はるのうた

@aoi_2021

第1話

 再会はすぐそばまで来ていた。

 春風がカーテンを揺らすのをかれこれ20分は眺めていた日曜日。外からは太陽が差していて心地が良い。何もせずに過ごすのはもったいない天気だけれど、何もしないのが堪らなく心地が良いのだ。正午を過ぎたにも関わらずに、窓際に張り付いた桃色の花びらを意味もなく数えていた。

 バイトも学校もない、せっかくの休日だ。たまには悪くこんな日も悪くないだろう。そのまま微睡んでいれば、ピコンと通知が鳴った。

「久しぶり、来週の月曜日会えない?」

 登録した名前には先輩の2文字。空の写真ばかりをアイコンに選ぶのは相変わらずだけれど、随分と昔のことのように思えた。実際、先輩とは何年も会っていない。連絡だって高校以来である。

 そんな急な誘いであったとしても、私の中では僅かな期待と大きな動揺が身体の中を駆け巡った。きっと理由は初恋だったというだけの単純なものだけれど。そんな自分に同調したかのように、一層強くなった風が机に積み重なっていた用紙を散らばらせた。

 視界は携帯画面から部屋の中へと変わっていく。

「やば」

 重たい身体をゆっくりと起き上がらせ辺りを見渡せば想像以上に散らばっていて、つい一人溜息をついてしまった。片付けをするのはあまり好きではないし、何より動くのが億劫なのだ。嫌々フローリングの冷たさを素足で感じながら、書類が混ざらない様に一枚ずつ確認していく。就職説明会の要項、レポート用紙、良く分からない学校からのチラシ。どれも大学で必要な物だ。春休みに入ってからというもの、怠惰な生活が続いているばかり。最後の一枚を拾い、机に全ての書類の並べればそばに寄りかかったギターとボロボロになった一冊のノートが視界の隅に入った。

 それは私の宝物でもあり、先輩との苦い思い出でもあった。


 昔から、歌うことが何よりも好きだった。

  親戚に貰ったギターを中学生の時から触って遊んでいた。それがどんどん楽しくなり弾き語りから徐々に作詞作曲まで自作でするようになり、動画投稿も始めて。人気とまでは無かったものの、そこそこいい反応ももらえて楽しかった。十年近く通っていたピアノも役に立ったのだろう。当然、その時点で進学するつもりではあったから、趣味の範囲で納めていた。

 本格的に歌うようになったのは、先輩を好きになった高校2年の夏だった。あの時は無我夢中で自分の感情や日常を詩にするのが楽しくて仕方が無かった。恋愛の曲なんてクサイとは思っていたけれど、それでもペンを握る手は止まらなかった。週に数回しかない合唱部の練習後には下校時間ギリギリまで教室に残って、一人ノートと向き合っていたくらいだ。真夜中にギターをかき鳴らして叱られたのも、大声で歌っていたのも青春の一部と言えるだろう。

 たた、それは本当に僅かな時間だった。

 携帯画面を片手に私を見つけた人がいたから。

「ねえ、これ木下だよね」

 よりにもよって先輩に。

 匿名で顔出しもせずに歌っていたのに、どうしてかバレた。あまり緊張をする性格では無かったけれど、あの時ばかりは血の気が引いて冷や汗が湧き出た。とにかく恥ずかしくて、焦って教室を飛び出した。先輩を取り残して。夕日の差した廊下を力一杯踏み込んだ感覚は今でもはっきり思えている。

「木下」

 そう呼ばれるだけでも嬉しくて堪らなかったのに。

 次の日からは、会うことすら避けてしまうようになっていた。別に先輩は悪くないけれど、気まずさが勝っていた。名前を出してないとはいえ、先輩の事を勝手に歌っているのだから、不快に思うのは無理もない。

 一度だけ、先輩の靴箱の中に「ごめんなさい」と書いたメモを残した。罪悪感から逃れたかったのか、先輩から離れたかったからかは分からない。

 けれどそれからは、先輩も私の方に話しかけてくることは無かった。怒らせたのか、飽きらせてしまったのは分からない。それでも、何も言われなかった自分にほっとしている自分がいた。そのまま先輩は卒業し、連絡先も知らない私は会うこともなく残りの高校生活を終た。そして地元の大学に進学し、今に至る。

