鎌倉、燃ゆ
県昭政
鎌倉燃ゆ
第一章 大乱起きる
一・
男は、気持ちがざわめきながら急いで駆けていた。時がない。男は紫連(しれん)右(う)衛門(えもん)良(よし)高(だか)という者であり、勇猛且つ平静な心持ちを持っていた。
右衛門は、鎌倉幕府の政所(まんどころ)の執事代である。政所は、幕府の財を取り扱っている。また、幕府の文書を取り纏める職務もあった。日の本中の政(まつりごと)を扱っていた。幕府に取って大事な政を行なう役所だった。
執事代は、政所執事の代理として、侍所(さぶろうどころ)や問注所(もんちゅうじょ)との折衝を行なっている。政所執事は、政所の上級役人だった。政に参与し、財の取り締まりを務めていた。
執事代は、執事の代理として重き立場である。右衛門が二十三歳で執事代に就いた時には、鎌倉中で驚きが走った。
紫連良高は、十六歳で政所に入った。最初は寄人(よりうど)と言う雑務を取り扱う職務に就いている。雑務を行なう早さと確かさと丁寧さを上役から認められた。そのため、上の役に早く昇っていった。侍所の役人との激しい遣り取りもあった。
政所の者たちは、侍所の者が怒った時を見ていた。三浦大尉兼隆と言う者だった。大尉が、政所にやって来た。政所の行なった政に、かなり不満があると言っていた。
「これでは、御家人たちに利がないではないか。誰が作った令なのだ」
大尉は、豊かな髭と大きな眼で大声で怒鳴っていた。
「私が作りました。三浦殿、良く最後までお読み下され。御家人たちには、最後には利をもたらす令でございますぞ」
右衛門は、平静に答えた。
「おのれ。口だけは、達者な奴め」
大尉は、激しく怒った。右衛門に向かい刀を抜いた。
右衛門は驚きもせずに、平静に大尉に向かって、交渉を続けた。
大尉も、右衛門の落ち着いた感じと強き圧に押された。大尉は、そのまま退いている。政所の役人たちは、安堵して右衛門の力量を認めていった。
勤めは、平静に行なった。政所の最も高い職の別当や執事から、認められるようになった。
御陰で、右衛門は弘安八年(一二八五年)に二十三歳の若さで、執事代に任じられたのである。この人事は、政所だけではなく幕府中で驚かれる話になった。政所には、右衛門がいったいどのような者か見に来る者が増えた。
右衛門は、騒ぎに惑わされずに黙々と職務を勤めている。紫連家の家臣の上田又一郎高綱も、文案を作る案主と呼ばれる下級役人である。
良高は高い身分の者であるが、自儘に思うところが一切なかった。常に政所の役人たちに気を遣い、職務も忠実にこなしていった。
右衛門の目は大きく、いつも心から活き活きとしている。背丈は六尺あり、当時としては高いほうだった。まだ髭を生やしては、いない。右衛門は、自分の生き様を誇りに思っていた。
この年の十一月十七日での事体である。鎌倉の塔ノ辻(とうのつじ)の屋敷から安達(あだち)秋田(あきた)城(じょう)介(のすけ)泰(やす)盛(もり)(前の執権北条時宗死後に出家して、覚真と名乗っていた)が外の騒動を聞きつけた。主君の執権北条貞時の屋敷に向かい、平左衛門尉(さえもんのじょう)頼綱から覚真は急を突かれて襲われた。
「左兵衛尉め。腹黒き男めが。不意を突いてきおった。決して許せんぞ」
覚真は凄まじく怒り、塔の辻の屋敷に戻り守りを固めた。
二・
「よく燃えておるぞ。覚真め。惨めだのう。そこの者、もっと火を点けるのだ。もっともっと、この屋敷を燃やし尽くすのだ」
左兵衛尉は、塔ノ辻が盛んに燃えている有様を見て喜んでいる。炎が目映(まばゆ)いくらいに赤く、黒い炭が立ち昇った。覚真側の者たちは、守りを固めていても五十三人と、少ない人数だった。左兵衛尉側は、一千の兵で屋敷を囲んで激しく攻め立てた。
煙が炭を抱え込んで、雲のほうに上がっていた。屋形の柱が、次々と倒れていった。倒れた音が、凄まじく喧しい。鎌倉で民たちが逃げ回っていた。皆、逼迫して走っていた。途中で倒れる子もいた。急いで、親から抱かれた。世に伝わる地獄絵図のように見えた。
左兵衛尉は、炎を見てますます気が躍っていた。屋敷を指し、目が大きく瞳に火の色が映っていた。笑いながら、覚真を罵倒していた。狂った気持ちを、体中から出している。常の人とは、思えない。
「はい。分かり申した」
火をもっと点けろと言いつけられた者たちは、左兵衛尉の冷たい目に怯えていた。
覚真は、前の執権の北条時宗の妻の兄である。時宗の跡を継いだ、時宗の嫡男貞時を輔佐する有力御家人である。秋田城介に任じられていた。
今は、安達家の家督は、嫡男の宗景に跡を継がせている。覚真の権勢は、一時は幕府で一、二を争うほどだった。日の本は蒙古が二度攻めた後、戦いに財を大いに費やした。戦に使った武具などに支払うために、かなり疲弊している。安達覚真は、日の本を立て直そうと、懸命に働いていた。今までの幕府の政を改める事体を行なってきている。
右衛門は発揚と恐れが混じりながら、やっと門に辿り着いた。家臣の上田又一郎高綱も従っている。又一郎も、髭は生やしていなかった。目は大きく瞳が茶色である。
笑顔で、大声を放つのが癖だった。勇猛で豪傑な感じである。門も燃え盛っていた。
「おのれ。必ずや飛び越えてみるぞ」
右衛門は一瞬力を込めて、門を潜り抜けた。右衛門は体に火の粉が掛かったが、すぐに振り払っている。
一瞬安堵したが、屋敷の燃え盛る無残な有様を見た。二人は立ち止まり悲しんでいる。地面は、炎で熱く乾いていた。
「遅かったか。残念だ。もう少し早く着いていたならば。しかし、覚真様にはあれほど屋敷を守る事体をお願いしたのに。何故屋敷を出られたのだ」
右衛門は、本心から悔いていた。
「何故、屋敷を出られたのだ。左兵衛尉の思う壺ではないか」
右衛門の悔しさは、ますます強くなった。
三・
屋敷と門の間の広場から、見慣れた男が高い声で笑いながら近づいてくる。
「右衛門様、またあの御方ですぞ」
又一郎が、鋭い目で相手を指した。
右衛門は、激しく怒りに満ちて、自分の中の波が激しくなってきた。近づいてきた相手は、実兄の主(もんど)水良(よし)幸(ゆき)であった。
月代(さかやき)の頭で、肌の色は白い。顔は細く長かった。髭は、口顎に薄くあった。目は細く狐目であり、瞳が茶色で鈍い光が差している感じであった。
「右衛門よ、お前は覚真側に付いたのか。見極めたつもりだったのだろう。しかし、見事な失敗だったのう。見てみろ。この無残に燃え盛る屋敷を。執権様が、平左兵衛尉様に覚真への討伐を命じられたのだ」
主水は細い目で、相変わらずにやついていた。
「それは嘘だ。執権様は聡明な御方だ。以前拝謁した時に、鎌倉で、覚真様と左兵衛尉様の争いを止めようとなさった。そのような御方が、左兵衛尉様の讒言などに惑わされる事体は決してない」
右衛門は心の奥から叫んで、主水の目を鋭く睨んだ。
「執権様は、覚真を必ず討ちもらすなと言われた。厳しく命じられておられる。お前たちは賊軍だ。覚真は、遂に見放されたのだぞ。あははは」
右衛門は、大声を出して笑っている主水を見た。
(卑しき男だ。真に情けない限りだ。我が紫連家の恥でしかない)
実の兄ながら、右衛門は憎悪の念を激しく燃やしていた。
「許せんぞ、主水め。実の兄ながら、愚かな男だ。お前を改めさせる。お前には、信念がない。只強きほうに付くだけだ。紫連家の者として実に情けない。お前が侍所(さぶらうどころ)で悪行をするだけで、我が家は恥をかいてきた」
右衛門は、より怒りの念が高まり、波が激しくなった。
「あはは、父上も、左衛門尉様側に付いたのだぞ。お前は、何も知らぬのだな」
「それは承知しておる。父上は御立派な御方だぞ。しかも、覚真様とは御昵懇である。しかし、紫連家を守るために、左兵衛尉様側に付いたのだ。お前とは違う。お前には、報されていなかったのか」
右衛門は、平静でいた。
「何だと。お前は、既に父上と話をつけていたのか。また紫連家の者共は、俺を仲間外れにしおって」
主水は、悔しい念が強かった。
主水は、右衛門を痛めつけようとした。だが、逆に言い換えされた。家臣の前で恥をかかされ、激しく怒った。
刀を抜いて振り回し、怒りを顕わにしている。主水は、悔しくて堪らない。怒りを隠せなかった。暴れている主水を見て、右衛門は今までの兄の悪行を思い返していた。情けない事体ばかりだった。考えた中身が、怒りに変わった。
(このような愚物に、紫連家の跡を継がせる訳にはいかぬ)
右衛門は、主水に激しい怒りを持って、急いで駆け寄っている。
「右衛門様、危うき事体でございますぞ。愚か者でも、実の兄上でございます」
上田又一郎が叫んで、止めようとした。
「又一郎よ。もう、我慢ならぬのだ。自分の権を強める事体しか考えぬ左兵衛尉様に、やすやすと味方するとは。この愚物は、決して許せん!」
右衛門は、赤(あか)糸(いと)威(おどし)鎧を身に付けた体を力強く、主水にぶつけた。
「痛いぞ。急にぶつかりおって。どうしてくれるのだ」
黒糸威鎧を付けた主水は、蹌踉(よろ)めいて倒れた。顔色が、青ざめている。主水の頭上には、灰色の土の煙が炎の上から昇っていた。
「右衛門様、私も続きますぞ」
又一郎は、叫んだ。
「又一郎、止めてくれ。俺と兄者との一騎打ちの戦いだ。いつの日にか、決着をつけねばならぬ。俺は思っていたのだ。決して邪魔をしてはならぬ」
右衛門は主水のほうを睨みながら、心底(しんてい)から力強く又一郎に話した。
「分かり申した。御存分にお戦いなされ。私は、主水様の家臣と向き合いますぞ」
又一郎は、はっきりと答えた。
主水は顔が蒼白して、恐れ慄(おのの)いた。体が震えていた。主水の家臣が慌てて、主水に駆け寄った。この恐れに駆られた男を急いで、立ち上がらせた。家臣たちは、右衛門に向かって刀を鞘から抜いた。
「おのれ、右衛門め。弟の分際で兄にぶつかるとは、決して許せぬぞ」
「兄者こそ、一対一の戦いの癖に、家臣たちに助太刀させるとは、実に情けない」
右衛門は。心から主水を哀れに思った。
「五月蠅い。誰が一対一で戦うと決めたのか。お前が勝手に決めただけだ。勝つには、人数は多いに越した事体はない。お前を、必ずや叩き斬ってやる」
主水は、落ち着きのない態度で震えながら話した。あと一つの刀を抜いた。備前三郎の國宗作の刀だ。天下の名刀である。主水には、似つかわしくない刀だった。刀の切先や鎬(しのぎ)は美しく光り、波打っている。
「兄者の剣の腕前にしては、似合わぬ名刀だな。実に勿体ない」
右衛門は、心底から呆れていた。
右衛門も、備前の福岡一文字派の吉房(よしふさ)作の刀をゆっくりと抜いた。こちらも、日の本に名を轟かせている名作である。鋭い切先と曲がった刃が、炎の光を映していた。
「五月蠅いぞ。武術は俺のほうが上だ。政所勤めの役人風情に負けて堪るか。右衛門よ、覚悟せよ。お前が憎い。名刀で、頭から斬ってやる」
確かに、主水は二度の蒙古軍との戦いに参陣し、蒙古兵を十二人討ち取った。武功は多くある。しかし、生まれつきの剣の才は、右衛門には敵わなかった。主水は大した鍛錬もしないで、剣の腕が立つ右衛門を妬んでいた。
主水は細い目で、右衛門を睨み続けた。炎のように怒りを発していた。
「兄者よ、よくそのような事体が話せるな。実に呆れてしまうぞ。散々、俺に計略をかけて陥れようとした。それは誤魔化せぬからな。悪いのは、兄者のほうではないか」
右衛門は、鋭い目で主水を睨みつけた。右衛門も、炎が燃えている感じの激しい憤りになった。
「政所の役人への讒言をした。俺を闇討ちしようとしたのは、兄者だぞ。忍びを使って、良子と一丸に危害を加える寸前だった。特に二人への危害は、決して許せん」
右衛門は主水を睨みつけながら、怒鳴った。
「あの時は、俺が良子と一丸を忍びから守った。俺は、今まで我慢に我慢を重ねてきた。御父上を憂慮させないためにもな。しかし、兄者は諦めずに、俺への攻めを続けてきた。陰湿な男だな」
右衛門は、主水を情けなく思っていた。
「やかましい。お前が名門紫連家の跡継ぎの俺様より、皆から愛されている。嫡男の俺は愛されなかった。外された感じが、許せなかったのだ」
主水は震えながら、話を続けていた。
二人は、また激しくぶつかり合った。お互いの刀が重なり合った。刃が交わり、火花が強く飛び散った。高い音が響いている。お互いに聞いていて、気分が悪くなった。主水の顔は、苦しみに喘いでいた。
二人は、体を何度もぶつけ合った。右衛門は、主水の力強さを感じた。しかし、その度に主水は倒れ、家臣から抱き起こされる始末である。
