初めてのお客さん

みっちりとした訓練、というべきなのか。傍から見ればただ小さな石ころとにらめっこしているだけである。


 しかし将斗の額ににじむ汗が物語るのは動くのもしんどくなるほどの疲労だった。その場で座り込んでしまう将斗に対して、平然と直立する霜帝は腕組みをしながらも鼻高々といった様子だった。どうやら少年の目には順調に見えているらしかった。


 さて、体の汗を拭って着替えていた所で黄色い絶叫が訓練場に響き渡る。


「どうして霜帝様の前で上半身を裸にしているのですか!」


「トリアンナさんどうしてここに?」


「はやく着替えてください!」


 着替えた後に話を聞けば客先の打ち合わせに行くのだという。どうも急に使いが来たらしく、とりあえず見てほしいと言われたのだとか。せっかくなら顔合わせを兼ねて連れていきたいのだとか。


 ならばこんな急にするのではなくてちゃんと調整してほしかった、と心の中で愚痴る。けれども口にしたところで空気が悪くなるのは目に見えているから黙っていた。何となくトリアンナの眼光が痛く突き刺さっている気がするものの目をそらすことにした。見せたくもない体を勝手に見て不快に思われるのは心外だった。


 外は夕暮れから宵の間。仕事帰りか酒場を目指す一団が溢れる道。すでに酒の匂いを漂わせている異世界人の横を二人してすり抜ける。人の流れとは反対に進んでゆけば徐々に人が少なくなり。


 人よりも優しく空間を照らす街灯が目立つようになった頃合い。トリアンナがとある建物に足を踏み入れるのだった。


「流システムです」


 日本と同じ会社名で通じるらしい。トリアンナの言葉に感心しつつあたりを見回した将斗に浮かんだ感想は『商会というよりも一軒家みたい』だった。物語の読み過ぎかもしれない。商品が所狭しに溢れているとか、大きなカウンター遠くにいくつもある個室、といったイメージに比べればこぢんまりとした空間、程々に物があるけれども売り物ではなさそうだった。空間の真ん中にあるテーブルには何も乗っていなかった。


 ちょっぴりの生活感が漏れていた。


 遠くから声が聞こえてきて、声を追うようにして現れたのはひょろ長の男だった。上はワンピース、紐で腰のところを絞って、しかし足元を見ればズボンを履いている。見たことのない格好だった。


手元に見たことのない塊を手に現れた彼はおもむろに手元のそれをテーブルに置いて二人に着席を促す。


「いやあすみませんトリアンナ様、急にお呼びしてしまって。ところでこちらの方は見慣れない方ですが」


「今回新しく参加することになりました。せっかくなので顔合わせも兼ねまして連れてきた次第です」


「都賀将斗です。ええと、すみません名刺は切らしてしまっていて」


 そんな訳はない。トリアンナに予告もなしに連れてこられたせいで名刺の準備ができなかっただけだった。異世界に名刺の文化なんてあるのか? 一瞬そのような考えが巡ったものの気にしたところでどうしようもない。出たとこ勝負。


 対して客の男は一瞬キョトンとしている。一瞬の勝負だった。


「名刺、ということはマサミチさんの後任のお方ですか。なるほど、異世界の方と関わりになれるとは喜ばしい限りです」


 今度は将斗がキョトンとする番だった。知らない名前は急に辞めたという社員の名前に違いない。しかし、名刺というキーワードがすんなりと受け入れられているような、受け流されているような。何とも言えない微妙さが日本人を戸惑わせる。


