秘境駅の常套句

常陸乃ひかる

自称幽霊

『――こんばんは』

 秋の風が吹いた。

 大きな川に抱きこまれた深山みやまの小島に、鉄橋がかかっている。小島自体は駅の役割を果たしているが、日常では使われていない。

 そこはなんて揶揄やゆされる山の懐で、昼間は仲の良さそうな老夫婦、女子大生、はたまたひとり旅をする青年などがちらほら見受けられる観光地だ。

 あくまで、昼間なら。

 現在、十八時過ぎ。終電に乗り遅れ、ほかの誰も見当たらない秘境駅に取り残された男の名は、川柱かわしら蓮那はすな。郊外在住、三十ミソを過ぎた休職者で、その余暇を利用してここに居る。いやはや、素晴らしい余暇バカンスではないか。

 日の高いうちは、秘境駅を彩る赤とか黄とか、暖色の衣をまとった木々に目を輝かせ、小春を楽しむ余裕があった。けれど、たちまち空に漆黒の衣が広がると、杞憂に打ちひしがれるしかなかった。


『――こんばんは』

 吹きさらしの小さな待合所にも、木枯らしは攻めてくる。

 時刻表を眺めてはベンチに座る――それを繰り返す頭上には、ひとつばかり裸電球があり、力なく始発と終発の数字を照らしている。プラットホームには四、五基ほどのポールとうもあるが、それもまた明るさのレベルが低かった。

「始発が十一時……」

 次に電車が来るまであと半日以上ある。

 自己嫌悪は怒りに変わり、冷たい風に晒されてもどかしさに変化する。このちっぽけな闇の一部で、自分だけが世界に取り残される錯覚を覚えた。

 蓮那は震える底意を拭いきれず、ジャケットのボタンを留め、膝を抱えてベンチでじっとしているうちに、眠りに落ちてしまった。大概の人が家路につく頃合い、夜に向かってじっくりと月が昇ってゆく。


『――こんばんは』

 不意に、か細い風の声で目を開けた。端末に目を落とすと、五分ほどが経過していた。山の寒さはいやらしく、良いところで眠りを阻害してくる。

 正面に目を移すと、竹製ものさしで測れるほどの段差があり、一段下がったところに、上りと下りを併用する一本の線路が伸びている。

 ひとたび踏み出せば、ひとりスタンド・バイ・ミーも夢ではない。

 待合所の裏手には陸地があるが、どこまでも山である。

 立木たちき樹木じゅもくTreeツリー――どこまでも野山である。

 そこを通ってアスファルトを目指すなんて、無謀以外の何物でもない。

 待合所から右手にはトンネルがあり、向こうは見えない。左手には鉄橋があり、人がすれ違えるほどの歩道がある。その途中、

「ん? 人影?」

 末端のポール灯にぼんやり照らされた人物があったのだ。グレーのワンピースの上に、白いカーディガンを着た女性が、茶色いミディアムを揺らしている。

「ってことは、どこかにつながる道があるんだ。あぁ良かった」

 孤島での絶望は消え、不意に笑みを浮かべた。彼女に事情を説明し、帰り道を尋ねれば良いのだ。蓮那は待合所の裸電球から、ポール灯の明かりに身を晒し、ブラウンのブーティが認識できる距離まで近づいた。

 しかし女性は、背を向けたまま、どんどん鉄橋の奥に歩いていってしまうではないか。その先に道があるとは思えない。

 蓮那は一度足を止め、目を瞑り呼気を整えた。――そうして目を開くと、明度の低いポール灯は、ただ寂しげな鉄橋の一部だけを照らしていた。にわかには信じられないが、女性の姿はもうなくなっていたのだ。

 蓮那はざわつく心を抑え、普段の半分ほどの歩幅で鉄橋を進んだ。白いインナーが闇に同化するには、それ相応のトリックが必要である。

 

『……こんばんは?』

 周辺の木々がざわめき、向かい風から顔を逸らした。ふと真横に気配を感じ、視線が引き寄せられる。にわかには信じられないが、その暗がりには人があったのだ。華奢な右手で欄干らんかんを掴み、ほぼ全身を空中に投げ出している女性が。

 その異様な光景を認識すると同時に、蓮那の背中が冷たくなった。女性は、あたかも目撃者を待っていたかのように、自宅のドアノブを回す手軽さで右手を離し、鉄橋に乗せていた両足共々、闇夜やみよにフェードアウトしてしまったのである。

 ――どうやら、とんでもない現場に立ち会ってしまったようだ。

「嘘だろ……」

 蓮那は口を半開きにし、欄干から上半身を乗り出し、川を見下ろした。ところが数十メートル下は、墨汁を一面に張ったかのような水面みなもが、山峡やまかいに広がっているだけで、波紋や泡沫うたかたが一切なかった。

「どこ行っ……あっ……」

 そのまま目線を手前に移動させると、なにかが動いているのが目に入った。目を凝らすとそれは、いびつに歪曲した腕が鉄骨の間に挟まり、ぶらぶらと揺れている女性の体だった。もがきはせず、悲鳴さえ上げていない。

