第28話 ひまわりの花言葉

「……ありこ?」


 僕は僕の上に重なるありすを思わずあの時と同じように呼んでいた。


「思い出しましたか? 謙人けんとさん」

「……思い出したよ。ごめん。すっかり忘れていた」


 かつて出会った記憶。

 日常に流されて忘れていたけれど、確かに僕はありすと出会っていた。それどころか、ありすがありすだと、自分が魔女だと名乗るきっかけを僕が作り出していた。

 だからありすはずっと僕の事を忘れてはいなかったのだろう。

 最初に自分が魔女だと名乗ったのも、神様と出会ったと告げたのも、僕に記憶を取り戻して欲しかったから。恐らくはそうなのだろう。


「あの時、私は本当に心細くて。寂しくて。どうしたらいいのわからなくて。でも謙人さんが私を救ってくれたんです。神様って本当にいるんだなって。私はあの時に思いました」


 ありすは僕をじっと見つめていた。

 僕の目の前にはもうありすしか見えなかった。

 ただ彼女の切なげな表情だけが、僕の視界の全てだった。


「だから私と謙人さんは出会ってすぐじゃないんですよ。私はずっと待っていたんです。あの時の男の子が、私を迎えにきてくれるのを。謙人さんは私の王子様なんです」


 ありすはただ僕だけを見つめていた。


「私はひまわりみたいにずっとあなただけを見つめていました。謙人さんは私をみてくれますか?」


 ありすの視界にもたぶんもう僕以外は見えていない。

 お互いの世界の中にただ二人だけが存在していた。

 僕達の間にはもう他に何もない。

 ありすはいちど右手を上げて少しだけ首を傾けて、自分の髪をくくっていたゴム紐をほどく。

 ありすの長い髪がほどかれて、まとまりを無くした髪はそのまま僕の顔の隣へ降りてきていた。さらにありすはその髪を左右にわけて、僕の顔を包みこむように下ろす。

 ありすの髪が僕を包んでいた。

 僕の世界にはもうありすしかいない。


「ほら……これでもう私だけしか見えませんね」


 ゆっくりと彼女が近づいてくる。

 僕はもう拒む事は出来なかった。

 彼女を受け入れてしまっていた。

 そう。たぶん僕は。

 あの時出会った彼女に、恋をしていたのだろう。

 八年越しに近づいた距離は、小指ではなくて、とても柔らかな彼女の唇だった。


 ほんの一瞬だけ触れたあと、すぐにありすは離れる。そのまま僕の時間が止まっていた。わずかに触れたありすの唇の感触がまだ残っている。

 初めて触れたその感触はただ温もりだけを覚えさせて、僕の心をざわめかせた。

 胸の鼓動は激しくてこのまま破れてしまうんじゃないかと思う。

 僕は喉の渇きを強く感じていて、このままありすの全てを求めたくて、手を伸ばせばそうできてしまう距離にありすを感じていて、僕は息を飲み込む。


 ありすも同じように時間を止めてしまっていた。

 彼女の顔が真っ赤に染まっているのがわかる。ぎゅっと目をつむっていた。

 そしてその小さな体を震わしていた。

 それを感じた瞬間、僕を捉えていた呪縛が解けて、やっと息を吐き出させていた。


「ありす……もういいんだよ」


 落ち着いた僕の声にありすの目が大きく開かれる。

 思ってもいない言葉に驚きを隠せずにいた。


「無理して、そんな風にしなくていいんだ」


 もう一度告げた僕の声に、ありすは床から手を離して上体を起こす。

 それと同時には僕はずるずると体を這うように抜け出していく。

 ありすはそれをとがめるでもなく、ただその場でじっと膝立ちのまま固まっていた。


「……わかりましたか」


 絞り出すような声に僕は頷く。


「そりゃあわかるよ。今までのありすと違って、急にこういうことに積極的になったし。それに本当に積極的な人はそんな風に体を震わせたりしないよ」


 僕は一息つきながらも、ありすの方をじっと見つめていた。

 力が抜けきってしまったのか、ありすはそのままぺたんと床に座り込んでいる。

 いわゆる女の子座りの格好のまま、完全に力が抜けきっていた。

 弛緩した体にはもう力が入らない様で、たぶん少しでも触れたならそのまま倒れてしまっただろう。


「それでこれは誰の差し金なの」


 たぶんこんなことはありすが自分で考えてそうした訳じゃあないだろう。必ず純粋なありすをそそのかした相手がいるはずだ。


「そこまでわかっちゃうんですか。……その、こずちゃんです。こずちゃんが、この機会に一気にいっちゃえば、謙人さんは女の子に慣れていないから押し切れるよって言って、その」


 真っ赤に染めた顔のまま、ありすはうつむいてつぶやくような声で告げていた。

 確かにこずえならやりそうだと思う。何せ村中に僕をありすの彼氏だと言いふらしていたくらいだから、おもしろがってけしかけていたのだろう。


「あ、でもこずちゃんは悪くないんです。私がその、謙人さんが覚えていないみたいでしたから、どうしたらその思い出してくれるかなって相談して、それで。その。こずちゃんは思い出そうが思い出すまいが、既成事実を作ってしまえばこっちのものやけん、って」


 この言いぶりに何となくこずえの目論見も感じ取れた。

 たぶんこずえは僕が実際にありすに手を出すとは思ってはいなかっただろう。ありすをけしかけて意識させるのが目的だったはずだ。そして実際にそうなったのだから、ほぼ見通されていたという事だろう。

 僕がありすに迫られた時にどんな風に接してくるか、それを確かめるためにも昼間、僕をからかってみたんだと思う。


 こずえの思惑通りに進んでいるのはしゃくだけれど、でも反面感謝するところもある。こんなことでもなければ、僕はたぶんあのときの事は思い出さなかった。

 そしてありすの事を思い出せて良かったとも思う。

 小さな頃の記憶なんて曖昧なもので、忘れている事も沢山あった。


 僕にとってはおじいちゃんの死は大きな記憶だった。おじいちゃんとはそんなに何度もあった訳では無い。でも死というものがどういう事なのか、突きつけられてしまったとは思う。だから両親の死と共に、出来れば思い出したくない記憶でもあった。

 だからそれにつながるこの村の記憶は、奥深くにしまいこんでしまっていたのだろう。

 これくらい強い衝撃がなければ忘れたままでいたかもしれない。いやおそらくは思い出す事はなかっただろう。


 そうして僕はこの村を去って、この村の事もやがて忘れ、ありすの事もいつかは忘れてしまっていたのだろう。

 交わした約束を守れないままに。


「僕はもう思い出したからいいんだ。これ以上、無理を重ねなくていい。忘れていてごめん。でも約束を思い出したから。夏祭りは僕と一緒にいよう」


 僕の申し出に、ありすの顔がはっきりと輝いていた。


「はい……!」


 小さな声を絞り出すように頷いていた。

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