秘境駅の常套句
常陸乃ひかる
自称幽霊
『――こんばんは』
秋の風が吹いた。
大きな川に抱きこまれた
そこは秘境駅なんて
あくまで、昼間なら。
現在、十八時過ぎ。終電に乗り遅れ、ほかの誰も見当たらない秘境駅に取り残された男の名は、
日の高いうちは、秘境駅を彩る赤とか黄とか、暖色の衣をまとった木々に目を輝かせ、小春を楽しむ余裕があった。けれど、たちまち空に漆黒の衣が広がると、杞憂に打ちひしがれるしかなかった。
『――こんばんは』
吹きさらしの小さな待合所にも、木枯らしは攻めてくる。
時刻表を眺めてはベンチに座る――それを繰り返す頭上には、ひとつばかり裸電球があり、力なく始発と終発の数字を照らしている。プラットホームには四、五基ほどのポール
「始発が十一時……」
次に電車が来るまであと半日以上ある。
自己嫌悪は怒りに変わり、冷たい風に晒されてもどかしさに変化する。このちっぽけな闇の一部で、自分だけが世界に取り残される錯覚を覚えた。
蓮那は震える底意を拭いきれず、ジャケットのボタンを留め、膝を抱えてベンチでじっとしているうちに、眠りに落ちてしまった。大概の人が家路につく頃合い、夜に向かってじっくりと月が昇ってゆく。
『――こんばんは』
不意に、か細い風の声で目を開けた。端末に目を落とすと、五分ほどが経過していた。山の寒さは
正面に目を移すと、竹製ものさしで測れるほどの段差があり、一段下がったところに、上りと下りを併用する一本の線路が伸びている。
ひとたび踏み出せば、ひとりスタンド・バイ・ミーも夢ではない。
待合所の裏手には陸地があるが、どこまでも山である。
そこを通ってアスファルトを目指すなんて、無謀以外の何物でもない。
待合所から右手にはトンネルがあり、向こうは見えない。左手には鉄橋があり、人がすれ違えるほどの歩道がある。その途中、
「ん? 人影?」
末端のポール灯にぼんやり照らされた人物があったのだ。グレーのワンピースの上に、白いカーディガンを着た女性が、茶色いミディアムを揺らしている。
「ってことは、どこかにつながる道があるんだ。あぁ良かった」
孤島での絶望は消え、不意に笑みを浮かべた。彼女に事情を説明し、帰り道を尋ねれば良いのだ。蓮那は待合所の裸電球から、ポール灯の明かりに身を晒し、ブラウンのブーティが認識できる距離まで近づいた。
しかし女性は、背を向けたまま、どんどん鉄橋の奥に歩いていってしまうではないか。その先に道があるとは思えない。
蓮那は一度足を止め、目を瞑り呼気を整えた。――そうして目を開くと、明度の低いポール灯は、ただ寂しげな鉄橋の一部だけを照らしていた。にわかには信じられないが、女性の姿はもうなくなっていたのだ。
蓮那はざわつく心を抑え、普段の半分ほどの歩幅で鉄橋を進んだ。白いインナーが闇に同化するには、それ相応のトリックが必要である。
『……こんばんは?』
周辺の木々がざわめき、向かい風から顔を逸らした。ふと真横に気配を感じ、視線が引き寄せられる。にわかには信じられないが、その暗がりには人があったのだ。華奢な右手で
その異様な光景を認識すると同時に、蓮那の背中が冷たくなった。女性は、あたかも目撃者を待っていたかのように、自宅のドアノブを回す手軽さで右手を離し、鉄橋に乗せていた両足共々、
――どうやら、とんでもない現場に立ち会ってしまったようだ。
「嘘だろ……」
蓮那は口を半開きにし、欄干から上半身を乗り出し、川を見下ろした。ところが数十メートル下は、墨汁を一面に張ったかのような
「どこ行っ……あっ……」
そのまま目線を手前に移動させると、なにかが動いているのが目に入った。目を凝らすとそれは、いびつに歪曲した腕が鉄骨の間に挟まり、ぶらぶらと揺れている女性の体だった。もがきはせず、悲鳴さえ上げていない。
もう息はないのだろうか。最悪の事態を想定している最中、女性は――
ほどなく蓮那の眼球にこびりついたのは、顔面を覆う浜辺の海藻、浮世に存在してはいけない青紫の相貌、蓮那を凝視する虚無の微笑み――
「げぇ……」
蓮那は答えを出すのを諦め、待合所へと駆け戻った。とにかく間近に光が欲しかった。波打つ脈拍、絶え絶えの息、いつ吹き出したのか定かではない汗――
尤もらしく、『見間違い』と言えなかったのは、鮮明な
蓮那の目線は恐怖により鉄橋に固定され、その暗がりでは、もぞもぞと白い物体が蠢いている。彼女が、執念の塊のように這い上がってきたのだ。
