べる。
「そうだろうそうだろう!君が来ると知って、急ピッチで作ってもらったのだがね!なかなかどうしてうまくできているだろう?」
話を聞く限りこの料理は彼ら本人が作ったものではなさそうだが、それを褒められて機嫌よさそうにうなずいている。きっと自慢の料理なのだろう。一体だれが作っているのだろうか。
「さ、ずいぶん待たせてしまったようだから、さっそく始めようか!さあ、宴だ!みんな気の向くままに食べて飲んで騒ぐぞー!」
おおお!と男の掛け声に合わせて周囲からも声が上がる。しかし、ユウはそんな周りの声など微塵も耳に入らず、男の言葉が終わると同時に食事に一瞬で手を出し、その口いっぱいに頬張っていた。テーブルには箸やら匙やらがあったものの、それらに気付いているのかいないのか、素手で好き勝手に鷲掴んでは口に運んでいる。
「ちょっとお姉ちゃん!はしたないよ!食器使わないと!」
ノゾミがそのように声をかけるが、そんな言葉はどこ吹く風。すでにスイッチの入ったユウの暴食を止められる者は、少なくともこの場には存在しなかった。
「……で、それがわたしたちの目的なのだが、どうだい、君も協力してくれるかね?」
男が何やら話しているが、ユウは何も聞いていなかった。それぞれ自己紹介的なナニカもしていた気がするのだが、満腹になった喜びと疲れと食後特有の眠たさで、ほぼ立ったまま寝ているような状態だ。話のほとんどなぞ、右から左に聞き流している。最後の言葉だけは何とか聞き取ったので、とりあえず、
「おー、わかったわかった、協力するー」
そんなおざなりな答えだけ返しておいた。うつらうつらと舟をこぎながら。
その後も何やら話していたようだが、そのころになると聞き流すどころか話が耳に入りすらしなかったので、流石にその様子に周囲も気づいたのか、ぷつりぷつりと話は切れていった。
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ユウが目覚めた時、そこはふかふかの寝台の上だった。いつぶりかの柔らかな寝床。最後にそこに寝た記憶は、はるか遠くに感じる。心地のいい目覚めに、もう一度眠りに落ちていくことを思案する。いつ≪終焉を告げるモノ≫や“終焉の徒”がやってくるのかもしれぬこの世界で二度寝などご法度と言ってもいいが、直面している欲求に逆らうことは困難だ。
「うーん……寝よう……」
誰に聞かせるでもなく、自分の決意を固めるために呟く。
関係ないが、なんだか体が重い気がする。まるで誰かがユウの上に乗っかっているかのような。
「なんか重いけど……寝るか……」
そんなことをつぶやいて、
「重い!?私が!?重いの!?お姉ちゃん!?」
それが地雷だった。
ユウの毛布の中に入り込んでじっくりとユウの温もりを感じていた彼女は、そのたった一つの単語に思いきり反応してガバッと勢いよく起き上がった。
「うーん……?」
ユウは首だけ起こしてそんな彼女を一目見たが、視界がうすぼんやりとしていて誰かまでは認識できずにこてりと再び首を落とした。
「おやすみー……」
それどころか、完全に寝るという意思表明さえしてみせる。
「ねー!お姉ちゃん!?私が重いってどういうことー!?ねぇ、ねー!!寝ないでよー!というか私がベッドに入り込んでるのに無反応ってどういうことー!?ちょっとくらいお姉ちゃんっぽくしてよー!!おーねえーちゃーんー!!」
彼女はひたすらユウの上で騒ぎ始める。それをいい加減うるさく感じたか、もう一度だけ目を開けて彼女を見る。いくらかパチパチと目を瞬かせて、
「……ああ、ノゾミか、おはよー、それから……おや……すみー……」
寝た。
流石にそうは問屋が卸してはくれず。腹の上でぎゃあぎゃあと喚くノゾミのことは完璧なまでに無視してみせたものの。
