霜帝メジリウス

 訓練を終えてからも肌身離さず持ち歩く。ときどき懐から取り出して言われたとおりのイメージを石に注いでみる。初日は何事もななかった。そう、何事もなかった。気持ち悪かったあの瞬間の感覚を思い浮かべたところで石が震えることなんてなかった。手のひらに握れば言いようのない不快感が広がってゆくものの、ポケットに入れておく分には特別気にするほどでもなかった。


 まあ初めはこんなものだと思っていた将斗だが、それがどうも違うということを知るのは翌日になってからだった。出勤して端末を立ち上げている中、出勤してきたトリアンナが自身の荷物を下ろさないで問い詰めてきたのである。


「あなたと霜帝様には面識があるのですか」


「そうて、え?」


「霜帝様、 霜帝メジリウス様! 昨日将斗さんを呼びに来たではありませんか」


 将斗はトリアンナに言われてようやく、昨日の少年の名前を聞いていないことに気づいた。将斗と少年の二人だけであったため問題らしい問題もなかったのだ。


 しかし、トリアンナの振る舞いが分からなかった。それ以上に自身の振る舞いが分からなかった。考えてみてほしい、将斗の講師は少年だった。少年が会社員に対して指導をすることがはたして普通なのであろうか。一人称を『我』と言うような少年は普通だろうか。あの口調は普通か?


 少し考えればおかしいと思えることを当然のように受け入れてしまったのか。


「あの子はそんな名前なんですか。聞いていませんでした」


「あの子! 霜帝様を子供呼ばわりなんて、うちの領地なら殴られても文句を言えませんよ」


「そんなすごいんですか」


「すごいも何も、あのお方はデーバリー領含めて北の一帯をお守りしてくださる守護神様ですよ」


「守護神……ってその、みんなを守ってくれる神様ってことですか」


 とんでもない言葉を耳にした将斗がとっさに口走ったところで本人も混乱しているのを露呈するに過ぎなかった。昨日神から訓練を受けただなんて想像できるわけがない。名前も知らなければそのように名乗ることもしていない。相手は神様らしい雰囲気だって醸し出していなかった。


「その通りですよ。エレノーラ卿はどうして霜帝様に指導をお願いするなんてことを。だってそうじゃありませんか。あの霜帝様が手ずから教えてくださるなんて、わたくしもご指導賜りたい」


「ですが、目の前に神様がいるだなんて感覚、まったく無かったのですが。神様というのはびっくりしているんですが、どうも実感が沸かなくて」


「沸かなくて結構! わたくしは一目身た瞬間から分かりましたもの」


「まったくデーバリーの娘は元気だな」


 急に割り込んでくる声は数時間ぶりの声。トリアンナの姿を見れば何が起きたのかはっきりと理解できる。一瞬にしてトリアンナの体が一本の突っ張り棒になって、かと思えばカバンを放ってその場にひざまずいた。


「お前にはまだ正体を明かすつもりはなかったんだがな」


「あの、トリアンナさんが言っていたのですが、神様っていうのは」


「我は神なんてものではない。まあ、成り行きで神のまねごとをしている程度のことだ」


「……何と言うか、どうして昨日は自然に思えたのか」


 トリアンナと話した後に少年と向き合えばどうして当然のように受け止めていたのかと疑問に思えるほどだった。かの身長、顔つき、頬の皮膚の感じ。どうみても年端に行かない子供だと言うのに言葉遣いは子供とはまるで異なる。


 目の前の存在はどう考えてもおかしいはずなのだ。


「まったく、自然に感じてもらえるように気持ちばかりの魔法をかけていたというのに。娘のせいで効かなくなってしまったじゃないか」


「昨日の違和感のなさはわざとそうしていたということですか」


「その通りだ。なにせ我とて異世界人を相手にするのは久方ぶりでな。前に会いたいしたときとは価値観が変わっているかもしれないと何でも自然に感じるようにしておいたのだ」


「申し訳ありません霜帝様」


 急に割って入ってきたトリアンナの顔は真っ青だった。人がなってよい類の色でなかった。顔は少年の顔を見上げようとせず、ただただ口角をわなわなと震わせるばかりだった。


「私が! 霜帝様の考えを知らずに余計なことをしました。申し訳ありません」


 震える唇の間で言葉を紡ぎ出す姿は怯えていると言うか、恐れていると言うか。畏れという言葉が頭に浮かんでしっくりきた。少年のことを守護神と表現したのは目の前で頭を垂れる女性である。日本人が祟りを気にするように彼女は守護神たる霜帝の怒りを鎮めようとしている。


 しかし、トリアンナのおののきは徒労だった。少年――霜帝は大きくため息をついて正面にしゃがみこんだ。わざと目を合わせないようにしていたトリアンナの目を見るようにして。


「あのな、我は守護神なんてものじゃない。そんなつもりない。我は神になるつもりなんぞないし、神としての待遇をお主らに求めたこともない」


「ですが、わたくしはデーバリーの娘。どうして霜帝メジリウス様を崇めないでいられましょう。デーバリー領を飢饉から救ってくださったことは皆心に刻んでいます」


「一体いつの話か分かっているのか? お前が赤子にすらなっていないような時代のことだぞ」


「我が領の人々は私も含め、幼い頃から霜帝様のお話を聞いて育ってきているのです」


 もう一つ大きなため息。首を横に振ったかと思えばおもむろに立ち上がって将斗の方へ体を向けた。臣下を説得するのは諦めたらしかった。しかし少しの間、言葉を発さずにちらちらとトリアンナの頭へと目が動いていた。


対するトリアンナは動く様子を見せない。是が非でも顔を上げるつもりはないらしかった。


 二人の間に広がる肌が痒くなるような微妙な間。将斗はとにかく何かを口にするしかかった。会話の流れなぞ知ったことではなかった。


「しかしまだ始業もしていない時間ですが、何か用があったんですか」


「少年に用というわけではなくてな。エレノーラとちょいと話す用事ができたのだよ。こっちの仕事の話でね」


「だとしたら、エラノーラさんのところに向かわなくていいんですか」


「まあ、多少遅れたところで目くじらは立てないだろう」


「ですが、ここにいるとなれば」


 将斗が視線をずらす先を霜帝もまたたどると、息をするようにため息が漏れ出てくる。


「将斗、我はただただ長く生きているだけのドラゴンに過ぎない。素性を知ったところでこの娘のようにはなるなよ?」


「その点は大丈夫です。違和感はありますけれど、敬う気持ちは沸かないです」


「ならよい。今日も昨日と同じ場所でやるからな。忘れるなよ」


 少年は二人に背を向けて目の前から退いてゆく。将斗は扉から出てゆくと思っていたが、その手前で左に曲がってフロアをてくてく歩いてゆく。同じフロアだけれども将斗が立ち入ったことのないエリアだった。霜帝の歩く様子は自宅を歩いているよう、遠くの島に座っている人と手を挙げあって挨拶していた。

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