「懐かしいなあ」

 黒歴史といわれればそれまでだが、今思い返せば少し笑えてしまう。あの日以来、動画ではオリジナル曲を歌うのをやめた。それでも往生際が悪いから、流行りの曲や好きな曲を歌いながらギターをかき鳴らしていた。

 幸いなことに、先輩は他の人にはこの話題を一度も口にしていないらしかった。今まで先輩以外で私が歌っていたのに気づいている人はいない。もしかしたら先輩だってほとんど忘れているのかもしれないし、大して興味もなかったのかもしれない。どっちにしろ私にとっては好都合だった。当然、私もわざわざ掘り返すようなことはするつもりはない。

 会わない方がいい。それは十分過ぎるほどに分かっている。

「いいですよ」

 なのに断るなんて結局できない。救いようのない自分に乾いた笑いがこぼれた。



 翌日、朝一番に声を掛けてきたのは、七分のシャツに身を包んだ大学の友人であり、高校の同級生でもある勇太だった。もう衣替えの季節か、なんて考えていれば少し気遣うような口調で勇太は切り出した。

「お前に会いたいって言ってる人がいるんだけど」

「私に?」

 首を傾げていれば「いっとくけど男じゃないぞ」と念押されたから、勇太を睨みつけたけれど何のダメージも受けていない。

「お前、何したんだ?」

 この言葉の意味を私は数時間後に嫌という程思い知らされることになった。




「時間は大丈夫? 講義とかあったら教えてね」

「はい」

 私を呼び出したのは先輩と仲が良かった風花さんだった。勇太の知り合いでもあるその人は、高校時代は苦手な上級生だった。先輩と話している時には視線を感じていたし、恋敵だからどうしても仲良くはなれないと思っていた。付き合っていたという噂もあったけれど、実際にはどうだったのかは知らない。真実だったとして受け止められる自身は私にはなかったからだ。

 卒業してからは、話すことどころか会うことすら無かったから驚いた。

「ここでいい?」

「あ、はい。大丈夫です」

 風花さんは、高校の時よりもさらに綺麗になっていた。元々整った顔立ちをしている印象はあった。でも月日が経ったからか、尖ったものが削られて柔らかい雰囲気に包まれていた。少しきつめの印象があったアイライナーは、今はブラウンがわずかに覗くだけ。洗練された美しさってこういう人の事を示すのかなと頭の中で考えていたら「ねぇ」と声がかかった。

「樹、あなたに会いに来たんでしょ?」

 先輩はこんなにも遠慮がちに話すような人だっただろうか。てっきり鋭い視線と言葉を浴びせられると肝を冷やしていたから、掴んでいたグラスを落としそうになってしまった。

「会いました」

「風花さんは、その、先輩と付き合っていたんですか?」

「付き合ってないわ」

「えっ」

「あ、少しほっとしたでしょ?」

「そんなつもりじゃ……いえ、はい。ほんのちょっとだけ」

 二人はとてもよくお似合いだった。人を惹きつける外見もそうだけれど、一緒にいてとても楽しそうだったから。正直、どちらかが振られる所なんて想像できそうにない。

「私じゃ、駄目だったのよ」

 淡々と告げられたその一言が全てだった。風花さんはアイスティーを啜った後、軽く微笑んだ。きっと風花さんの本音なんだろう。それは同時に私にも言えることではないかと感じた。返す言葉が見つからない、まさにそんな状況だった。どうしようもなくて視線を泳がせていれば風花さんは、ポツリと零した。

「ごめんね」

「え」

「気づいてただろうけど、私あなたに嫉妬していたの」

 どうして、何て聞くのは失礼だろうか。

「私に、ですか?」

 少し上を向いた口角は肯定を意味しているのだろう。カランと氷が音をならして溶けていく。

「だって、樹いつも貴方のことばかりなんだもん。一緒に話しててもすぐ貴方に声を掛けてたじゃない。樹本人にもずるいって言っちゃってたりしたのよ。こんなのかっこ悪すぎるし、今だから言える話だけどね」

「そんなこと……」

 そこまで言いかけて口を噤んだ。風花さんの真っ黒な瞳は、告げた言葉の否定をゆるしてくれなかったから。

 それからすぐ、風花さんはちょっとだけ悲しそうに笑って言った。

「樹のことちゃんと見てあげてね。きっと今は誰かが側にいることが大事なんだと思うから」

「それって、先輩はやっぱり」

 こくん、と風花さんは視線を逸らしながら頷いた。

 数か月前だっただろうか。高校時代の友人達と久しぶりの食事に行った時のこと。華やかな料理を前に繰り広げられる思い出話。戻りたいと思う程には、楽しくて懐かしくて堪らなくなった。