鎬がぶつかり合い、赤く美しい火花が散った。火花が、右衛門の頬にかかった。一瞬熱さを感じた。だが、右衛門は全く気にせずに戦いを続けていく。
右衛門のほうが、押していた。
「武勇は、剣術、馬術、弓術が得意な主水殿が、得手で右衛門殿を倒すはずだがな。何故か右衛門殿に押されているぞ」
二人の戦いを見ていた左兵衛尉の家臣は最初に、主水が勝つと思っていた。戦いの有様が、右衛門の優勢になっている。戦いを見ていた左兵衛尉の家臣たちは、驚愕した。
「お前たち! ここで怠けておらずに、覚真の首を急いで獲りに行け!」
左兵衛尉は、家臣たちに二人の戦いを見る事体を止めさせた。屋敷の中に進めさせた。左兵衛尉は、二人の戦いなど全く興味を持たなかった。屋敷への攻めを指揮している。
剣術は右衛門の生まれつきの才により、徐々に主水を後ろへ引き下がらせていた。炎の熱が、二人に強く当たった。土煙がまだ上がっている。主水のほうが、熱さに苦しんでいた。
右衛門の目が一層厳しくなり、心の中の炎が燃え盛った。主水への激しい憎悪が、右衛門の腕の力を強くさせた。既に、実の兄だと言う思いは消えていた。只の邪魔者としか見えていない。
右衛門は、主水の体に向かって両腕を使った。強く押し上げた。主水は、空に上がっていった。顔は蒼白で、目が怯えている。主水は、地面に叩きつけられた。
「うっ、痛いぞ。お前は酷い奴だな」
激しく重い音がした。主水の家臣が駆け寄ろうとした。
「邪魔立ては、止めてもらおう」
又一郎が、前に立ちはだかって止めさせた。鋭い目で、家臣たちを睨み付けた。主水の家臣たちは、震え上がった。
右衛門は、主水の胴の上に股がった。刀を上に素早く上げた。刀を振り下ろそうとした。しかし、自分の顔まで刀が落ちた時に止めている。
「虚しい戦いだ。止めておく」
いくら憎い相手でも、右衛門は、相手が兄と言うためらいで主水を刺せなかった。一瞬動きが止まった。また愚か者を相手に懸命になって、戦ってきたのが馬鹿馬鹿しくなった。
右衛門は、戦いを止めてゆっくりと主水から離れた。炎が紅く燃え盛る屋敷のほうに、向かっていた。覚真の事体だけが気掛かりである。
急いで走ろうとした時、背中のほうから嫌な気配を感じた。振り向くと、主水が薄気味の悪い顔をしながら立っていた。目を細め笑っている。
「右衛門様、後ろから主水様が」
「分かっておる。これくらいは、容易(たやす)く感づくぞ」
右衛門は、自分に主水が向かってきた。刀を縦にして振ってきた。右衛門は、素早く右に逸れた。右衛門は、激しい怒りを心に再び燃やしていた。嫌悪の心持ちは、再び強くなった。
「おのれ。せっかく兄者の命を助けたのに、その仕返しは何ごとだ。呆れてしまうぞ。紫連家の身内だと思うと、真に情けなく思う」
右衛門は、深く悲しくなった。
主水は、再び刀を振ってきた。右衛門は、主水の動きを外した。刃毀(はこぼ)れのしている刀を斜めに斬った。素早く力強く刀を振った。
主水の刀は、刃が大きく潰されて、全く使い物にならなくなった。右衛門は、紫連家の恥を激しく憎んでいた。しかし、主水の刀が使う事体ができなくなり、勝ち負けは決まった。
「おのれ、決して許さんぞ」
主水は、家臣から新しい刀を受け取った。主水は怒りに満ちて、また右衛門に斬り掛けた。
「どうだ。まだ戦えるぞ。憎っくきお前に、とどめを刺してやる」
右衛門は、主水が嬉しくなっている有様を見た。右衛門は、剣の技に大いに開きがあると分かった。戦うのは、虚しくなった。
気持ちは既に、覚真を助ける事体へと向かっていた。覚真を救う事体は、大事だった。邪魔をする主水が、鬱陶しいと思った。
主水が再び、右衛門の背中に向かって斬りつけた。右衛門は、素早く左に動いた。体を前に回し、主水を右肩から腰まで素早く斬り降ろした。右衛門は、悔いは全くなかった。紫連家の恥を除いたと、晴れ晴れしい気分になっている。
「俺が政所風情に斬られるとは」
主水は、しばらく体が少し揺れていた。だが、遂に息が切れた。ゆっくりと右側から倒れていった。
再び炎の熱が、右衛門たちに迫ってきた。主水の今までの悪行を思うと、許せない思いが強かった。しかし、実の兄の死に様を見た。強い悲しみが残った。
主水の兜を取った。後で、左兵衛尉側の者に見せつけるつもりである。
「右衛門様、御無事でございましたか」
又一郎は、懸念を持ちながら、急いで駆け寄ってきた。又一郎は、顔色がくすんでいた。右衛門の実の兄を討った気持ちを察した。
「何、大した事体はない。紫連家の恥をやっと討つ事体ができた。晴れた心だ」
又一郎は、右衛門が無理をしている姿を見て感じた。主(あるじ)に、忠義心を寄せている。すぐに、又一郎は主水の家臣たちに向かった。鯉口(こいくち)を切った。
「お許し下され。悪いのは、全て主水様でございます」
家臣たちは恐れ慄いた。主の主水の死体を放り出した、急いで逃げ去った。家臣たちは、常日頃から主水に痛めつけられた。主には、恨みをかなり抱いていた。
「何という者たちだ。主を置いておくとは。武士の風上にもおけぬ奴らだ」
又一郎は、呆れ且つ憤慨している。
「そうだ。今の場に留まっている場合ではない。覚真様を急いで、お助けせねばならぬ。又一郎よ、屋敷の中に向かおう」
「はい、参りましょう」
又一郎は、大声で答えた。
右衛門は、主水の死体に向けて念仏を称えた。死体となり果てた主水は、細い目を見開いた。口から涎(よだれ)を出していた。
右衛門は、体を回し急いで駆けていった。赤い炎が、空高く昇っている屋敷に向かった。
四・
「覚真様はどこだ。いったい、どこにいらっしゃるのだ」
右衛門は、いつもの平静な有様とは違っていた。焦っていた。一刻も早く覚真を助けねばならない。強く思っている。又一郎も付き従っていた。二人は炎に包まれ、煙に満ちている中に、口と鼻を袖で塞いだ。二人は息ができなくなり、苦しい思いである。
柱が右から、右衛門の前を急に倒れてきた。柱は、右衛門たちの走った廊下の前に落ちていった。
「右衛門様、危ない!」
「大事ない。傷も、一切負ってはおらぬ。覚真様を捜すほうが先だ」
右衛門は、落ち着いて答えた。
「分かり申した。早く見つけましょうぞ」
二人は、燃え盛る柱を次々と飛び越えていった。炎が、右衛門の直垂(ひたたれ)の下に付いた。しかし、右衛門はすぐに取り払った。炎は直垂から、既に消えている。
