第29話 深夜の来訪者
そのまま静かな時間が過ぎていた。
僕とありすは何も言わない。くっつくわけでも、かといって離れる訳でもなく、ただ隣に並んで座っていた。
座布団代わりに布団を引いて、その上に腰掛けて壁を背にしてよりかかっていた。
時間はゆっくりと過ぎている。
外はもう夜も遅いのだろうか。それとも思っているよりかは時間は経っていないのだろうか。
スマホをみれば時間はわかるけれど、それは必要のない事だと思った。
このまま過ぎていく空気に身を任せせいたらいい。
ありすが安心して過ごせるならそれで良かった。
ありすと一緒にいる時間がただ心地よかった。
ずっとこのまま夜が明けなければいいと、本気で強く願っていた。
だけど明けない夜はなくて、時間は見えないけれど少しずつ進んでいく。
いつの間にかありすは眠ってしまったようだった。張っていた気が緩んで、疲れてしまったのだろう。
これくらいは許されるよね、と僕はありすを少しだけ抱えて横たわらせる。その上に用意されていたタオルケットをかけて、ゆっくりと眠れるように整えていた。
「おやすみ、ありす」
聞こえてはいないだろうけど、僕はありすへと声をかけた。
起こさない程度の小さな声でだけれど。
ありすは小さな寝息を立てながら、安らかに眠っていた。完全に安心した寝顔で、僕もほっとする。
たぶん春渡しが始まってから、ずっと緊張していたのだろう。
少しでも気が楽になったのなら良かった。
もういちどありすの顔をみて、少しだけ笑みを浮かべる。ありすの事を思い出せて良かったと思う。
そう思った瞬間だった。
「女の子の寝顔をマジマジと見るのはマナー違反だよ」
頭上から声が響く。あわてて見上げると、天井の梁の上にミーシャが立っていた。
「ミーシャ」
「やっと全て思い出したのかい。もしかして君の小さな脳みそでは記憶容量が足りなくて覚えてられなかったのかと思っていたけど、杞憂だったようで良かったよ」
ミーシャは梁から飛び降りると、僕の足下まですたすたと歩き寄ってくる。
「……君が何か機嫌が悪かったのは、僕が思い出さないでいたからか」
「まぁね。正直やきもきするだろう。有子だけが覚えていて、君だけが忘れているなんてフェアじゃないからね。まぁ
ミーシャはそのままありすの隣に移って、そしてその顔をぺろりとなめる。
だけどありすは気がついた様子もなくて、完全に寝入っているようだった。
「そもそもあのひまわり畑を見れば思い出すだろうと思っていたのだけど、君の愚鈍さはボクの考えのさらに一歩先をいっていたよ。まさかあれを見ても何一つ思い出さないだなんてね」
ミーシャの辛辣な言葉に返す言葉もない。
おじいちゃんにつながる記憶を無意識に封印していたとはいえ、確かにあれで思い出さないのは僕の記憶力は無残なものだと言える。
「喜びたまえよ。君はボクの予想の上をいったんだ。これは滅多にないことだよ」
「……全く喜ぶ余地がないんだけど」
「自分の愚かさをよく知っている答えだね。まぁ、しかし想像を超えるのはなかなか誰にでも出来るというものじゃない。ボクはある意味感心したよ」
ミーシャはぜんぜん感心した様子はなく言い放つと、それからありすをちらりと見つめる。
「まぁたまに有子も想像を超えてくるけどね。もちろん悪い意味で。君ら二人はそういう意味でもよく似てると言えるだろう」
やっぱり褒められてはないなと思いながら、僕は溜息を漏らす。
「ま、何にしてもだよ。ボクは有子の先生だからね。彼女を導いてあげなきゃいけないし。誤った事をしようとするなら、止めてあげなきゃいけないだろう。さっきのシーンだって、君が間違いを犯しそうであれば止めに入らなければならないかとは思っていたけど、君はその辺は誠実だったね。キスくらいなら許容範囲だ」
ミーシャはそれからすぐに僕の足下に戻ってきて、それから音も無く飛び上がって僕の肩の上に着地した。
「見てたのか」
見られていたと思うと途端に恥ずかしくなってくる。まぁ見ていたのは猫な訳だけども。
「まぁね。ずっと梁の上にいたけど、君達は面白いくらい気がつかなかったね。少しばかり注意力が足りないんじゃないか」
ミーシャはからからと笑いをこぼしながら、僕の肩の上に座り込む。
ミーシャは飼い主と同じく猫としても小柄な方だろうけど、さすがに肩の上に乗られると少々重い。
「ま、何にしても有子は純粋なぶん、すぐに人の影響を受けてしまうからね。こずえにも困ったものだよ。あの子はすぐに有子に変な事を教えてしまうのだから」
「まぁ、でもおかげで僕は記憶を取り戻せたよ」
「そういう意味では結果オーライかもしれないが、もし君が理性を失ってしまっていたらどうするつもりだったのか」
少し怒りを含めた声に、なんだかんだいいながらもミーシャはありすを心配しているんだなとは思う。
そしてたぶんこずえはそうなったら、それはそれで良いと考えていたような気はする。彼女の言うところの既成事実って奴だ。僕がその後、ありすを無責任に手放せるような人間じゃないっていうのは見抜かれていただろう。
でもそんな推測を話しても詮無き事なので話さないでおく。
「まぁいい。どうせボクの声はこずえには届いていないからね。言っても無駄だ」
ミーシャはどこか諦めたような声で呟く。
「そういえば君の声は僕とありすにしか届いていないみたいだった。どうして僕には君の声が聞こえて、他の皆には聞こえないんだろう」
「さぁね。ボクに訊かれてもわからないよ。ボクはただ普通に話しているだけなのに、君たちが勝手に受け取ったり受け取らなかったりしているだけさ」
ミーシャはあくびをしながら答える。そこには大して興味がないようだった。
「君は何でも知っているかと思ったのだけど」
「バカなことを言う。ボクはボクの知っている事しか知らないさ。神様であろうとも、全ての事を知るなんてことは不可能だ」
「そんなものかな。でもなんだか君は全てを見通しているかのように感じるよ」
僕は左肩に乗っているミーシャをじっと見つめる。
ミーシャは大して気にとめた様子もなく、やっぱりあくびをしてそれから飛び降りてありすのそばへと歩みよる。
「ま、今日はもうこの辺にして君も眠った方がいい。明日は有子と遊ぶのだろう。眠っていなければ辛いと思うよ」
「とはいっても、布団は一つしかないからなぁ。さすがに一緒に寝る訳にはいかないし」
こうして眠っているありすのはそばにいるだけでも、胸の鼓動は止まっていない。どちらにしても緊張して眠れそうにはなかった。
「そうかい。まぁ好きにするといいさ。別に布団を共にするくらいならボクは許すよ。文字通りの意味ならね」
いいながらミーシャは身軽に飛び跳ねて、また天井の梁の方へと戻っていく。そしてそのまま奥の方へと消えていった。
いちおう信頼してもらっているのかもしれない。
安らかに寝息を立てるありすを隣に、壁を背にして座ったまま、少しだけ目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます