自称人間
顔を上げると、たまに枝葉の間から三日月が覗く。
不気味なそれらを避け続ける間も、おしゃべりをやめないありさの存在は大きく、心のゆとりになっていた。
『――でね、手すりから落ちて思っきり鉄骨に頭ぶっけて、それから水面に叩きつけられて、骨折しぃの溺死よ。めっちゃ痛かったわ』
「こえーよ」
雑談の中でわかったことは、若くして人生に混迷したありさが当てのない旅に出た末、秘境駅に辿り着き、次第に
「大体、なんでわざわざ自殺するかな……」
紆余曲折はあっただろう。ありさの選択こそ、蓮那の心にざわめきと、確実な焦りをもたらした。
なにも食べずに、仕事も行かずに、家のリビングで横になっていれば、いつか死ねる。巨大なウジ虫にたかられ、糞尿どころか、体の大部分をドロドロと床に垂れ流し、万人から
『
「……あぁ、確かにそうだ。ごめん、
蓮那が反論を諦めたのは、適正な
「み、道だ……!」
暗がりの中で見たのは、通り過ぎてゆく光明のごときヘッドライトだった。時刻は一九時半。かれこれ一時間も、森の中を歩いていたようだ。もし、ありさのナビがなかったら――と考えると、少しぞっとする。
『良かったね。あとはタクシー呼んじゃお』
「はぁ……はーあ、疲れた……ありがとう。っ、はぁ……ホント助かったよ」
『大丈夫? だいぶ疲れてるけど』
「あ、いや……これは――」
『運動不足だ? あはは、オジサンじゃん』
彼女の笑いには屈託がなく、清々しい元気があった。対する蓮那は、似て非なる笑みを返した。
一息つき、地図アプリで確認した位置情報をもとに、タクシーを呼んだ。約二十分、自称幽霊と雑談を続けていると、街でも見慣れたセダンがやってきた。
乗車し、疲労をシートに沈めながら目的地を伝えたところまでは良かった。が、発進してすぐ異変は起きた。運転手の目線が、フロントとバックミラーとを行ったり来たりしているのだ。
蓮那はたまらず、「どうしました?」と尋ねた。
対して運転手は、「僕、見えるんです」と意味深な反応をした。
あとに続いて、『あはは、ゴメンって言っといて』と苦笑が聞こえた。
「白いカーディガン着た茶髪の人が、『波長があってゴメン』だそうです」
「自覚していらっしゃるのですね……」
宿泊しているホテルに着いたのは二十一時前だった。部屋に戻ると、自室さながらにベッドに座りこんだありさが、『さて、改めて本題に移るね』と、一息いれる暇もなく本筋を持ちかけてきた。
「なんぞ?」
『わたしのSSD――つまり、デジタル遺産を抹消してほしいの』
意外にも彼女の依頼は、非科学的な存在らしからぬ現代的なものだった。
「データの抹消か。でも、ご遺族が処理しちゃってるんじゃ?」
『わたしは家族、友人、同僚、恋人が居なかったぼっち女。すなわち、誰もわたしの死に気づいてないのだよ。あと自称って言うな』
蓮那は黙って、その意を
ここまで個を突き通す、うら若い女性である。さぞかしパソコンの中は、見せられないファイルのオンパレードなのだ。とてつもない性癖もしかり、当然ながら金融情報もしかり――ありさは、はにかむように目を逸らしてしまった。
死んだ人間に羞恥があるのも、おかしな話であるが。
翌朝。
『そうだ。成功報酬、何割か出したげよっか? 銀行から下ろして良いよ』
「バレたら捕まるだろ……。それに俺は、過ぎたるお金なんて要らないよ」
『割と謙虚ね?』
「いやさ、俺も今のうちに遺品整理しておかないといけないし」
『気ぃ早っ……。ふーん、まあ良いけどね』
最寄駅からありさ宅までは徒歩十分。七階建の細長いマンションは、内廊下タイプだった。部屋の鍵を使ってエントランスのドアを開けると、
『701号室ね。階段には防犯カメラないから、運動不足解消だと思って頑張って』
一歩目を踏み出した瞬間から、文明の利器の使用を却下された。
「鬼かよ」
『幽霊ですけど?』
最初はブウブウ言っていた蓮那は、途中からハアハアし、最上階ではヒイヒイに変わっていた。『701』の扉の前で呼気を整えつつ、コンビニで購入した軍手をはめると、住人のような自然さで開錠と入室を行った。
部屋には女性独特の匂いが残っていた。カーテンが開きっぱなしのワンルームは整頓されているが、ベッドの上には何枚かの衣類が散らばっている。
『ジロジロ見ないの。ほら、机にPCあるっしょ? それのSATAぶっこ抜いて。あぁ、ドライバーは
右奥にデスクがあり、埃がうっすら積もったノートパソコンが、ちょこんと居座っていた。指示のとおり電源コードを抜くと、ノートパソコンをひっくり返してネジを外し、作業に取りかかった。
「そういや、ありさっていつ死んだの?」
『一ヶ月くらい前かな』
「死体は上がってない?」
『色んな
雑談の片手間に、
最後に、データ復旧が不可能なまでにハンマーで粉砕し――
『おつかれー! ミッション完了じゃん!』
ありさの労いとともに、蓮那の役目が終わった。出会ってこの十数時間は、極めて濃厚だったと言えるだろう。
『ところで、なんで引き受けてくれたの? 頼んどいてなんだけど、下手すりゃ蓮那が疑われるよ? 呪うーなんてハッタリだし、もう少し嫌がると思ったのに』
尤もな疑問だと思った。すんなりと自称幽霊を信じ、言うことを聞き、今は自宅への入室さえ許可しているのだ。
「ありさに出会って、死後の世界に興味を持ったから。遺品整理は大事だってことも気づかせてくれたし」
『んー? 部屋片づいてるし、めっちゃミニマリストじゃん』
「いや、まあ……。あっ、それより割と楽しかったよ。ありがと」
『こちらこそ。そのポーチは可燃ごみにでも出しといて? それじゃ……バイバイ』
フランクな別れの末、互いが笑顔を交えると、窓の外のジョウビタキの声がやけに耳に入ってきた。空気が軽くなり、ありさの声や姿は感じられなくなった。これで無事に成仏したのだろうか?