 先輩の異変について知ったのは、食事を食べ終えてデザートを待っていた時だった。

「先輩、今眼の病気になっているらしいって」

 頭に落ちてきた衝撃的な一言。

 お店の看板メニューであったはずのミルフィーユの味は全く分からなかった。周りから見ても分かるくらいには動揺していたんだろう。あくまでも噂だから、と友人は慌てて話をしまってくれたけれど、気持ち悪いくらあに走る心臓の鼓動はしばらく収まらなかった。それから、何度も先輩の話をあちこち聞いた。次第に色が見えなくなる病気だということ。大きい病院に通っていること。そのせいでずっと続けていたサッカーを辞めなけれなならなくなったこと。

 全部嘘だと思いたいのに、時間が経つにつれて、先輩に纏わる噂話は現実味を帯びるようになっていた。

 風花さんがカフェを出た後、なんとなく帰る気にもなれずに1人席に残って携帯画面を眺めた。どうして今頃になって先輩が私に連絡をくれたのか、なんて到底分かるはずもなく。

 ただ、先輩に会うことへの不安ばかりがおおきくなっていった。



 待ち合わせの日は、数日ぶりに気温が20度を下回っていた。最近はたまたま暖かかっただけのことだろうけど、3月にしてはコートが必要かと迷うくらいには寒い。慌てて新調した皺のないスカートとジャケットを風にはためかせていれば、少し早い時間に先輩は現れた。

「久しぶりだな木下」

「お久しぶりです」

 先輩は数年前よりもずっと垢抜けてかっこよくなっていた。元々背も高くスタイルが良かったのだ。制服姿しか知らなかった私にとっては、私服姿は新鮮にしか見えないし、なにより部活していた時よりもやや伸びて整えられた黒髪は数年という月日の流れを実感させた。久しぶりの再会だからだろう。照れくさそうに笑う先輩に「かっこよくなりましたね」なんて揶揄ってみれば「お前こそ、大分変わったな」なんて言い返された。確かに、暗かった髪は春に合うピンクベージュに染めて、リップで精一杯だった化粧も多少は上達した。私の変化が先輩にはいい意味で捉えられたのかばかり気にしていれば、ふと思い出したように先輩が私を見た。

「木下は飯、食った?」

「いえ、まだです」

「よし、じゃあまずは腹ごしらえだ」

 からりと白い歯を見せて先輩は、背中を向けた。その斜め後ろを遠すぎないように追っていれば、先輩は思い出話を始めた。部活、文化祭、受験、体育祭。どれも私が知らない先輩が沢山いて、同級生だったらを想像してしまった。先輩は終始楽しそうだったけど、卒業してからのことはひとつも口に出さなかった。

「懐かしいなぁ」

 辿り着いたのは学校のすぐ側にあるパン屋だった。私は今も時々通っているけれど、先輩は卒業以来訪れていないらしい。

「そりゃ先輩は数年ぶりですもんね」

 カランと戸を開ければ、ふわりとバターの匂いが漂ってきた。

「ここのパン、めっちゃ好きだったんだよなぁ。けど、購買には甘いのはあったけど総菜パン売ってなかったじゃん? だからわざわざ部活帰りに買いに行ったりしてたんだよなぁ」

 そんな事を言いながら先輩は、迷うことなくトレイに焼き立てのパンをのせていく。私がどれにするか迷っていれば、ぽんとアップルパイが置かれた。見上げれば悪戯が成功したようなニヤつき顔で笑っていて。このまま迷っていると全部決められそうだったから、慌ててとれば今度は「ふっ」と笑いを噛み締めるような声が聞こえた。

「先輩、子どもみたいな悪戯するのやめてください」

「ん~? でも木下それ、好きだろ」

 心臓が馬鹿みたいに跳ね上がった。まだ拭いている風は冷たいのに頬に熱が籠るのが自分でも分かって、慌てて先輩から視線を逸らした。

 先輩は狡かった。きっと私の気持ちを分かっていたはずなのに、否定も肯定もしてくれなかった。そんな所がすごく嫌いで、ムカついて。でも、やっぱり好きで諦められなかった。