「おーきーてーーーー!!!!!」
「ぐはっ!」
掛け声とともに勢いをつけて飛び込んでくる攻撃には流石に耐え切れず。
「うぅ、おはよう、ノゾミ……大丈夫じゃ……ばっちり目覚めたぞ……」
よろよろと体を起こそうとした。
「あ!おはよう、お姉ちゃん!やっと目が覚めたんだね!ほら!じゃあ、さっさと顔を洗って!朝ごはんだよ!」
「わかったわかった。だから早くわしの上からどくのじゃ……重い……」
しかし、いまだ上に乗っかっているノゾミのおかげで、体はまだ起こせないでいた。
「あ、そうだった!ね、重いってどういうこと!?」
「あー、まー、あれじゃよあれ、分かるじゃろ?あれ」
ユウはそんな中身のないことを言って誤魔化そうとするものの、
「つまり重いってこと!?」
全く誤魔化されなかった。
その後、食卓に着くまでノゾミの追求が止むことはなかった。
家の外は人の管理が行き届いているようには全く見えないが、この家にはなぜか水が供給されるし、お湯も出る。明かりもこの家だけは電灯がつく。それらのライフラインは断たれているように見えるのだが、誰がどうやって維持しているのだろうか。
そんな疑問もさておき。
朝の食卓は全員そろって食べていた。数えて見るとユウとノゾミを除いて12名だった。
その輪の中で、ユウはもっきゅもっきゅと音を立てながら今朝も口いっぱいに食事を頬張っている。今日の朝ご飯はジャムやバターを塗ったスライス食パン、ミルク、味噌汁だ。いかにも朝ごはんという感じがして、ユウとしては非常に好ましい。ただ、彼女が食べている量は明らかに朝ごはんという量ではなかったが。
正確には数えていないが、パン15枚目くらいに手を伸ばしたところで、男が声を上げた。
「ところで、昨日の話は覚えているかね?」
昨日の話。ユウが睡魔と必死に戦いながら聞き流していた話のことだろう。もちろん微塵も覚えていない。それどころか目の前の男の名前すら聞き覚えがない。かといって聞き流していたことを告白して、あなたの名前は何でしたっけ、などと尋ねられるほどユウは厚顔無恥ではなかった。
「えー、あれかの?あのー、えー、わしが主らに協力する話だったかのー?」
かろうじて覚えている話の断片を必死にかき集めて、素知らぬ顔でそのように言う。顔だけ装ったところで、その言葉は少し口ごもりがちだったが。
「そうそう!その通りだよ!覚えていてくれたのだね!昨日は君がすごく眠そうだったから、正直覚えているか不安だったのだよ。でも覚えていてくれたのなら安心だ」
ユウは内心しまったと若干後悔した。今の話しぶりから、正直に覚えていないと言えばもう一度昨日の話を教えてもらえたのではないだろうか。ますます覚えてませんなどとは口に出せない雰囲気になってしまった。それでも表情だけは変えずに話を聞く。
「とは言っても難しい仕事は任せないよ。君も女の子だからね。今日はひとまずノゾミについていってくれたらいいよ」
「あー、分かった。とりあえずノゾミの手伝いをしたらいいんじゃな?」
「ああ、そうだ。なに、簡単な仕事だ。詳しいことはノゾミに聞いてくれたまえ。あの子はああ見えてちゃんとしているからね」
自分が何に協力することを承諾したのか全然わからなかったが、ひとまず自分のやるべきことはわかった。とりあえずノゾミについていったらいいらしい。自分に何ができるか、などということはノゾミに尋ねればよいだろう。男の話しぶりではそう難しい仕事ではないようだし、何よりあんな小さい女の子に任せている仕事なのだ。そこまで危険な仕事でもあるまい。ユウはそのように思い、快く引き受けることにした。
そうと決まれば、いつの間にか二十枚目くらいに到達していたパンを口に押し込むと、既に食べ終わって自室に戻ったノゾミを追って、自らも席を立った。