二人は、屋敷の奥に入っていった。奥は、まだ火の手が来ていない。
「煙がない。まだ大丈夫だぞ。覚真様はどこにおられるのだ。覚真様!」
右衛門は、大声を五回叫びながら、又一郎と共に周りを探した。
(やはり奥の居間におられるのか)
右衛門は、奥の居間に入った。人の影を見つけた。奥には、薄暗い中に一人の男らしき者が、正座をしている。
「覚真様!」
右衛門は、思わず声を上げた。
覚真は、厳しい顔付きでいる。頭は僧髪だった。浅黒い色の肌で、細長い顔だった。出家前は口、顎に濃く髭を生やしていた。皆が憧れる艶のある髭だった。今は出家して、全て剃り落としている。
目は、切れ長で鋭かった。瞳は、圧を人に感じさせる態度があった。
覚真は、白衣をはだけ、腹を出していた。小刀を両手に握りしめている。右衛門は、覚真の切腹をする姿を見て驚いた。
「覚真様、お命を絶つ事体はお止めくだされ。再び立て直しましょう。左兵衛尉を退治致しましょうぞ」
右衛門は、心の底から叫んだ。
覚真は、右衛門のほうに顔を向けた。厳しい顔付きが変わり、右衛門を見て微笑んだ。死を前にして、晴れやかな顔である。
「右衛門よ。其方の忠言を聞かずに、屋敷を出てしまった。左兵衛尉に、味方を全て討たれてしもうた。奴の計略にはまってしまった。真に済まぬ」
覚真は、安らかな顔で右衛門に向かって、深く頭を下げた。
「右衛門よ。其方は、必ず生き残るのだぞ。何時の日か左兵衛尉を討って、儂の墓の前に奴の首を供えてくれ。儂は、もう疲れた。時宗様亡き後、幕府や日の本を懸命に改めようとした。しかし、邪魔立てする者が多過ぎた。自分の利を守る事体しか、考えておらぬ者が多い」
覚真は、悔しい顔で上を向いていた。
「儂は、とうとう日の本を豊かにする政が、できなかった。御家人たちは、相変わらず苦しい暮らしを送っている。実に無念だ」
覚真は、まだ微笑んでいる。右衛門には、一切を諦めた者の一種の悟りに見えた。
「覚真様、まだ機はございます。左兵衛尉が隙を見せた時に、立ち上がりましょう。安達家を立て直しましょうぞ」
「もうよい。儂の最期を見届けてくれ。儂は、見事な死を遂げたい。左兵衛尉には、決してできない死に様だ。右衛門が来てくれて良かったぞ。最期に良き縁に儂は恵まれた。介錯を頼むぞ」
覚真は、小刀を下の腹に当てた。腹は、引き締まって筋が伸びている。五十を過ぎても、覚真は体の鍛練は怠らなかった。右衛門は、覚真の鍛錬を尊んでいた。
「分かり申した。もうお止めは、致しませぬ。覚真様の新しき幕府の在り方は、私たちが続いて造らせていただきます」
右衛門も、覚悟を決めて覚真の背中に回った。右衛門は、覚真の首を見ている。隠居した身だが、皺一つなき美しい肌の首だった。今までの覚真との遣り取りが、浮かんで続いていた。右衛門は、覚真との別れを寂しく思っている。しかし、気を取り直して、首を見つめていた。
右衛門は、炎が奥の居間まで来ている事体を見た。右衛門は、煙も流れて前まで現れた様を見つめた。右衛門は、煙が居間に満ちれば、皆の命が危ういと思った。
「大虎と龍が描かれている襖(ふすま)が燃え始めておりますぞ)
右衛門は、又一郎が叫んでいる姿を見た。右衛門は、柱も倒れ、黒い煤が上に昇った有様を見つめた。
(煙が、かなり我慢し辛い。鼻にきつい匂いがする)
右衛門は、早く切腹をせねば皆の命が危ういと思った。
「右衛門よ、行くぞ」
覚真は、重く低い声で話し掛けた。
「はい、分かり申した」
右衛門は、覚真が小刀を両腕で持つ姿を見た。覚真は、一度前にゆっくりと動かした。勢いを付けて小刀を下の腹に、真っ直ぐに刺した。
「うっ」
右衛門の耳に、覚真が小さな声で呻(うめ)き声が聞こえた。武人の誉れで、右衛門は、大きな声で呻くのは恥と思う覚真の心持ちを強く感じた。
右衛門は、覚真が力を加えて小刀を押す有様を真剣に見た。勢い良く、下の腹を十文字に切り裂いた。又一郎は、愕然としている。下の腹からは、多くの血が流れていた。濁った赤い色の血だった。
「右衛門よ、早く頼む」
右衛門は、覚真が汗を流しながら、顔に苦しい姿が見て取れた。
「覚真様。行きますぞ。ご免!」
右衛門は、刀を上げ素早い動きで、覚真の首に振り落とした。右衛門は、介錯は初めてだった。だが、武家の心得として、切腹と共に父大夫から学んでいた。覚真の首がすぐに静かに落ちた。瞑目し、安らかな顔であった。
第二章 鎌倉を抜け出す
一・
「覚真様。私の力不足で、真に申し訳ございませぬ」
右衛門は、思わず諱(いみな)で呼んだ。
「さぞ、今までお辛かったでしょう。安らかにお眠り下され」
右衛門は、覚真の首を両手で取り大事に抱えた。見渡しても、周りには首を包む物はない。右衛門は、直垂を脱ぎ覚真の首を包んだ。
「右衛門様、急ぎましょう。覚真様の首を、敵に見つからぬ所に隠さねばなりませぬ」
又一郎は、促した。
「分かっておる。すぐに出よう。屋敷の外には左兵衛尉めの軍勢もいる。従って、抜け出すのは難しいぞ」
二人は、屋敷の中の炎が燃え盛る中を駆けていった。落ちていく柱を次々と、体を左右に動かし避けながら、走った。右衛門は、屋敷の中が相変わらず煙が満ちていた。かなり苦しかった。二人は、左手で鼻と口を押さえて進んでいった。屋敷をやっと抜け出した。
右衛門は、門が既に燃えて落ちた様を見た。地面に、無残な黒い炭を見た。右衛門の目には、焼け跡が残っているだけであった。かなり二人は走った。鎌倉の街の中を、懸命に走っている。
右衛門は、鎌倉の有様を走っている者から聞いた。将軍の御所が燃え落ちたそうだ。また、周りの屋敷に次々と炎が伝わっていった。右衛門は、一番悲しかったのは、民たちが恐れの顔をしながら、逃げ回った事体だった。二人は、鎌倉の中から外に向かっていた。
「おのれ、左兵衛尉め。自分の権を強めるために、民まで苦しめるのか。人を人と思わない悪人だ。決して許せん!」
右衛門は、激しく左兵衛尉に怒りを向けた。右衛門と又一郎は、鎌倉の亀ヶ谷切り通しを通り抜けた。鎌倉から出た。右手で覚真の首を持つ右衛門は、懸命に覚真の首を隠す所を探した。人の気がいない朽ち果てた寺を見つけた。柱には、刀傷が幾つか見えた。しかし丈夫ではあった。
右衛門は見たところ、寺の周りに植わった落葉松(からまつ)の木は、手を加えられていない。しかし、緑の葉の美しさと幹の太さが、古寺には似つかわしくない。寺の裏に急いで辿り着いた。住職もいなかった。誰も守っていない寺だった。二人は、大きな汗を流している。
「ようやく辿り着いた」
二人は、息が大いに荒かった。
右衛門は鎌倉の空を見返った。炎が燃えた後で、赤く染まっていた。気味の悪い空だった。古寺の裏は、覚真の屋敷の地獄絵図がまるでなかったかと思わせる。寂寥を感じさせていた。
二・
「ここに、覚真様の仮の墓を建てる。左兵衛尉が滅びた時には、立派な寺を建てよう。大きな墓を造るぞ。盛大な供養をするのだ」
右衛門は、厳粛な心持ちを顔に出していた。敵がいないかと、周りを見て話をした。
「分かり申した。すぐに土を掘りましょう」
又一郎は口を開いた。しかし、土を掘る道具がない。
「残念だ。手間は掛かるが、手で土を掘るしか術がない」
右衛門は、口を引き締め述べている。
「そうでございますね。すぐに掘りましょう」
右衛門と又一郎は、近くの地面に手を付けた。
「これは、かなり固い土だ。乾いている」
二人で、手で土を掘っていくのは難しかった。
「最近は、晴れの日が続いていた。雨が七日ほど降っていないぞ」
右衛門は、思いついた。
「又一郎よ、岩があれば良いと思う。近くから岩を持って来よう。岩で土を削るしかない」
右衛門は、案を考えて話した。
「その案しかないでございますね、右衛門様。すぐに岩のある場所を探しましょう」
二人は、寺の裏にある小高い山に登っていった。
(岩があればいいのだが。なければ他の場を探さねばならぬ。左兵衛尉方に見つかる恐れがある)
右衛門は、憂慮した。
右衛門たちは、寺の裏山に登った。多くの岩が大小見つかった。右衛門は、安堵した。岩も固い土にはまり、取る事体が難しい。二人掛りで、懸命になって五つの岩を取った。かなりの重さを右衛門は感じた。気を許すと、岩が滑り落ちる。右衛門は、自分の足を潰してしまうと考えた。
二人は、岩を寺の裏まで運んだ。二人で、岩一つを下って持ち運んだ。精一杯だった。何度も、岩で土を掘っては又一郎が持っていた唐(から)綾(あや)で運んだ。
右衛門は、覚真の首を包む時に、又一郎が唐綾を忘れた事体に怒った。十二回も岩で土を掘った。首を供える穴も、掘った。
さすがに、常日頃に体を鍛えている二人も、疲れ果てている。目立たないように小さな土を盛り、覚真の仮の墓を造った。墓に向かって、二人は心から念仏を称えた。二人は、禅宗の建長寺で精神を鍛えている。しかし、浄土宗の念仏の教えも信じていた。
(覚真様、どうかあの世では安らかにお過ごし下され。時宗様と楽しくお話下され。争いのない日々を送っていただく事体を願っております。左兵衛尉の首は、私たちが必ずや取ってみます)
右衛門は真から願い、再び念仏を称え続けている。
第三章 英雄ホロケウとの出会い
一・
一ヶ月前の十月七日に、右衛門は又一郎を連れて、鎌倉の街を歩いていた。歩いていた所は、鎌倉一大きい路の若宮(わかみや)大路(おおじ)だった。街の店々は、野菜、魚、酒、武具、茶道具など色々な品を売っていた。賑やかで安らかな態度を見て、右衛門は、真に穏やかになっている。
右衛門は、日の本には、国が造った銭が世にはない事体を知った。蒙古から滅ぼされた宋の銭、いわゆる宋銭が多く使われていた。
鎌倉の世に入って、宋銭の流れはますます進んだ。宋銭が盛んになるまでは、絹が銭の代わりになっていた。宋銭が流れて街での絹の価が下がるのは、止まらなかった。また、朝廷や幕府の中においても、年貢などの賦課や物を買う時には、絹よりも便利な宋銭で行われるようになった。
右衛門は、宋銭の遣り取りが盛んになり過ぎたと思った。幕府は考え、宋銭の出入りが禁じられている。しかし一番の訳であった、絹による財の営みが、宋銭に代わられた。過去の物となっていった。
嘉禄二年(一二二六年)に鎌倉幕府は、その四年後には朝廷は、元々の政(まつりごと)を改めて、公に宋銭の使用を認めた。十三世紀には、絹、布が持っていた貨幣の値を宋銭が追い抜いている。次第に年貢も銭で納められるようになった。日の本の銭の世界は、大きく変わっていた。
為替(かわし)は、この時代に始められた。為替は、手形などによって貸借を決める遣り方だった。離れた地域の貸した者と借りた者との間での取引のためだった。割符(さいふ)と呼ばれる物が使われた。それぞれで、貸借を決める場合がある。今までは、遠く離れた地に銭を送る危うさや、手間が要った。
為替は、銭を箱ぶ危うさや手間を避けるために使われている。銭の他、米などを納める取引にも使われた。米を用いる替え米もあった。
座と言う物も、できあがった。朝廷、公家、神社、寺などから守られた。商人や職人の座に対して、幕府や領主などの本所が命じた負担が座役だった。
座役を納める代わりがあった、特に定められた品の売りや造り、猿楽を行なう事体などがある。座だけが品の売り、造り、猿楽を行なう事体などを占めている。
頼(たの)母子講(もしこう)は、座による銭の通しを狙っている組によって作られた。銭の通しをお互いに助ける組だった。組の者が定められた日に、決まった額の掛け金をしている。籤(くじ)や入れ札によって定められた額の銭を受けた。組の全ての者に行き渡るまで行うものだった。
二毛作と呼ばれる新しい農作も現れた。米作りを終わった後は、今までは何も作らなかった。しかし、鎌倉の世から米の後に麦を作っていた。主に、畿内や西国で行なわれていた。新しい作物として、楮(こうぞ)、荏(え)胡麻(ごま)、藍、桑、茶などがある。
日の本は、新しき世ができていった。新しき世を進めていたのが、覚真だった。
二・
右衛門と又一郎が、ゆっくりと若宮大路を上に向かって歩いていた。向こうから、濃い豊かな髭をたくわえた背の高い男がゆるりと歩いてくる。
「六尺はあるな。俺と背丈はあまり変わらない」
右衛門が呟いた。
男は、長く艶のある黒髪を紫の紐で結んでいた。眉が太くて目は大きく、鼻が高かった。黄色みの乏しい明褐色の顔をしている。日の本の者とは思われなかった。異国の者と右衛門は考えた。
後ろには、日の本の女性(にょしょう)よりもかなり背が高い女性が静かに歩いていた。恥ずかしそうに見えた。しかし、目は活き活きとしている。