 もう息はないのだろうか。最悪の事態を想定している最中、女性は――おのが意志で、ゆらりと顔を上げたのだ。ゆっくり、ゆっくりと。

 ほどなく蓮那の眼球にこびりついたのは、顔面を覆う浜辺の海藻、浮世に存在してはいけない青紫の相貌、蓮那を凝視する虚無の微笑み――

「げぇ……」

 蓮那は答えを出すのを諦め、待合所へと駆け戻った。とにかく間近に光が欲しかった。波打つ脈拍、絶え絶えの息、いつ吹き出したのか定かではない汗――

 尤もらしく、『見間違い』と言えなかったのは、鮮明な目鼻立めはなだちを記憶してしまったからだ。

 蓮那の目線は恐怖により鉄橋に固定され、その暗がりでは、もぞもぞと白い物体が蠢いている。彼女が、執念の塊のように這い上がってきたのだ。

 ほどなく欄干を乗り越え、歩道の上にごろりと転がった。そうかと思うと、すっと直立し、ゼンマイ式のようなかくかくした動きで蓮那を見据え、そろりそろりと迫ってきた。

「待て待て待て――!」

 パニックによって単調な拒否を何度も繰り返すが、女性はお構いなしに立冬りっとうの空気を払いながら、目睫まで迫ってきた。ほどなく、

『こんばんは? そっちこそ待って、わたし無害だから。落ち着いて?』

 白い息もなく、消えてしまいそうな声が生まれた。蓮那は首を振り、対応そのものを否定すると、女性は不機嫌そうに頬を膨らませた。

『挨拶は基本でしょ? はい、こんばんは』

「こ、こんば……え、人間? どうやっ、登っ……」

『残念、わたしは幽霊。あと挨拶しなさい』

「あ、すみません……こんばんは。まあ、安心したよ」

 蓮那は表情を張りつつも、自称幽霊がコミュニケーションを取れる物体だと知り、徐々に平静を取り戻した。

『意外な反応。もっと驚いてくんないと呪うかんね? ところであなた、こんな時間になにしてるの?』

 出会って一分で呪おうとしてくる女性は、魅力的なフェミニン怨霊だった。

 ライトノベル風のタイトルになりそうな、実に攻撃的な自称幽霊は、気さくに雑談を続けてくるではないか。なかなか面倒臭い奴に絡まれたかもしれない。

「終電に乗り遅れて、自称幽霊にエンカウントしてる」

『自称って言うな。あとこの駅、片道六本しかないし。ちゃんと調べた?』

 不服そうな自称幽霊が海藻――もとい、湿ったブラウンの前髪をかき上げると、細い眉にぱっちりとした双眸そうぼう、弓のような唇など、存外まともな素顔が露になった。当然、生気はないが。

 年齢――もとい、享年は二十代半ばくらいか。

『あなた、もしかして――』

「それ以上、言うな」

『朝まで待ちぼうけ系男子?』

「言うなって」

 蓮那が溜息をつくと、女性は悪戯っぽさを表情に含ませながら笑った。


『あ、そうだ。帰り道、教えてあげよっか? 昼前まで幽霊の話し相手なんて嫌でしょ? 代わりに、わたしのお願い聞いてくんないかな』

 わずかな沈黙の末、陽気な自称幽霊は、この場においての真理を口にした。面倒事は避けたかった蓮那だが、成り行き上とても合理的なのは間違いない。

「帰り道って、あの山のこと?」

『ここ寒いよ? あと半日も耐えれるかなー?』

「あぁ……。キミが何者だろうと、渡りに船ってことか」

『んじゃ、交渉成立かな? あっ、わたしはありさ』

 彼女は目的を明瞭にしないまま名を名乗ったあと、あごを動かし、『ん』と言い放つと、蓮那にも自己紹介を強要してきた。

 ふてぶてしい自称幽霊である。

「……蓮那。ロータスに那覇の那」

『ふふっ、可愛い名前じゃん』

 ありさは満足そうに、軽く口に手を当てて目を細めると、

『そうと決まれば長居は無用。ねえ蓮那、出発の前に渡したい物があるんだ』

 本題に入るように、ありさが鉄橋に人差し指を向けた。言われるまま蓮那が足を向けると、末端のポール灯の手前で、

『そこにポーチ引っかかってるでしょ』

 欄干の細い子柱を指差した。ひざを折って確認すると、長めのヒモが巻きつけてあり、その先にはショルダーポーチがぶら下がっていた。

 腕を伸ばし、牛皮ぎゅうひの感触が手に広がった瞬間、

『はーい、クエスト発生。その中に、わたしの自宅の鍵が入ってるから、まずは某マンションに侵入してくんない?』

 ありさが人差し指を立てて薄笑いを浮かべた。どうやら、アリ地獄の砂に片足を突っこんでしまっていたようだ。

「あ、クエスト破棄はきで」

『おい! 家主と一緒だから大丈夫! ってことで取り憑くから!』

「気軽に憑くのやめてもらって良いですか……」

 蓮那は反射的に、霊と一心同体になる嫌悪を吐き出したが、反応を楽しむかのように、ありさが目を細めてきた。

『わたしは立派な自縛霊。つまり、憑かないとこっから出らんないわけ』

 挙句、うそぶきながら霊の常識を語られた。が、まるでピンとこない。

 蓮那はうつむきながら溜息をついて目線を上げると、ありさの姿が消えていた。

『これで大丈夫』

 代わりに、残業帰りの気疲れにも似た疲労感により全身が重くなった。のみならず、頭のてっぺんから、ありさの声が聞こえてくる。

 無事に憑依されたようだが――あゝ、実に不気味だ。

『あと、くしゃみ厳禁ね。その拍子に憑依が解けるから』

「幽霊の常識を語る地縛霊って、IT用語を頻発する意識高い系みたいだな」

『あぁ、どっちも自分の知識に酔ってるってこと? ってやかましいわ!』

 ――蓮那は今後、ティッシュを持ち歩き、いつでもを作れるようにしようと心に誓った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る