:::::
「それで、わしらは何をしたらいいのかのう?」
とりあえずノゾミについていって外に出たものの、未だ何をすべきかユウは把握していない。家でノゾミに尋ねてはみたものの、その時は「お姉ちゃんも来るの!?」とはしゃいでばかりで、ユウの質問に答えてくれる様子はなかった。流石に外に出てからは落ち着いた様子だが、今は逆に無言でずんずんと道を進んでいる。
拗ねているのだろうか。そんな疑問がユウの頭に浮かぶものの、機嫌を損ねるような行動をノゾミに対してした記憶は無い。強いて言えば今朝の「私は重くない」事件くらいだが、朝食の時はそれを気にしている様子はなく、普通に接していた。そのほかに何かあるのかもしれないが、何にせよ心当たりがないのでどうしようもない。
「おーい、ノゾミー?どうしたのじゃー?コミュニケーションは大切だぞー」
何かきっかけにならないかとユウは中身のない言葉をかけてみるものの、ノゾミは聞こえていないのか、意図的に無視しているのか、無言のまま歩き続ける。ユウは後ろをついていっているため、彼女がどのような表情をしているのかもわからない。
廃れた都会の街並みを抜けて、積み重なった瓦礫を越えて、崩れたトンネルをくぐって。景色はいつの間にかうっそうと茂った林の相を呈していた。どこまで行くのかもわからないが、どこかを目指してずんずんと進んでいく。そのペースは決して速くはないが、なにぶんユウはこの辺りを歩き慣れていないうえに、何が起きてもいいようにボストンバックの荷物を全部持ち運んでいるため、本来なら彼女の方が歩行ペースは速いはずだが、今はノゾミのペースについていくのがやっとである。
最初の方はユウもいくらか声をかけていたものの、幾分か経っても反応のないノゾミを見て、それが無駄であることに気付き、今では無言の行進が続いている。彼女がなぜユウの言葉に反応しないのかはわからない。初めは単に拗ねているだけかと思ったが、何やらそれも違う気がする。まるで何かを隠して、それを悟られないように話すことを避けているような──。
林の出口と思しき明光が覗いてきた折々、唐突にぴたり、とノゾミの足が止まった。朝方に家を出たが、今ではもう正午過ぎ。頂まで昇った太陽が少し西に向けて傾きかけている。これまで変わらず進み続けていた行軍がついに止まった。
やっとノゾミがこちらを振り返るが、逆光でその表情はいまだうかがい知れない。
「ねぇ、ちょっとこっち来て」
その声色は少し強張っていて、無理やり感情を押し殺しているようだった。
そこに何があるのか。
多少の期待とともに、ユウは歩を進める。未知だからこそ期待できる。そこに娯楽があるかもしれない。
ノゾミはすぐに前を向いてしまって、結局彼女がどんな顔をしているのかはわからない。
そして、ユウは彼女の横に並んだ。
星が、広がっていた。
その下に広がっていたのは、暗闇だった。世界が欠落したような、そんな暗黒。だが、その中に煌めく小さな光芒がちりばめられていて、まるで天の星々のように輝いている。
その星たちからはうっすらとした光線が伸びていて、光の梯子が空中大陸に向けて真っ直ぐにかかっていた。それは上に行くにつれて光がだんだんとまばゆくなっていき、太陽とは別にその光がほのかに、けれどどこか力強くユウたちを照らしていた。
地上に墜ちた色とりどりの星々。無数のそれらが奈落のようなその大穴をきらびやかに飾っていた。
「綺麗でしょ?」
ふと横を見ると、ノゾミがこちらを見て満面の笑みを浮かべている。
「……そうじゃな、うん。綺麗じゃ」
ノゾミの言葉を肯定する。
「これを見せたくってね!驚かせたかったから、楽しみで思わず笑っちゃうのを精一杯我慢してたんだから!」