「又一郎よ。向こうの御仁は誰であろう。見慣れぬ御方だな」
右衛門が不思議に思い、又一郎に訪ねた。
「あれは樺太島の蝦夷(えぞ)の者ですぞ。アイヌとも呼ばれております」
又一郎は、自分が知っているのを誇って話をした。
「何故、其方が知っておるのだ。私は今まで知らぬぞ」
右衛門が少し不服なように口を開いた。しかし、すぐに自分の不服な態度に気付いて改めた。
「又一郎よ、すまぬ。武士とした者が、迂闊な姿をしてしまった」
「右衛門様、お気になさらずに。たまたま、右衛門様が知らないだけでございますよ。日の本では、蒙古から我が国を救った偉大な男として名が知られておりますぞ」
「どのような行いで、あの御仁は名を馳せているのだ」
右衛門は、ますます分からないようで又一郎に尋ねた。右衛門は、アイヌの大男に好奇の心を持っていた。
「御仁は、ホロケウ様とおっしゃられます。樺太島という蝦夷ヶ島(えぞがしま)の北にある所から、博多に来られたのです。以前に、樺太に蒙古が攻めてきて、御父上が討たれたそうです。御父上の敵を討つために、遙々博多に来られました」
又一郎は、話を続けた。
「蒙古と二度戦い、御父上の敵を討たれ武名をあげられました。蒙古が、二度目に攻めて来る前でした。石塁という石垣の塊を造る案を、御仁がおっしゃったのです。」
又一郎は、ホロケウの話で発揚している。
「石塁を博多の海沿いに造る事体を、総大将の少弐経資(しょうにつねすけ)様に進言なされました。一度目の蒙古が攻めてきた時は、敵にやすやすと陸に入られました」
又一郎は、話を続ける。
「御進言は受け入れられ、博多の湊や九州の北の地に、石塁は造られました。縄張りはホロケウ様が、博多の海沿い全てに行なわれました。石塁造りの御家人たちへの指図も、ホロケウ様がなされております」
又一郎の話は、まだ続く。
「二度目に蒙古軍が攻めた時に、石塁は大いに役に立ったとの事体です。石塁はかなりの高さで、馬で攻めた蒙古軍を撥ね除けました。石塁の上から、武士たちが次々と矢を放ち、蒙古の兵たちは倒れたそうにございます」
又一郎は、ますます意気込んでいる。
「だから、ホロケウ様は日の本を救った御仁として、幕府を始め、御家人、朝廷、公家、民たちから崇められておられます」
又一郎の長い話は終わった。
「そうなのか。幕府の政所に勤めている俺が知らぬとは、何たる事体だ。外での態度にも気を付けねばならぬ」
右衛門は、心底を引き締め直した。
ホロケウがピリカを連れて街の中を歩いている時だった。周りには、多くの人が集まった。
日の本を救った偉い英雄を見て、民たちはとても喜んだ。側に駆け寄り、拝む者まで出る始末だった。ホロケウは考えなかった皆の喜んだ迎えぶりを見た。少し戸惑っている。
右衛門は、アイヌの英雄と話をしたいと強く心から思った。歩くのを速めて、ホロケウに近づいていった。
「右衛門様、どうなさるおつもりで」
又一郎が驚いて、右衛門を止めようとした。手を捕まえようとしたが、右衛門が引っ込めた。
「止めるな、又一郎。俺はホロケウ様にお会いして、アイヌの話、蒙古との戦いを是非聞きたいのだ」
右衛門は、発揚している。ホロケウが歩いている前に、右衛門は立ち止まった。右衛門は、深々と頭を下げた。ホロケウは、少し驚いた顔をしている。ピリカは逼迫(ひっぱく)した顔だった。
「私は、紫連右衛門良高と申します、幕府の政所という所で働いております。日の本の言葉をお話しできるかは、存じ上げません。突然訪ねて来て、失礼をお許し下さい」
右衛門は、頭を下げたままだった。
「紫連様、頭をお上げください。私は、樺太のクシュンコタンという村落の長のホロケウと申します。幼い頃に樺太に来ていた日の本の人の商人から、日の本の言葉を教えてもらいました。従って、博多で御家人の方々と話す事体には、困りませんでした」
ホロケウは和やかに話した。
「左様にございますか。お話が通じて嬉しく存じ上げます。北の島から遙々と来て下さり、御刻苦でございます」
右衛門は同じ背丈の男と話した。アイヌの只ならぬ力を、強く自分の気持ちに受け止めた。
「ホロケウ様は、幕府の援軍五千の兵を得て、蒙古軍を樺太で打ち破ったとお聞きしました」
「そうです。博多で造った石塁を、樺太にも造りました。幕府の援軍と石塁のお蔭で五千の兵で、蒙古兵五万を討ち倒しました。蒙古をやっと、樺太から追い出す事体ができました」
ホロケウは、穏やかにゆっくりと話している。
「十倍の敵を倒したのですか。驚きました」
「石塁だけでなく、幕府の侍殿たちの勇ましい戦いぶりが、蒙古軍を追い出したのです。従って、今回は幕府に御礼に伺いました」
ホロケウは笑みを浮かべて、穏やかに話した。
「私は博多で、肥後の守護の安達盛宗様と共に戦いました。その縁で盛宗様の御父上の覚真様を御紹介いただいております。覚真様のお力で、この度は将軍様と執権様にお会い出来ました。日の本の高名な職人が造った刀や多くの宋銭を、将軍様から頂きました」
後ろにいるピリカも、今は穏やかになっている。
「さすがは、日の本と樺太を救った御方ですね。堂々となされておられます」
右衛門は追従ではなく、心底からホロケウを褒め称えた。
「しかし、気になる事体があります。執権の北条貞時様にお仕えする覚真様と平頼綱様が、何か話が合わない有様でした」
ホロケウは、目を空に向けて語った。
「さすがは、ホロケウ様ですな。幕府の中の事体をお見せして、実にお恥ずかしい限りです」
右衛門は、心よりホロケウを敬っている。
「右衛門様、貴殿の顔を見て話を聞きました。貴殿は後に新しき世を造り、日の本を救う御方になられると、私は確かに考えました。樺太で、貴殿の御活躍を楽しみにしております」
ホロケウは、右衛門の顔を見て大きく頷いていた。
「恐れ多き事体でございます。私は、政所の一役人に過ぎませぬ」
右衛門は、首を横に振った。
「いいえ。私は人を見る目は、確かにございます。貴殿の行く末が、楽しみです」
ホロケウは、右衛門の目を穏やかに捉えていた。右衛門の右手を、両手で力強く握った。
「また、いずれお会いしましょう。良き御縁に恵まれて、嬉しく思います」
ホロケウは手を振りながら、若宮大路を下に歩いていた。ピリカも。急いで後ろに付いていった。
