第3話 岡部 舞依
私の名前は、岡部 舞依(おかべ まい)。猫が好きな、ごく普通の花の女子高生。
というのは真っ赤な嘘。高校には行っていない。受験すらしていない。年齢は十八歳。無事に進学していたら、高校三年生だろうか。
私の両親は、口もきかない、友達も勉強もできない、ただ自室にいて生きているだけの私に対する理解を放棄し、そして嫌悪した。私が中学を卒業すると同時に、ペットが飼えるアパートに押し込んだ。よくアパートの一室を借りる余裕があったものだと思ったけれど、どうやら祖父母にお金を出してもらっているらしい。母方の祖父が会社を経営していて、ざっくり言うと金持ちなのである。
弟がひとりいる。私と同じ陰気で根暗な性格のようだけど、私がこんな風に育ってしまったせいで同じ道を歩むことは許されず、無理やり運動部に入らされていじめられて泣いて帰ってくることもしばしばだった。弟が部室で素っ裸にされたとかで両親が学校から呼び出されたとき、私はまだ実家にいた。
「姉ちゃんが!」
弟と両親が夜遅く帰宅したその日、弟はなぜか私に燃えるような憎悪の瞳を向けた。
「姉ちゃんがそんなんだからいじめられるんだ、俺はっ!」
弟が言うには、中学校に一度も来ない姉をからかわれてこうなったということだった。
しかし、ほとんど行ったことのない学校というものも、出会ったこともない中学生というものも、私にピンとくることはなく、そうなのか、そうなのかもしれないと、弟の頬を伝う滂沱と、両親の蔑むような瞳がまるでドラマのワンシーンを見るように遠く思え、それから家族の私に対する感情はますます冷えた。
アパートに移されたのは、特に弟の生活環境に良くないからという理由だった。ペットOKなのは偶然ではなく、もともと両親は私に犬の世話をさせるつもりだったらしい。生き物と触れ合うことで、少しでも情緒を育ててほしいという願いがこめられていた。願いをこめてもらえるだけ、大切にされていたのか。それとも、ペットに情緒の涵養を頼むほど見放されていたのか。どちらだろう。分からない。
生活費は与えられていない。必要なお金はおそらく祖父母の口座から引き落とされていたのだろう。日曜日の夜になると、一週間分の食材と、猫の食事と猫砂が、宅配で届いた。服や歯ブラシなどの日用品は数か月に一度、お風呂や衣類の洗剤なんかは月に一度くらい届いた。近所のスーパーに出かけたことはあるが、お金を持っていないので何も買えない。家族連れの賑やかな声を味わって帰ってくるだけだった。
私から家族に対して言葉を発することはなかったので、両親は私が必要とするものなどは一切知らない。私も、両親から与えられるものが自分の世界のすべてなので、特に望むものはなかった。
一度だけ、祖父母に欲しいものをメールで送ったことがある。ハチとコノの薬と、ワクチン代だ。猫は1ヵ月に一度、ノミやフィラリアを予防する薬を垂らさなければならない。ワクチンは年に1回。両親が知っているのかどうかは知らないが、祖父母は月に一度だけ私のところに来て、薬を渡してお茶を飲んでいった。ケーキや紅茶も買ってきてくれた。何もしゃべらない私を「かわいそう」だと繰り返し言い、「お父さんのせい」と父をなじり、ハチとコノのことを「かわいくない」と言って帰っていった。
ハチとコノは可愛いよ。もし私がしゃべれるようになったら、祖父母にはそれを言いたい。いや、その前に、お薬とかお菓子をありがとうか。来てくれることも。両親とは、二年以上会っていなかった。
両親も弟も祖父母も、この世界にはいないのかもしれないな、と思った。あるいは、取り残されているのは私たちだけで、家族のほうが別の世界に避難しているのかもしれない。そう、たとえばこの世界には死が迫っていて、引きこもったりしていないまっとうな人間は、既に別の世界に逃げているとか。そのほうがいいな。家族は特に悪いことをしていないわけだし。ハチとコノもしていないけど。
そうなのだ。私は岡部 舞依。家族は、両親と祖父母と弟、そして二匹の猫。この世界にいるのは、今分かっている限りでは、猫と私だけ。
守らなくちゃ。ハチとコノを。
確かめなくちゃ。この世界を。この世界が、どうなっているのかを。
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