「疲れた……無理しすぎたか……」
蓮那はそのままベッドに倒れ、泥のように眠ってしまった。
翌日、十一時。
徒歩で最寄のスーパーに向かい一週間分の食料を買ったあと、イートインスペースでコーヒーを飲みながら時間を潰した。
四十分ほどで自宅に戻ると、アパートの前にはパトカーが停まっていた。かてて加えて、蓮那宅の前の外廊下には
「え、バレた? いや、まさか……」
ありさ宅に侵入してSSDを拝借したのは昨日の今日である。日本の警察はこんなにスピーディではない。では別件か。
「あのー、俺の部屋になにか? 住人の
「先ほど、こちらの部屋に男が侵入したとの通報がありまして」
蓮那は部屋に近づき、平静を装って警察官に声をかけると、それはもう想定外の出来事を告げられた。慌ててエコバッグを置き、免許証を自ら提示した。
「やば、鍵かけ忘れたか……。え、泥棒?」
「いえ、容疑者はすでに逮捕しました。ですが、不透明な点が多く――」
経緯はこうだ。
警察が到着すると、男が玄関で倒れており、現行犯逮捕。
男は容疑を認めた上で、なにも盗んでいないと主張。
その言葉どおり、部屋が荒らされた形跡はなし。
不可解なのは、蓮那の電話番号から110番通報されていた点。
なおかつ電話の声が若い女性だったという。
「俺は独り暮らしだし、スマホは家に置いてったんですが?」
問いに答えながら、徐々に全容を理解していった。今はもう、悪い予感しか頭になかった。靴を脱いでリビングに移動すると、
『やっほー』
予想どおりである。自宅のようにくつろぐ
――部屋は荒らされず、盗まれず、かつ容疑者が玄関で気絶している異例の事件はスピード解決し、空き巣としても扱われなかった。
蓮那は軽い事情聴取を受けたが、それほどの時間は要さず、当然ながら被害届も出さず、容疑者との示談も行わない意志を見せた。これ以上、他人の介入によって時間を無駄にしたくなかったのだ。
連中が完全に帰ると、時刻はもう昼下がりになっていた。
『不用心だなあ。わたしが犯人やっつけなきゃ、今頃大変だったよ?』
「成仏しろよ……」
しかし、他人が侵入した家なんて、自称幽霊が出る駅より気味が悪い。
『お礼は? はい、ありがとうは?』
「ありがとうございます……。で、なんで居んだよ? くしゃみすんぞ、くしゃみ」
『追い出そうとしないで! あのね、ひとつ教えてほしかったの。蓮那って元から幽霊見えたの? ほら、出会った時も驚いてなかったし』
ありさはベッドに座りながら、あと何ヶ月も居座りそうなオーラを醸している。蓮那は不本意にも苦笑してしまい、その横にゆっくり座った。
「ふふっ……まあ、最期だし言っておくよ。昔から非科学的なモンは信じなかった。でも昨今、そっち側に近くなって、ちょいちょい見えるようになったんだ」
『え、そっち側?』
触れそうで、触れられないふたり。距離はもう、他人のそれではなかった。
「半年前だったよ。がんを宣告されたのは」
蓮那の告白の末、ありさは理解できない様子で、目を見開き続けていた。顔が近すぎると、相手の感情もすぐにわかってしまう。
「あと二年。すなわち、それが俺の余命なんだってさ」
それは、もう誰にも言うまいと胸の内にしまった、人生最大の宣告。片時も離れない唯一無二の事実なのに、こうして自ら口にすると、医師の声やら動悸やらが蘇ってくるようだった。
しばらくして、フリーズしていたありさに変化があった。
『あ……あの、わたし……ご、ごめんなさい! 色々ひどいこと……』
どんぐりのような目を見開き、涙を落とし、ようやく死人らしい絶望的な表情で、しきりに頭を下げ、自責の念に駆られ始めたのだ。
「こんなこと言うと、俺が感化されたみたいになるけど――」
蓮那はすぐに、その思いを受け取った。
「生きた人間と話すより、よっぽど楽しかった」
こんなに人柄の良い女性が自殺したのは、時代のせい――それで良いではないか。笑いかけると同時に、ありさの両眼から流れるものが増量した。しかし、実体がないのにどこから流れているのだろう。おかしな幽霊である。
「事情を知った知り合いは、無理に励ましてきたり、平静を装ったり、一切連絡をよこさなくなったり――でも、そういうのって逆にこっちが気ぃ遣うよ。なあ?」
返答はなかった。その間も、無情に時間が流れてゆく。無情なのに心地よかった。
『ねえ?』
もう――外が暗くなっていた。
ありさの声に反応し、蓮那はゆっくりと再起動した。
『死ぬまで一緒に居てあげようか? 幽霊には気ぃ遣わなくて良いじゃん』
ありさは止まった時間の中で、最善の選択肢を選んだつもりなのだろう。
「そっか。そうだな……こんな自称人間で良ければ、たまに話し相手になってくれ」
『うん……ありがとう』
もはや蓮那は、彼女がなにを発言しようと肯定する気だったのだ。
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