三・
「芯の強き立派な御方だった。お話ができて実に良かった」
右衛門は、大いに感じ入った。
「さすがは、右衛門様ですな。ホロケウ様からお褒めの言葉をいただくとは」
又一郎は、大きく頷いた。
第四章 右衛門と主水の確執
一・
右衛門は、政所に入って行った。既に、ホロケウと右衛門が会った話は、政所中に広まっている。右衛門は、政所すら鎌倉の街のように話が回る事体に驚いた。滝藤中(ちゅう)監物(けんもつ)が足早に近づいてきた。
「執事代殿、蒙古退治の英雄ホロケウ殿とお会いしたそうでございますな。しかも執事代殿が将来大物になると告げられたとか。さすがはアイヌの英雄です。人を見る目がございますな」
右衛門は、中監物から日頃より尊ばれている。悪気はないが、口が軽かった。落ち着きのない下役であった。
政所中で、アイヌ人の英雄が右衛門を高く評した事体で、嫉妬の念に駆られる者もいた。
しかし、多くの者は、いつもの右衛門の優れた働きぶりを見ている。従って、政所の誇りと受けている者が多かった。右衛門が仕える政所執事の二階堂行忠も、右衛門の働きぶりを褒め、これからの有様を期待している。
二・
兄の主水良幸は、ホロケウの話を聞いて、激しく嫉妬していた。幼き頃から、紫連家での利発さで可愛がられている右衛門を憎んだ。武勇は、自分のほうが上だと思っている。文書などを作っている弟なのになにゆえ、右衛門が褒められたのか。全く分からなかった。
主水は、侍所の越訴(おっそ)奉行の下にいる小役人であった。右衛門は、幕府内での立場が主水より、遙かに高い。主水は、ますます激しい憎しみを抱いた。すぐに政所の役人たちに、右衛門について、ない事体を讒言した。
しかし、政所の役人たちは、主水の人物を良く知っていた。鎌倉中で主水は、悪行を重ねていた。讒言をしたり、人の妻を無理矢理横取りしようとした。また、侍所で下役に対して、すぐに怒鳴りつけている。いつも苛ついていた。かなり悪い評は、鎌倉中に出回っていた。
悪しき評を聞いて主水は、いつも周りに怒鳴り散らしている。右衛門を恨み、侍所での役人たちに八つ当たりをした。役人たちと、すぐに喧嘩になった。
ますます主水は、周りから嫌われていった。侍所での昇進がないのは、主水自身が招いた事体だった。しかし、本人は、自分を分かっていない。
父大夫も主水が嫡男だが、主水の性分があまりにも悪しき事体に憂慮していた。主水に望みがない事体に懸念している。主水より遙かに器量がある右衛門に、紫連家の跡を継がせたいのが、正直な所だった。
主水は、幕府の中で権勢が高い平左兵衛尉頼綱に近づこうとした。左兵衛尉は、主水を見て嫌悪した。左兵衛尉は冷酷な人物だったが、才のある者は遇して扱っている。主水は、武術は得手であったが、人と共に働く事体が難しい。左兵衛尉は、主水の気性を嫌がった。
しかし、今のところ名門の御家人の紫連家の跡取りなので、嫌々ながらも自分の一派に取り入れた。主水は、北条得宗家の内管領から目を掛けられたので、心が躍っていた。
「俺は左兵衛尉様から目を掛けられているのだ。何か俺様に楯突いたならば、左兵衛尉様に伝えるぞ。よく覚えておけ」
主水は、頭に乗っていた。周りの者は、困り果てている。
自分の家、まだ父の紫連大夫良続が当主だった。だから、大夫の屋敷の隣に住んでいた。侍所から帰ってきて、妻の高子に喜んで話をした。
「今日は、俺は平左兵衛尉様から目を掛けられたぞ」
主水は、胸を張っていた。
しかし、主水は家でも傲慢でいたので、高子はうんざりしている。主水の自慢話を聞いても、無視をした。
「お前は、それでも俺様の妻か。夫に対する態度か」
主水は腹を立てて怒り、高子に文句を話した。高子は全く相手にせずに、台所で下女たちに、夕餉の支度を命じている。
主水は怒りながらも、高子が喜んでくれない事体が悲しかった。縁側にいた息子の幸(ゆき)の丸と娘の雪子に話をしようと近づいた。
「お前たちよ。御父上は、今日は良き事体があったぞ。話してやるから聞きなさい」
「嫌だよ。主水とかと、話なんかしたくない」
二人の子は、全く父に懐かずに縁側から逃げていった。
主水は、ますます怒った。一方で悲しさに遣りきれない。怒りの遣り場がなく、近くにいた下男を蹴り上げた。下男は、驚かずに冷ややかな目で主水を見て離れた。その悪態を大夫は、隣の屋敷から見ていた。溜息が出た。
(我が子ながら、実に情けない。主水に家督を継がせるのは、危うき事体だ。右衛門が先に生まれていたならば)
大夫は、右衛門に家督を継がせる事体を真剣に考えている。紫連家のこれからは、跡継ぎ選びで決まってしまうからだった。
第五章 新たな政と挫折
一・
覚真は、時宗亡き後、政の権を握り幕府の立て直しを行なった。だが、覚真の政に不満を持つ御家人たちが現れた。左兵衛尉は、喜び自分の側に取り込んでいった。覚真側は、次第に追い詰められていった。
覚真側も黙ってはいない。吉良満氏、伴野長泰、宇都宮景綱などの有力御家人を味方に取り込んだ。
覚真は、幼き執権で甥でもある貞時を輔佐した。幕府の政を大きく改めようとした。蒙古との二度に渡る戦いで、武士や民たちが疲弊の底にあったためだった。
後に、弘安の徳政と呼ばれる政だ。弘安七年(一二八四)の執権の北条時宗の死去から翌年の覚真が左兵衛尉に討たれる、いわゆる霜月騒動にかけての約一年半の間に、行なわれた。
時宗の死から七五日目の同年五月二十日に、弘安新式目と称される三十八ヶ条の新しく追加された法が、定められた。
四月の貞時の得宗家の継承から、七月の貞時が執権に就く時までに、百ヶ条余りの法が追加された。
一連の追加された法は、大きく分けると以下の物が定められている。
一宮(いちのみや)、国分寺(こくぶんじ)の興行(寺社は各種の芸能を、客に観せて金銭を取った。その取った金銭で寺社を建てたり、古くなったり壊れそうな所を直すための事体)の令。国衙が今まで治めていた諸国の国分寺、一宮(いちのみや)を、守護が守る事体にした。
関東御領興行令は、幕府の財の基である関東御領を守る事体及び御家人の取り纏(まと)めを行なう法である。
悪党禁圧令は、非御家人、特に悪党の者たちの幕府に対抗する態度への強い取締りを進める法だった。
