初仕事、のはずだったけど
魔法陣の部屋から三フロア分。上がれば上がるほど煙が濃くなってゆく。将斗が吸ったことのある中でもっとも近いのはタバコの副流煙だった。少しでも口の中に入ればむせてしまうような。喉に不快感がまとわりつく。
どうしてか、エレノーラの表情には苦痛がまったく見られなかった。もしかしたら喫煙者なのかもしれない、と状況を差し置いてのんびりと考えてしまった。
異常な状況であるはずなのにどうしてだろう、エレノーラの平然な様子を見ていると慌てる気持ちが落ち着いてくる。まあ、気が緩むと煙を吸い込んで再び気持ちが勝ってくるのだが。将斗の心は奇妙な波に揺れていた。
「この感じだと、うちの連中がやったな」
うちの連中すなわちエレノーラの部署の社員。将斗がこれから向かうのは新しい現場で同じ部署のメンバーがいるはず。確か、担当している案件は商会の在庫管理システムではなかったか?在庫管理の処理がうまく動かないと爆発する?
階段を上って廊下に出ればどこが爆発現場なのかはすぐに分かった。慌てて逃げたためいくつものドアが開け放たれたままだったが、その中の一つから煙が湧き出しているのである。
「やっぱりな。あそこが将斗の新しい職場だ」
将斗はエレノーラの言葉に咳き込むことでしか反応できなかった。少しで言葉を発しようと口を開ければ、たちまち口に煙が入り込んで喉を刺すのだ。口を閉じて鼻から吸ったところで煙が鼻の中を傷つける。苦しくて苦しくてたまらなかった。
いよいよエレノーラの後をついて行くのも辛くなってしゃがみこんでしまった。視界がチカチカしてきて体の言うことが聞かなくなってしまう。将斗が見上げればエレノーラは目をまんまるにしている。
ああ、もうだめだ――将斗が意識の限界を感じたところで、ふいに空気が揺れるのを感じた。風はまったく吹いていなかった。にもかかわらず、『波』が壁に跳ね返りながら広がってゆくのを感じたのである。肌に、というか、体の中を通り過ぎる時に血肉がうねった。味わったことのない感覚。
次の瞬間には将斗を苦しめる刺激がなくなった。急に息が吸えるようになって限界まで肺をふくらませるが、代わりに気持ち悪さがこみ上げてくる。奇妙な力で体の中を揉みしだかれて肺が空気と一緒になってぐちゃぐちゃにされているかのようだった。
えずく。こみ上げてくるものはないが、とにかく体が拒絶していた。
「将斗、どうした!」
駆け寄るエレノーラは何事もなかったようで、様子のおかしくなった将斗の背を懸命にさする。しかし彼には無意味だったのか、吐き気の収まる気配がなかった。変な煙のせいで息を吸えなかったのが一転、えずきで息が吸えない。変わっていないじゃないか!
エレノーラの手が止まった。ややあってから手を振り上げた。
絶えずえずき、口からはよだれが垂れる。
エレノーラが振り上げた手を背中に叩きつける。
将斗の背中に紅葉が叩きつけられた瞬間に体の中では何が起きていたのか。廊下を漂う波とは比べ物にならない衝撃が体を駆け抜けたのである。それこそブラックアウト寸前の視界に星が飛ぶほどの衝撃。苦痛はまったくない、ただ感じたことのない揺さぶりが内から生み出されるような。体の中で大地震が起きるのだ。
不思議と気持ち悪くなかった。
そう、気持ち悪さがなくなっているのである。絶えずせり上げってくる感覚もまるで嘘のよう、床に広がる唾液だけが物語るのみだった。何もかもが元通りになっていてむしろ違和感になってしまっているほどだった。あたりをキョロキョロ見回したところで煙がなく、爆発騒動は何だったのだろうと思えてしまう。
しかし視線をエレノーラへ向けた途端、違和感が間違いであるのを見せつけられるのである。今にも泣きそうな顔をして将斗を見下ろすのだ。
「あの、一体何を」
将斗の声にエレノーラは目をつぶって息を吐き出す。
「将斗は魔力に対して敏感なようね。空気を伝ってきた魔力に酔ったのよ。もしかして魔力煙の中も辛かったのでは」
「あの煙は普通の煙とは違うのですか」
「未精製の魔力が空気中に溢れた状態、と言っても分からないか。なんて言えばいいのかしら――あれか、ひどい排気ガスの中に閉じ込められた感じ」
「よく分からないですが辛いのは分かりました」
「でも、排気ガスだとあなた達はちょっと嫌だなって思うぐらいでしょう。私達にはあんなの縁もなかったから、はじめてあっちに行った時はまさに将斗みたいな状態になった子もいた」
「あの田舎で、でもですか」
「いいや、まだ日本局ができる前に。電車・バス? 見たこともないものばかりだったけれど、それはそれでひどかった」
「慣れない環境となるとどうしてもそうなっちゃうんですかね」
「そうとも言えないんだよなこれが」
エレノーラはそう言いながらも指先をくるくると回し始めた。トンボを捕まえるときのような動きはしかし将斗に向けられていなかった。ずれた視線を将斗がたどれば、唾液だまりが乾きつつあった。熱したフライパンに水を垂らしたかのようなあっという間の出来事である。
床掃除をした手で将斗の肩を叩く。
「こっちの人間でも魔力煙とかに酔う人はいるんだ」
「車酔いみたいですね」
「それがちょっと違うんだな。魔力酔いになる人っていうのはね、魔力の感受性が高すぎるってこと。内も外も魔力の制御ができていないとなるもの」
「よくないことなんですか?」
「ある意味ではいいことなんだけれど、ある意味ではよくないんだよなあ」
突然。
将斗は悪寒に震えた。気持ち悪くなる瞬間に近い感覚が体を貫いたのである。しかしせり上がってくるものは胃液ではなくて恐怖心だった。全身がすくんでしまうほどのもの。感情も思考も支配されて、ただただ怯えることしかできなくなってしまう。
何となく波を感じて顔をあげた。視線の先は扉、煙を吐き出していた扉だった。そう言えば煙がなくなっていた。恐怖に襲われている将斗の目には、ドアの枠を這うようにして現れた指をどう捉えただろうか。細い指がぬるり現れる様子――将斗は逃げようとするが尻もちをつくだけだった。腰を抜かしていることにも気づけなかった。
喉の奥から声にならない悲鳴が漏れた。
扉から現れたのは将斗の感情とは相容れない姿だった。エレノーラに比べると小さくて幼いように見える女性はオーバーオール調の服で靴は厚底だった。かなり短く切られた髪の毛と頬についた汚れが男の子のような雰囲気を醸し出していた。
そのような子が将斗を見て目を輝かせていた。まっすぐと見つめてくる様子は強い圧を以て語りかけてくるようだった。
珍獣を見つけた、と。
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