その瞬間ちょっといい匂いがした
多分、知っている。
目を開けた瞬間の背中に感じる柔らかさ。正面に見える白さのまぶしさ。
時間が経つにつれて境界のない思考がきれいに縁を形作るようになってゆく。
将斗は知った。個室のベッドに寝かされているのだと。
直前の記憶はとにかく激しい感覚で、思い返すだけでも体がおびえてしまった。死に急いだトリアンナをなんとかしようとした結果、将斗自身が死を引き寄せるようなかっこうとなってしまったのだから仕方ない。日本に暮らしていて死に際を意識することなんてそうそうない。
体を起こそうとすれば力を込められなくて横たわってしまう。体中の筋肉が痛みで抵抗している。動かしていたわけでもないのに。魔法は実は筋肉で生み出されていた? そうなると実際に筋肉が傷んでいるのかもしれない。
やっとのことで体を起こして周りを見回す。なにもない部屋はトリアンナを寝かせた部屋と同じだろう。トリアンナ一人で大の男を別の部屋に引きずるのは難しいに違いない。
あるいは、魔法だったら。
一挙手一投足に至るまで悲鳴を上げるなかベッドをあとにする。子鹿の歩みで窓にすがりつけばまだ日は明るかった。日の光はてっぺんから降り注いでいる。
まだ日は沈んでいない。休日出勤の顛末が脳裏をよぎった。すっかり日が沈んでいた前回に比べれば今回はまだましだったというところか。いや、ましか?
自らの置かれている状況を認めた将斗としては、次に気になるのはトリアンナだった。途端に強迫にも似た不安感に駆られるのはナイフを突き立てる姿がありありと目に浮かぶからである。
脚は心もとなくて、壁や手すりを伝って階下に降りたところでトリアンナの姿があった。仕事をしている様子はなく、マグカップを両手で抱えて伏し目がちに飲み物を口にしている。刃物は周りに見当たらなかったし、何より彼女の表情には鬼気迫ったものがなかった。
トリアンナから感じる落ち着き。
不安で一杯の感情はたちまち安堵に取って代わり将斗の中を満たしてゆく。目の覚めるような強烈な感覚。鼻詰まりから開放されたかのような。視界さえもがクリアになったように感じられた。この上ないほどの幸福感が将斗を包み込み、脚力をまたたく間に奪っていった。
階段を椅子にしてペタリ座り込む将斗。
びっくりして足元を見た将斗が、力が抜けてしまったのだと気づいて顔を上げれば。
トリアンナが固まっているのを見た。黒目がまっすぐ将斗を見ていた。
次の瞬間には目頭にキラキラした粒がにじみ出た。瞬く間もなく大粒の宝石になって、いよいよ限界を迎えればほおを伝って一筋のきらめきとなる。表情をまったく感じさせない能面のような顔に流れる涙からは、トリアンナの感情を推し量ることはできなかった。
トリアンナと将斗の間の距離感。互いに距離を詰めることもできずにただ見つめ合うばかりだった。目が離せなかった。なにかに強くひきつけられて顔をそらすことも目を動かすことすらもできなかった。
「将斗、目を覚ましたんだな。でもどうしてそんなところに座っている? デスクに来ればいいのに」
視線の重なりにくさびを打つ声に顔を向ければ、すらっと長いパンツスーツに身を包んだエルフが出入り口に立っていた。
「それがその、トリアンナさんの顔を見たら安心しちゃいまして」
「安心して腰が抜けたとでも? ああトリアンナ、また泣いているのね。あなたそんなに泣き虫だったかしら?」
エレノーラの関心はトリアンナに移ったらしい、滑るように令嬢の横に移動すると頭をなではじめる。
「トリアンナ、今日はもういいから休みなさい。今日だけじゃなくてしばらくは仕事しなくていいから。心と体を休めなさい。いいね?」
エレノーラの言葉にこくこくとうなずく様子は普段のトリアンナからすれば想像もできなかった。それだけじゃない。部屋に戻るべく将斗の横を通ることになるわけだが、その際にトリアンナがしたことといえば。
「ありがとうございます」
震える声で礼を口にして逃げるように階段を駆け上がるトリアンナ。将斗はほおにつけられた柔らかな感触に呆然としてしまうのである。
「あー、将斗、その、なんだ。申し訳ないけれどもう少し付き合ってもらっていいかな。将斗の口からも状況を聞いておきたい。あのトカゲにも聞いてはいるけれど」
「……すみません、少し待ってもらってからでもいいですか」
「ええ、落ち着いたら声をかけてちょうだい」
課長は島の一角に腰を下ろして端末と向き合った。その傍らには長期出張でもするのかと思えるほどの大荷物が積み重なっていた。
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