ノゾミがユウのことを見もせずにずんずんと進んでいたのは、表情を悟らせたくなかったからのようだ。内心浮き浮きだったのだろう。ユウはノゾミが怒っているのではと内心気が気ではなかったが、もしかするとよく見れば足元などは浮足立っていたりしたのかもしれない。
「この場所ね!私の秘密の場所なの!でもお姉ちゃんだけは特別!だってお姉ちゃんだもん!二人だけの秘密の場所ね!」
秘密の場所。
「そっか……それはいいものじゃな。二人だけの場所、じゃな」
ぽつりとつぶやいて。
「それはそうと、なぜ主はわしのことを「お姉ちゃん」と呼ぶのじゃ?」
初めから気になっていたことを尋ねてみた。
「それはねー……なんとなく、かな!」
勿体つけた割には曖昧な答えが返ってくる。
「なんとなく?」
「うん!お家には、私よりもずっと年上の大人たちしかいないんだもん。お姉ちゃんと出会ったときにね、こう、なんと言うか、ビビっときたの!この人がわたしのお姉ちゃんだって!だから何となく!」
要するに理由はないということらしい。求めた明確な理由は返ってこなかったけれども、なんとなくそれがユウにとってはうれしく感じた。
「そうか。それは確かになんとなく、じゃな。だったらわしもお姉ちゃんのように振舞わなければな」
「そんなことしなくてもお姉ちゃんはお姉ちゃんだよ!」
もしかしたら、大人の中でノゾミは一人、気を張っていたのかもしれない。終末を迎えた世界だから、甘えも最低限にしなければと戒めていたのかもしれない。
新参のユウには分からなかったけれども。
堕ちた星々を前にしながら、ユウとノゾミはお互いに顔を見合わせながら笑い合っていた。
しばらくその場でのんびりと景色を堪能した後、日も傾き始め、空中大陸の隙間から赤い光が差し込み始めた。目の前の奈落はその赤にも染められず、ひたすらに黒々としたさまを今もなお呈している。
日の入りも近い。そろそろこの場も離れなければ、暗闇の中で林を抜けなければならなくなるだろう。
「ノゾミよ、そろそろ帰ろうかの」
ユウが声をかけると同時に、
「あーーーーーっ!!!」
ノゾミが叫び声をあげた。
「ん?なんじゃ?急に大声なんぞあげて」
突然の叫びにも全く動じることもなく、冷静に尋ねる。いや、もしかしたら驚いているのかもしれないが、少なくとも表情にはそれを出していない。
「仕事、忘れてた……」
「仕事?」
そういえばノゾミの手伝いをしろとか言われてたな、などとぼんやり思い出すユウ。
「そう、私の仕事……」
「……そういえば、実は頼まれてた仕事とかわし知らんのよのー」
仕事も何も、その話の時ユウは半分夢の中だった。あの中年男の方にはなかなか言い出せなくて聞き出せていないし、ノゾミは家を出てから真っ直ぐにここまで振り返らずに歩いてきたため、こちらも話を聞けていない。
「うーん、じゃあ、帰りながら話しようかな?今日は研修みたいなものだったからあまり仕事が進んでいないっていえば許してくれるかも?」
少し自信なさげにノゾミはつぶやく。
「そうじゃな、最悪わしが足を引っ張ったことにすればいいんでないかのー?」
「そうかなぁ?」
「そうじゃそうじゃ、安心せい。何より、妹は姉を頼る者であろう?」
そんなユウの言葉に励まされたかどうかは定かではないが。
「うん!そうだね!なんとなるよね!」
ノゾミは元気を取り戻し、来る時と同じように、意気揚々と帰路についた。
「それで、わしらがするべき仕事とは何ぞ?」
今朝からずっと気になっていたことだ。流れで協力することになってしまったものの、その実情を知らなければやる気があってもそれを実行に移すことは難しい。
「うーん、そうだねー。私もそんなに詳しい話じゃないんだけどね?なんか人を探してきてって言われてるよ」