 今だって、きっと私の気持ちを知っていてこうやって惑わせて来るんだろう。

「先輩、そうやって好き勝手して困るのは自分ですからね」

「何の話?」

 複雑な気持ちを抱えながら歩いていれば、くふふと笑いながら頭を撫でてきた。

 いつもそうだ。馬鹿で物わかりの悪い振りをして、全てを曖昧に溶かしてなかったことにする。ゆるりと笑ってのらりくらりと躱す。つかみどころのない猫みたいな人だった。

「やっぱりいいです。先輩いい性格してるなぁと思って」

「えらく生意気な後輩だなぁ」

 けれど、目の前にあるピザトーストに夢中なようで、其れ以上は咎めること無く口に運ぶことに集中していた。先輩は食事をするときは、ほとんど会話をしない。美味しいほどおとなしくなる。表情と食べっぷりを見れば口を開かずとも一目瞭然ではあるけれど。それでも、存外居心地は良かった。何か話さなきゃと焦っていた高校時代の私からすれば異様な光景だろう。パンの食べ歩きをするなんてのもきっと高校だったら指導を受けていただろうし。僅かに大人になった自分がちょっといいな、なんて思えてしまう。

「先輩」

「ん?」

「また行きましょうね」

 先輩は笑っただけで、頷いてはくれなかった。

  

 別に先輩とはどこへ行く訳でもなかった。

 校門の前を過ぎ、帰りに寄っていた大通りのファミレスやカラオケを過ぎ、河原沿いをゆっくりと歩いていた。

 日差しを浴びた桜の花びらがスパンコールのようにちらちらと舞う。それを眺める私の隣で、先輩は花びらを手にとってはまた風に放っていた。桜の花が地につく前に拾おうとしている小学生の姿と大して変わらない。いつも思うけれど、この人は大人なようで意外と子どもなのだ。

 カラフルなランドセルは私達を何度も追い越していく。

 ちらりとこちらを覗き込んでいるのには気付いていた。けれど、まだ先輩は決めかねている様だったから素知らぬふりをして、菜の花が揺れるのを横目で眺めていた。

 声を掛けたのは私からだった。

「先輩、歩き疲れませんか? そこに寄りましょうよ」

「ん、そうだな」

 公園のベンチに腰かけても先輩はしばらくぼんやりとしていた。私だって対して変わらないけれど。でもまだこうして隣にいる時間が終わらなければいいという思いだけは確かだった。

 少し空に朱が混ざり合い始めた頃「あのさ」と躊躇いながらも先輩は口を開いた。

「話、聞いてくれる?」

 先輩の声は震えていた。

「はい」

 無理に笑顔を取り繕うから、私まで同じ顔をしてしまった。

「俺ね、眼の病気なんだ」

 それから先輩はぽつりぽつりと話をしてくれた。大学1年の夏に上手く目が見えないから気になって病院に行ったら病気だと告げられた事。数年以内に色が見えなくなること。だから、最後に色々な場所をめぐって記憶に焼き付けたかった事。

「そう、だったんですね」

 頭の中は真っ白なのに、やけに喉が渇いていた。

「外国に行って今までに見たことの無いような絶景を眺めようとも思ったんだ。あとは、ずっといきたかた美術館も訪れようと思って。でも、やっぱりここだった。なんてことの無い場所だけど、それでもずっと過ごしてきたこの景色だけはどうしても忘れたくなかったんだ」

「はい」

 声が掠れていたのは私も同じだった。

 全部知らなければ良かったと思ってしまった。あんなにも分かりたいと思っていたはずなのに。ただ無邪気に笑っていた過去の自分が羨ましくて、でも腹立たしくて堪らなかった。先輩の顔がみれなくて、スカートの裾が握ってしわが寄せているのをただ見つめていた。

「別に誰にも会わなくても良かった。眼のことを言ったことで、かえって気を使わせるのも嫌だし。でも、木下だけがどうしても心残りだったんだ。きっとあの時、傷つけてしまっただろうから。ずっとそれだけを謝りたかった」

「そんな! 逃げたのは私だし、謝るのは困らせた私の方です」

「お前の歌、ずっと聴いていたんだ。木下が誰の事を想って歌っているのかは聞かなかったし分からなかったけど、俺だったらいいなって思った。こんなにも誰かを見て想ってくれる奴なんて他にいないだろうなって」