ほどなく欄干を乗り越え、歩道の上にごろりと転がった。そうかと思うと、すっと直立し、ゼンマイ式のようなかくかくした動きで蓮那を見据え、そろりそろりと迫ってきた。
「待て待て待て――!」
パニックによって単調な拒否を何度も繰り返すが、女性はお構いなしに
『こんばんは? そっちこそ待って、わたし無害だから。落ち着いて?』
白い息もなく、消えてしまいそうな声が生まれた。蓮那は首を振り、対応そのものを否定すると、女性は不機嫌そうに頬を膨らませた。
『挨拶は基本でしょ? はい、こんばんは』
「こ、こんば……え、人間? どうやっ、登っ……」
『残念、わたしは幽霊。あと挨拶しなさい』
「あ、すみません……こんばんは。まあ、人間じゃないなら安心したよ」
蓮那は表情を張りつつも、自称幽霊がコミュニケーションを取れる物体だと知り、徐々に平静を取り戻した。
『意外な反応。もっと驚いてくんないと呪うかんね? ところであなた、こんな時間になにしてるの?』
出会って一分で呪おうとしてくる女性は、魅力的なフェミニン怨霊だった。
ライトノベル風のタイトルになりそうな、実に攻撃的な自称幽霊は、気さくに雑談を続けてくるではないか。なかなか面倒臭い奴に絡まれたかもしれない。
「終電に乗り遅れて、自称幽霊にエンカウントしてる」
『自称って言うな。あとこの駅、片道六本しかないし。ちゃんと調べた?』
不服そうな自称幽霊が海藻――もとい、湿ったブラウンの前髪をかき上げると、細い眉にぱっちりとした
年齢――もとい、享年は二十代半ばくらいか。
『あなた、もしかして――』
「それ以上、言うな」
『朝まで待ちぼうけ系男子?』
「言うなって」
蓮那が溜息をつくと、女性は悪戯っぽさを表情に含ませながら笑った。
『あ、そうだ。帰り道、教えてあげよっか? 昼前まで幽霊の話し相手なんて嫌でしょ? 代わりに、わたしのお願い聞いてくんないかな』
わずかな沈黙の末、陽気な自称幽霊は、この場においての真理を口にした。面倒事は避けたかった蓮那だが、成り行き上とても合理的なのは間違いない。
「帰り道って、あの山のこと?」
『ここ寒いよ? あと半日も耐えれるかなー?』
「あぁ……。キミが何者だろうと、渡りに船ってことか」
『んじゃ、交渉成立かな? あっ、わたしはありさ』
彼女は目的を明瞭にしないまま名を名乗ったあと、あごを動かし、『ん』と言い放つと、蓮那にも自己紹介を強要してきた。
ふてぶてしい自称幽霊である。
「……蓮那。ロータスに那覇の那」
『ふふっ、可愛い名前じゃん』
ありさは満足そうに、軽く口に手を当てて目を細めると、
『そうと決まれば長居は無用。ねえ蓮那、出発の前に渡したい物があるんだ』
本題に入るように、ありさが鉄橋に人差し指を向けた。言われるまま蓮那が足を向けると、末端のポール灯の手前で、
『そこにポーチ引っかかってるでしょ』
欄干の細い子柱を指差した。ひざを折って確認すると、長めのヒモが巻きつけてあり、その先にはショルダーポーチがぶら下がっていた。
腕を伸ばし、
『はーい、クエスト発生。その中に、わたしの自宅の鍵が入ってるから、まずは某マンションに侵入してくんない?』
ありさが人差し指を立てて薄笑いを浮かべた。どうやら、アリ地獄の砂に片足を突っこんでしまっていたようだ。
「あ、クエスト
『おい! 家主と一緒だから大丈夫! ってことで取り憑くから!』
「気軽に憑くのやめてもらって良いですか……」
蓮那は反射的に、霊と一心同体になる嫌悪を吐き出したが、反応を楽しむかのように、ありさが目を細めてきた。
『わたしは立派な自縛霊。つまり、憑かないとこっから出らんないわけ』
挙句、うそぶきながら霊の常識を語られた。が、まるでピンとこない。
蓮那はうつむきながら溜息をついて目線を上げると、ありさの姿が消えていた。
『これで大丈夫』
代わりに、残業帰りの気疲れにも似た疲労感により全身が重くなった。のみならず、頭のてっぺんから、ありさの声が聞こえてくる。
無事に憑依されたようだが――あゝ、実に不気味だ。
『あと、くしゃみ厳禁ね。その拍子に憑依が解けるから』
「幽霊の常識を語る地縛霊って、IT用語を頻発する意識高い系みたいだな」
『あぁ、どっちも自分の知識に酔ってるってこと? ってやかましいわ!』
――蓮那は今後、ティッシュを持ち歩き、いつでもこよりを作れるようにしようと心に誓った。
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