「人?」
それは何かの暗喩だろうか。ユウは言葉の裏を探ろうと少し疑る。
「うん!人!人間!誰でもいいから見つけたら連れてきてって言われてるの!」
「その人って、こう、文字通り、人のことかの?」
あまりにその意図が分からなくて、もう一度確認してしまう。
「もー、何をボケてるの、お姉ちゃん?そうだよ、私たちみたいな人だよ!」
呆れた様子でノゾミは答える。
「なんかねー、今の世の中、どこも大変だよね?どこもかしこも≪終焉を告げるモノ≫とかいう化け物に壊されちゃってさ。安全なとこは空に浮かぶ空中大陸だけ」
そう言うノゾミの顔は、いつもより少しだけ陰っている。
「まぁ、確かにそうじゃのー」
それを知ってか知らずか、ユウは呑気に頷く。
「でもね!そこであのお家!なんかよくわからないけどね、空の人がやってきてね、食料とかいろいろ持ってきてくれるの!」
そうだったのか。どこを見ても食料も水もあるように見えなかったが、それらの物資は空から持ち込まれていたのだ。きっとそれ以外の様々なものが持ち込まれていることだろう。ユウが抱いていた疑問の一つが氷解した。そして新たにもう一つ。空とつながりがあるということは、
「のう、ノゾミよ。主は器律式なるものを知っているかの?」
その疑問をすぐに口にしてみた。
「きりつしき?何それ?」
「そうか……いや、何でもない。話を続けてよいぞ?」
どうやらそこまで深いつながりではないようだ。話を遮ったことを謝って続きを促す。
「大丈夫大丈夫!気になるところはすぐに聞けっておじさんも言ってたし!」
ノゾミのなんと育ちの良いことだろうか。常々思っていることを改めてユウは思う。
「まあ、そんな感じで私たちはそれなりに裕福な暮らしができるんだよね!それでね!食料とかもたっくさんあるからさ、それを皆にも分けられるように、人を探してるの!」
ここに繋がってくるわけか。ふむふむとユウは内心頷く。
「それはなかなか優しい、というかなんというかって感じじゃの」
無償の施しはむしろ怪しい気もするが、その辺りの自己勘定は流石に済んでいることだろう。部外者たるユウが口を出すべきところではない。
「あとねあとね!いっぱい人を集められたら、食料を持ってくるのも手間だから、空に連れて行ってくれるって!」
「空に?」
「うん!あの空中大陸に!」
ノゾミは空を指差しながら興奮気味に話す。
「空中大陸に行けばね!きっと今よりももっとおいしい食べ物だって食べられるし、もっと楽しくなるよね!それに毎日怯えることもなくなる!ね!」
その話が本当ならこれほど喜ばしいことは無かろう。新参のユウではその事情についてよくわからないところが多かったが、それだけで何にも勝るメリットが存在することは分かった。何より≪終焉を告げるモノ≫の脅威から逃げ延びることができるのだ。今の世界にそれよりも上に立つ利点など存在しないと言っていいだろう。少なくとも地上に住む人たちにとっては。
「そうか、それはよかったの」
だから、ユウは微笑んでノゾミの頭を撫でてやった。
「うん!」
ノゾミはいつにも増して満面の笑みを浮かべる。ユウとしてはその嬉しそうなノゾミの姿を見られただけで大満足だ。
「あ、でもね!今日私たちが行った場所は探索外の場所だから!本当は危険だから探索はもっと近場でって言われてるんだけどね?だから秘密の場所!お姉ちゃんも絶対に秘密にしてよ!」
「わかっとるわかっとる」
未来への希望を抱いて明るく話す彼女は、ユウにとってとてもまぶしかった。
仲良さげに話しながら帰路を辿る二人の影は、どこから見てもただの仲の良い姉妹にしか見えなかった。
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