「じゃあ、先輩は怒ってないんですか?」

「当たり前じゃん。俺、木下の事結構好きだったし。歌でも何でも気になる子が自分のこと好きかもしれない、なんて分かったらそりゃ嬉しいっしょ」

「え、今告白しました?」

「したよ」

 ぼっと顔に熱がこもったから恥ずかしくて顔を逸らして見れば、夕日が沈みかけているのが目に入った。あぁ、残った時間は僅かだ。そう思ってどうにか話を続ける。

「先輩の眼、今はまだ見えるんですか?」

 告げた言葉はあまりにも直球だったかもしれないと後悔したけれど、先輩はあまり気にしていなかった。んー、と考えあぐねてその後すこしおどけたように先輩はわらった。

「丁度、使い捨てカメラみたいな感じだと思う。今流行りじゃん?」

 そんなことを言いながら先輩は、指でカメラの形を作った。少し褪せた色はきっと先輩には優しく写っているんだろう。どう返せばいいのか分からないけれど、無理に返す必要もないのかなと「エモいですね」と返した。すると先輩はその返答に満足したらしく「だろ」と頷いてくれた。なんなら、想像以上にツボに入ったらしくしばらく笑い呆けていた。

「ありがとうな」

 2秒迷った。先輩のためにできた事なんて本当に些細なものだと思うから。でも、否定するのもなんだか違うような気がした。先輩が感謝しているのは、話を聞いてくれたことなのか、こうして側にいることなのか。でも、どちらにしろ先輩がそういったのだから、受け取ってもいいのかなと思えた。

「ふふ、どういたしまして」

 私は微笑んだつもりだった。けれど、先輩は泣きそうなくらいに顔をくしゃくしゃに歪めて笑った。

 私が想像している以上に先輩の心の中は難しくてどうしようもないんだろう。ずっとずっと悩んで、結局ここまで戻ってきた。それでも、きっと先輩はゆっくりと時間をかけて変わりゆく世界を愛していくんだろう。だから今こうして伝えてくれたのだ。

「泣かないでよ」

「泣いてません」

「そっか」

 泣いてないと言っているのに、先輩は私の頭の後ろに手を伸ばしてそのまま引き寄せた。鼻先にくっついた先輩のパーカーからはお日様の春の匂いがした。それがあまりにも暖かくて心地よかったからだと思う。涙腺が緩まってしまいそうになる。それでも泣くまいと力を込めていれば「ごめんな」なんて先輩がいうからやっぱり駄目だった。

「見て」

 見せた画面は、高校時代にこっそりと隠し撮りしたものだ。当然、今日の分も数枚だけある。未来永劫本人には見せるつもりはなかったのに。

「先輩はちゃんと今を楽しんでます。きっとこれからもそうです」

 訳の分からないことを言っているのは自分でも分かった。けれど、それしか出てこなかった。だって「頑張れ」も「側にいる」も無責任すぎて言葉になんてできない。本当はずっと離れたくなんてないし、支えていたい。けれど好きなだけじゃダメなこともあるんだって、今なら分かる。先輩の覚悟を何よりも大切にしていたい。

「俺、木下の前でこんな顔してたんだ」

「これ、私の秘蔵コレクションにするつもりだったんですよ。せっかくこっそり集めてたのに」

「お前、俺の顔好きだよな」

「はい」

「そこは、中身もだって言えよ」

「自分でいいますかね?」

「だって俺、性格いいもん」

 自分で言うなと思ったけれど、あえて褒めることにした。

「ふふ、知ってますよ。先輩が優しいことくらい」

 誰よりも周りを見ていて、それでいて優しさゆえに不器用な人。

「きっと先輩は素敵な人なのでどこに行っても一人になんてなりませんよ。私や先輩の友人と離れたって、新しい街の人達とやっていけると思います。すっごく悔しいですけど。……だから、きっと」

「うん」

「きっ、と」

 先輩の少し硬い指が頬に触れた。それで、また私の涙が零れたんだと分かった。

「うん、大丈夫。俺はちゃんと幸せだし、これからだってそうだよ」

 確かめるように、言い聞かせるように言葉を零した先輩はもう迷わないんだろう。

「もし、もしも先輩が辛い時や、どうしようもない時は言ってください。力になりますから」

「お前も大概俺に甘いよな」

「やっぱり今の無しでお願いします」

「噓だって。じゃあさ、一つだけ頼んでもいい?」

 真剣な表情でこちらを見つめるから、少し身構えてしまう。先輩から頼られるなんてことは今まで一度も無かったから。私がいいと言葉にするよりも早く、先輩はその先を続けた。

