門限は破られる

 トリアンナに自由にしてよいと言われている冷蔵庫にはびっちりとワインが詰め込まれている。ワインを一瓶失敬した将斗は、自室でグラスを傾けていた。


 エレノーラは課会の後に関係者のみを集めた打ち合わせをするつもりだったらしい。正直、エレノーラやディーバの方もあまり収穫がある状況でないらしくて、もしかしたら現地組だったら、霜帝が新しい情報を得ていたら、という思いだったとのこと。


 しかしトリアンナもいなければ、『肝心』のメジリウスがいなくて困った。メジリウスが農園を訪れたのも気まぐれではなく、この打ち合わせに参加するためだったというのである。


 結局二人は予定の時間になっても戻ってこなかった。それどころか午後になっても姿を見せなかった。


「エレノーラたちが戻ってきたら私に連絡するよう言っておいてちょうだい。それから、端末はなるべく早くこっちに送るから。届き次第その私物から切り替えて」


 というのが去り際の言葉だった。やっぱり私物の端末だったらしい。


 赤のぶどう酒を口に含んだ。軽い渋みが舌に広がってゆく。


 外を見やる。一面が農園、照明の類がほとんどないから夜空が鮮やかだった。星とその間の闇とのコントラストは青く、浮かぶ粒も白から赤まで彩り豊かである。遠くに地上から飛び上がる火の玉らしきものがいくつかあったが、異世界だから、と思えばしっくりきた。


 ひょっとしたらと思い立って目を凝らしてみる。動くものはないだろうか。星を遮る存在。羽ばたいて、背中に令嬢をのせて、この農場めがけてくるドラゴン。


 あるのは光り続ける星とそれらに照らされる空。


 現実ではメジリウスとトリアンナの姿の影すら見えなかった。


 グラスを仰ぐ。


 頭がアルコールに冒されて境界が曖昧になりつつある中でも、ソワソワとした感覚がとげとげしかった。二人が帰ってこないという事実が将斗を刺激する。遠く離れた土地、異郷の地で知った顔が帰らないのである。


 はじめは小さな不安の粒でも、境目が曖昧になればどんどんにじんで広がってゆく。いずれは明確な大きさこそはっきりしないものの、とにかく大きな存在として将斗を圧迫してゆく。


 不安が小さいうちは好意的に捉えていた。つまり、トリアンナが回復するまでにまだ時間がかかっているのだろう、と。次第に、しかし天秤は傾き始めてしまう。何か悪いことがあったのではないか。例えば、でかけた先でトラブルに巻き込まれたのではないか。商会がこちら側の動きに気づいてメジリウスやとリアンナを狙ったのではないか。命を――


 グラスが幾度となく空になる。否定的な考えに毒された将斗は体を絞られるような感覚にさいなまれた。耐え忍ぶには厳しい、一刻も早く脱したい気持ちがいくつものシミとなって心に現れるのだ。どうにかしたいと思う一方で、しかしアルコールが思案を邪魔してくる。


 不安とアルコールと理性のせめぎあい。


 轟音と悲鳴。


 轟音? 悲鳴?


 いろんな人の声がアルコールに溶けてごちゃまぜになっているかのよう。何を言葉にしているのか分からない、しかし感情だけが将斗の頭に殴りつけるのである。


 恐慌、焦り、苦痛。


 前兆もなく訪れた異変に将斗はあたりを見回した。まさか知らぬ間に誰かが入ってきたのかもしれない。体をかきむしりたくなるような不安感と冷静に状況を見なければと考える理性が体の大部分を占める。アルコールが入り込む余地はなかった。


 部屋の中を見たところで変わった様子はない。


 廊下に顔を出しても静かなものである。しかし轟音と悲鳴は変わらず襲いかかってくる。どこからやってくるのか? 廊下を端から端まで歩いたところでそれらに変化がない。私室のどこかから発せられたものではない。


 思い当たる場所はオフィスだけ。将斗の足元には下階への階段。数歩階段を下ればすぐに違和感でいっぱいになる。轟音と悲鳴は変わらず聞こえている風だったがオフィスから発せられているとは思えなかったからである。


 あたりに声が響いている。建物の中ではない?


 オフィスに到着して近辺を見やればやはり――ここじゃない。


 外の様子を見てこようと足を向けたときに地面が揺れた。縦揺れ。体の中身が上下に揺さぶらえて心臓が気持ち悪くなった。だが一瞬のこと、すぐに揺れは収まった。自信にしては短かった。


「将斗! 将斗! 開けるのだ!」


 それが初めて言葉になった。数秒の地響きの後に送り込まれた声の主を将斗は知っている。余裕のない調子は知らない声だった。落ち着きのない様子は脚に伝染、わずかな距離であっても走らずにはいられなかった。


 将斗の言葉を扉を開けた。


 目の前の状況に言葉が出なかった。何か言葉が出そうになるが、途端に言葉がしぼんでしまう。何か言いたいのに言葉が見つからない。


 出ていったときの服装とはまるで違っていた。麻袋に穴を開けただけのような、服と言い難い服はところどころ破けていて、どす黒い赤がこびりついていた。メジリウスとトリアンナがでかけた先で何があったのか、想像することすらできなかった。


 いつもの少年の姿と比べると一回り成長したメジリウス。


 彼が血まみれになってトリアンナをおぶっているのである。

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