少年は混乱する ①
アーウェンが目を覚ますと、片頬に違和感と重みを感じた。
そっと手を伸ばしてみると、そこには大きな絆創膏が貼られ、その下には何かブヨブヨしたものがくっついている。
「目が覚められましたか?」
「……あっ」
そっと声をかけられたが、人がいると思わなかったアーウェンはビクッと身体を震わせた。
慌てて体を起こそうとして、ぐらりと気持ち悪さにめまいを覚えて柔らかい床にズルリと沈み込む。
沈む──?
アーウェンが驚きに目を見開いたままゆっくりと身体を動かすと、信じられないくらい分厚く軽い布団がかかっていた。
表面はツルツルとして少しひんやりとしているようだが、肉のほとんどついていない細すぎるアーウェンの身体に纏わりついてすごく暖かい。
しかし『使用人』としてこの屋敷に連れてこられたことを思い出し、どうしてこんな気持ちの良い扱いを受けているのかわからず、どうにか起き上がろうと布団の中でジタバタと起き上がろうともがく。
だがそんなアーウェンを落ち着かせようと若い男の人が近付き、屈みこむと優しくトントンと布団の上から背中のあたりを叩いて囁いた。
「大丈夫ですよ。お昼は終わってしまいましたが、まだお茶の時間を少し過ぎたくらいですから。何かお召し上がりになるでしょう?」
「お…ひる……?」
アーウェンはキョトンとした。
「ええ。いつもはどんな物をお食べになっていますか?」
「えぇと……おきたら……おばさんがきたときに、おゆとぱんのかわ……ねるときはおゆとぱんのかわ……」
その言葉にピクリとその人の眉が動き、その顔を見たアーウェンは自分が何か間違ったことを言ったのかと、顔を青褪めさせた。
サウラス男爵家では父と母、そして兄が父の書斎兼居間となっている部屋で朝食を食べるが、幼いアーウェンがその部屋で供にたべることはない。
六歳になるまでは二日に一度通いの家政婦が来たので、彼女が持ってくる屑野菜を煮ただけのスープのような物を、掃除や洗濯の手伝い駄賃の代わりにもらうのがアーウェンにとって『ご馳走』だった。
六歳を過ぎた後からは来る日が減って週二回となり、アーウェンが日々口にできるのは『ぱんのかわ』と呼ぶ薄いクラッカーと、父や兄のために淹れるお茶のためのお湯をほんの少しずつ隠してコップに貯めた白湯のような物だけである。
それだけで幼く育ち盛りのはずの男の子が生きていくのが厳しいのは目に見えてわかり、さすがに栄養失調で目の前で死なれたら面倒だと思った家政婦が、季節になると王都中に出回るリンゴなどをかなり薄く切って干した物を持ってきてくれたのが幸いだった。
万が一のことがあれば、きっとサウラス男爵は家政婦を『男爵令息を虐待死させた』と訴えかねない人柄だと、正しく見抜いていたためである。
「絶対旦那様に見つからないように」
嫌そうにコソコソと干し果物を包んだ布を渡しながら家政婦はそう言い、アーウェンは素直に受け取った。
その干しリンゴをさらに小さく千切り、匂いが漏れないように朝誰も起きていない時にゆっくり食べたが、それがアーウェンの知る唯一の甘味である。
だが昼間の食事は家政婦に用意させるか、いつの間にか母が部屋に運んでいたため、アーウェンはそういった時間がとられていたこと自体を知らず、尋ねられて返したのは何も考えず『自分が与えられていた食べ物』をそのまま答えてしまった。
その言葉の何かがその人を刺激したようで、一瞬鋭くなった目付きをふと和らげた男の人がそっと手を伸ばしてくると、アーウェンはギュッと目を瞑って身を竦めた。
そう──父のようにこの人もきっとアーウェンの何かが気に入らず、怒りながらニコニコと楽しそうに殴り飛ばすに違いない。
だって、自分は『そのため』にいるんだもの──
動かないアーウェンに向かってゆっくりと何かが近付いてくる気配に、少しだけ緊張してから諦めのような溜め息を無意識につく。
「……湿布を取り換えるだけです。あまり腫れていないといいのですが」
「しっぷ?」
「大丈夫ですよ。痛いことはしません」
「………はい」
痛いことはしない──殴る人にとっては。
目を瞑ったままのアーウェンは短く返事をして息を詰めたが、実際その男のひとが言うように痛いことは何も起きず、頬に貼ってあった物を剥がされただけだった。
『しっぷ』というのはどうやら頬に貼られていたものらしく、それが取れると部屋の空気がひんやりと冷たく感じる。
しかしそれも温かく濡れた感触が触れるとさらりと消え、ゆっくりと目を開けると大きな手が肉付きの良くないアーウェンの頬を白い布巾で拭いてくれていた。
「ああ、大丈夫ですね。大人の力で叩き飛ばすなど……踏ん張らずにいらっしゃったので、口の中まで怪我をせずにいられましたね」
「……あ、あの……な、んで……?」
言われていることもされていることもわからず、アーウェンはその男の人にされるがまま口を開けられて中を覗かれる。
優しい手付きでアーウェンの頬を触り、首を触り、肩、脇、腰──どこも異常がないかと確かめていくその力加減は変わることなく、アーウェンの小さな脳みそをさらに混乱させていく。
「あのままでは腫れが引くのに何日もかかってしまいますから。このターランド伯爵邸において、いかなる者も理不尽な暴力によって負った傷を放置することは、ご主人様の名を傷つけます。ましてや……」
居ッと眉根を顰め、男の人がギリッと奥歯を噛みしめると、アーウェンはいよいよ殴られるのかと諦観して目を閉じる──が、その小さな両肩にそっと手を添えられて恐る恐る目を開けると、瞳に映ったのは加虐の悦びに溢れる光ではなく、頬や目元を赤くした人だった。
「いえ……何も知らない坊ちゃまに、このようなこと……サウラス男爵家に従僕などいないことは、旦那様はすでにご存じです」
「え……あ…あの……」
「幼い坊ちゃまに、あり得ないことを『ある』と言えるわけはございません。大丈夫ですよ。ご主人様はすべて正しくご存じですから、坊ちゃまをこれ以上傷つけることはありません」
「でも………」
父がなぜ従僕が家にいると言ったのかはわからないが、とにかくアーウェンはそこに口を出してはいけなかったのだ。
俯く少年の手を、従僕は優しく叩いて慰める。
「大丈夫です。今は元気をお出しになって……そう言えば『ご気分が悪くなければお庭でお茶をいかがですか?』と奥様から言付かっておりますよ?よろしければ一緒に参りましょう?」
「……は、はい………えっ?!」
躊躇いながら頷き、今まで寝たこともないようなふかふかのベッドから出ようとして、アーウェンは驚きのあまりまた固まった。
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