「今日の事、これまでの事、歌にしてよ。木下と一緒に過ごした日々も景色も忘れたくないんだ。色が見えなくなったってきっと木下の歌を聴けば思い出せるだろうから」

 ぐ、と喉の奥がつっかえるような感じがした。歌いたくないわけではない。ただ、もう一押しの勇気が足りなかったのだ。

「無理です」

「なんで」

「だって、もう、こんな事していていい歳でもないし。来年には就活もしないといけないし」

 逃げる言い訳はかっこ悪い位にスラスラと出てきた。 

 本当は、非公開にしているだけでアカウントは残している。やめようと思いながらも、何度も誰もいない部屋でノートに詩を書きなぐった。ギターの練習だって欠かさないようにしている。どれだけ、嫌になったって怖くなったって、やっぱり好きで捨てられなかった。

「ちゃんと理由を教えてよ。笑わないし、馬鹿にだってしないから言って」

「すみません、噓つきました。歌いたいです。でもどうしても頑張れないんです」

 あの頃の最強だった私はどこにも存在しない。ここにいるのは、妥協で出来上がった偽物の大人だ。先輩の事だってずっと思い続けられていたかは、自信が持てない。なんなら、詩にしたって先輩の想像と違えば幻滅されてしまうかもしれない。

 何かしたいといいながら、何も出来ない自分に嫌気がさしてくる。

「分かった、俺は木下を困らせるつもりは無いし無理には言わねーよ。でも、木下のおかげで俺は救われたんだよ」

「……先輩はやっぱり狡いですよ」

 まるで呪いだと思った。私は、そんな事を言われてしまえば歌うしかない。

「俺は、どこにいたって木下の歌がお守りになるんだ」




 それから先輩は静かにこの街を出た。

 公園で話した次の日から姿を見かけないと思っていたし、何となく打ち明けてくれたということはそういう事なんだろう。

 風花さんは、カフェで話した日以降、時々声を掛けてくれるようになった。それは先輩が居なくなって2年経った今も変わらない。初めは先輩の事が気になるのかなと思っていたけれど、詮索することは無かった。それどころか「私が知りたいのは樹じゃなくて貴方のことだからね」と念を押された。心の内はばれていたようで、それには苦笑いをするしかなかった。

「風花さん、一ついいですか?」

「ん、なぁに?」

「その指ってもしかして……」

「今日は報告にきたのに先に言われちゃったわね」

 風花さんの相手の人は幸せだろう。もしもこの瞬間をともにしていれば誰もがそう感じるだろう。春を呼び起こすような喜びに満ちた微笑みだった。こんなにも綺麗に笑える人を逃すなんて先輩も大概もったいない。そんな事をつい思ってしまった位には私も見蕩れてしまった。

  

 タイミングというのは凄いものだ。風花さんから結婚式が届いた次の日に、先輩から荷物が届いたのだ。

 厚みのある茶封筒。中には沢山の写真が入っていた。ぼやけているミモザや指の入った青空の写真。見た事の無い街並みやお世辞にも上手とは言えないような写真もいくつも入っていた。どれも先輩が大事にしたいと思ったんだろう。

  

  

 拝啓 木下 彩春様


 久しぶり。

 これ、お前と過ごした後に撮った写真なんだ。下手くそなのは分かってるけど、どうしても渡したくてさ。俺が今まで見てきた世界を知ってて欲しくて。

 要らなかったら処分するなりしてくれてもいいから。

 勝手でごめん。頼ってばかりでごめんな。

 どうか、元気で。それだけをずっと願ってるから。

  

 P.S. お前の歌、やっぱいいな。

  

  

  

  

 春の包み込むような懐かしさを歌った。

 夏の空の青さを歌った。

 秋の寂しさと紅葉の姿を歌った。

 冬の真っ白な優しさを歌った。

 先輩がどんな時でもいつだって世界が色付くように。


 ふわりカーテンが揺れた。日の光が差して部屋は柔らかな明るさに染まった。こんな何気ない景色を見るたび、先輩の事を思い出す。頭の中に浮かぶたびに、その面影を詩にした。今までだってそうだし、これからもきっと変わらない。

 そうしていればいつかまた、先輩に会える気がするから。


 次の春はすぐそこだ。

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