 戸惑いつつも、よろしくお願いします、と口にしようとする将斗。しかし言葉を途中で見失った。


 相手の横に小さなホワイトボードのような物が浮かび上がったと思えば、そこに文字が浮かび上がったのである――デンベル、と。


「私のことはデンベルとお呼びください。トーバー商会のシステム運用を任されています」


 今度は大きな表示がそれこそ名刺よりも小さいカードサイズに小さくなって宙を滑り降りた。まるで将斗がそうしたかのよう、彼の正面に『名刺』が置かれた。


「すみませんが、将斗はまだ魔術を十分に使うことができず。魔法を受け取れませんの」


「ああそうでしたか、でしたらこっちですね」


 と置かれたのは木の板だった。テーブルの上を滑って魔法の名刺の重なったかと思えばほんのりと薪が燃えた時の何とも言えない香りが鼻を撫でた。白い名刺はすっかり消えて、代わりに煙を上げる木製の名刺ができあがっていた。


「はじめてとのことなので説明いたしますが、ウチは木材関係の商材を扱っている商会でして。この名刺も人気商品なのです。ご紹介も兼ねてどうぞ」


「ありがとうございます。木の名刺ですか、はじめて見ました」


「ええ、魔法は便利ですが、やはり手に取れるものはいいですよね。デーバリー領のひのきは香りも一級品ですから私もときどき匂ってしまうんです」


 デンベルがおもむろにもう一枚の木片を取り出して鼻にかざす。テーブルに置いた距離からであっても日本人の心をくすぐる香りが漂ってくるのだ、目と鼻の先に匂いの源があればもはや檜風呂に使っているかのような気分であろう。ふと顧客から手元に視線を下ろすと名刺に触れている指先があった。人差し指と親指が名刺をつかもうとしていた。


「デンベルさん、ご用件をお忘れなきよう」


 将斗はとっさに伸ばしかけの手をももの上に戻したのは、トリアンナが発した声の平坦さに怒りの感情を感じたからだった。まるで責め立てられているかのような感覚に体が反応してしまったのである。


 将斗に対する言葉ではないに違いない。しかし、当の本人が穏やかな笑みを崩さないところを見てしまうと自身の考えが間違っているのではと思えてしまうのである。


「すみませんねえ、こういうのは職業病みたいなものでしてね。今回はこれをお願いしたくてですね」


 テーブルの隅っこに待機していた物をテーブルの真ん中に滑らせた。その姿を見せられてなんであるかを将斗は判別できなかった。日本人会社員が知っている言葉でもっとも近いものはケースだった。黒いケース。デスクトップパソコンのケース。それにしては小さかった。時たま市場を賑やかす超小型パソコンの類だろうか。


 だがものをつなぐ端子らしい端子は一つだけ。これもまた見たことのない端子だった。USBでもなければライトニングでもない。システム屋に見せるということは、その手の道具なのか。


「前回提供いただいた機能の影響か分からないのですが、急に動かなくなりまして」


「業務影響はありますか]


「いえ、本番には影響ありません。検証用の環境で発生したんです。ただ分からないのが、今は検証環境に予備機を使っているのですが、そちらでは今の所何も起きていないんです」


「そうでしたか。それなら一度お預かりしましょう。デンベルさんは検証で様子を見ていただいて、明日また何かあれば連絡をください。人を使わなくても構いませんから」


 トリアンナはそれを自らの目の前に手繰り寄せると持ち上げる。ざっと全体を眺めるだけ眺めると将斗の前に置いた。いや、落とした? 両手で持つのは想像できたが途中で手を離すとは思わなかった。とはいえ天板より一センチから二センチといったところ。仮に電子機器で同じことをしたら怒られるに違いない。


「さて、要件も済みました。帰りましょう」


 それからのトリアンナは有無を言わさなかった。デンベルさんはまだ話したりなさそうにしていた上、別の角をはやした人間が人数分のカップをトレーに載せて姿を見せた。商会としてはまだもてなしたいのだろうが、しかしその様子をまるで見ていなかった。


「行きますよ」


 将斗にそうささやきかければすぐに席を立ってしまった。


 将斗はトリアンナの背中を振り返り、それからデンベルの彼女を見つめる眼に振り返り。名刺と黒い箱を両手に抱えて頭を下げた。トリアンナの後を追う中、胸元からお風呂の匂いがしていた。

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