商いでの流れの取り締りの令は、河手(かわて)、津料(つりょう)、沽(こ)酒(しゅ)、押買を禁じた。幕府による人の陸や海での動きや、商いの品への関わりを幕府が強く取り締まる法だった。
鎮西神領興行令は、別の者へと流れ出した鎮西の神社の社領を、ただで戻す法だった。主に庶民への売買を禁じている。
鎮西名主職安堵令は、所領安堵が曖昧な形の九州の名主に対する、安堵の下文を発給する法だった。
引付興行令は、引付衆、奉行人の中で働きが鈍い者や命に従わない者などを、取り除く法だった。
倹約令は、御家人などに対する倹約を強める法である。
田の文(荘園、公領における田畑の広さや、領地の持ち主が誰なのかという関係などを詳しく記した田の籍簿)を作る命に対して、田畑の作物を差し上げる法であった。
また、日の本全ての寺社領、国衙領、荘園、関東御領の田数、領主を調べさせた。調べた中身を大田文などの台帳を作らせる法でもあった。
とりわけ、幕府から強く進められた神仏への芸や能、蒙古の襲来を通じて、幕府の動きは、大幅に変わった。初めて幕府の力が及んだ、九州の本所一円地の名主、武士に安堵を与えた。幕府に仕える御家人に取り入れようとした。
東国に偏りがちだった、幕府の政の権を日の本全てに広げる考えがあった。また、六波羅探題や鎮西談議所の権を強める事体も図られている。
だが、新しく日の本を改める政に対する、幕府内外の反撥が根強かった。しかも、蒙古撃退での恩賞も、御家人たちは十分に貰えなかった。御家人たちの不満は、高まる一方である。寺社も恩恵を貰える一方で、幕府からの取り締まりが強くなった。従って、結局不満は高まっている。
また、徳政令が出て、借りた御家人たちは、始めは喜んでいた。しかし、徳政令で貸した金が戻って来ない。その事体を憂慮した者たちがいる。
借(かし)上(あげ)などの者たちだった。借上たちは、高い利子を付けて貸した。暴利で儲けていた。覚真は、悪行を働く借上を危ぶんだ。特に借りていた御家人たちは、高利に逼迫した。
借上は、借りた者が金を返さない事体に不満を持った。かえって金を貸さなくなった。武士たちは、貧しさに苦しんでいる。幕府への不満は、大きく高まった。
(政が上手いかぬ。御家人は無論、寺社も疲弊は続いている。民たちの暮らしも一向に良くならない)
覚真は、強い懸念を持った。
弘安七年の段階で、既に政の改めが迫られた。翌年には追加の法の発布もなくなり、日の本を改める事体は、一旦止まった。覚真は、政を進める事体ができなくなった。
日の本の武士の不満を見て、左兵衛尉が喜んだ。左兵衛尉が動きだした。前述したように、覚真側に付いていた御家人たちを自分の側に、次々と取込んでいった。
二・
平左衛門尉は、鎌倉幕府の執権の北条氏の得宗家(北条氏の中でも、代々執権の座に着いていた。北条氏でも中心で強い権を持っていた一族である)に仕える内管領(ないかんれい)である。従って、幕府の政に参加する者ではない。将軍に仕える御家人と比べても、低い身分だった。
しかし、得宗家が、執権の時宗の時代に強い権を持った事体に伴い、内管領も強い権を持った。今や、御家人たちが左兵衛尉の顔色を伺う始末だった。
左兵衛尉は、此度の覚真攻めを指揮して、攻めている者である。覚真と左兵衛尉は、前年に死去した第八代の執権の北条時宗の存命中の頃から対立していた。間に入った時宗を悩ませた。
当初、多くの外様の御家人たちの支持を受けたのは覚真、当時の安達泰盛だった。左兵衛尉は、北条得宗家の権を強める事体を主に考えていた。覚真は、得宗被官筆頭の左兵衛尉とは、全く考え方が合わない。
しかし、覚真が徳政令を出し、金を借りていた御家人たちを救った。前述した通り、その時は、覚真は、多くの御家人たちの支持を得ていた。
覚真が非御家人たち、いわゆる侍身分ではあるが,将軍への奉公を勤めない者たちの保護を行なった。主に西国に多い。
蒙古襲来後の九州においては、幕府の命により御家人の是非を問わずに、守護の下で異国警固の任に当たった。武功を通して非御家人も,次第に幕府の支配下に入っていった。御家人になる者も、特に多い。
覚真は、幕府に仕えていない武士たちを遇する政を行なった。元々幕府に仕えていた武士たちは、次第に覚真から離れていった。
御家人たちを救うための政は、上手くいかなかった。左兵衛尉側に付く者は、多くなった。このような有様になっている。左兵衛尉側の内管領一派の力は、強くなっていった。
三・
右衛門は、覚真事体安達秋田城介覚真の屋敷に呼ばれている。又一郎も、供として着いて来た。時宗亡き後、平左兵衛尉頼綱と二人で幼き執権貞時を支えていた。大広間で待たされた。案内してきた家臣は、丁重に二人を連れて行った。如才ない案内だった。覚真の常の家臣たちへの躾振りが分かる。
(さすがは覚真様。家臣たちも、隙もなく優れている)
庭には、カイドウの花が咲き乱れていた。桃色の花が美しい。右衛門は、武勇に秀でており、勇猛果敢な覚真らしくもない花だと思った。意外だった。
大広間の襖には、二匹の大きな虎が戦う姿が描かれている。今にも動くと見られる躍動が、右衛門には強く感じられた。
(強き権を持った御方は、龍や虎などを襖に描かせると聞いた。やはり覚真様も、そのような御方だったのか。初めて会う御方だ。お会いするのが楽しみだ)
右衛門は、不安や逼迫はなく喜びに満ちていた。覚真の姿を想像した。六尺の背丈があり、少し太り気味だと思っている。やがて、男が入ってきた。家臣は連れていない。
「待たせてすまぬ。突如、政で急ぎ取り扱わねばならぬ件が入ってな」
覚真は、浅黒色の肌で細長い顔をしている。右衛門の想像と違い、背丈は四尺ほどで大きくはなく、痩せていた。
以前は、口と顎に濃く髭を生やしていた。自慢の髭だった。しかし、時宗が亡くなり、出家した。髭は当然剃っている。目は切れ長で鋭かった。瞳は笑みを浮かべても、周りの者に強い圧を感じさせた。
「初めてお会い致しまして、恐悦至極に存じます。紫連右衛門良高と申します。政所の一役人の私如きをお招きされ、恐れ入り奉ります。この者は、私の従者の上田又一郎高綱と申します。私は、待たせてはおりませぬ。美しき大広間を見て、素晴らしく思い、感銘を受けておりました」
「紫連右衛門よ。政所での素早く正しき文書を作る事体、下役への確かな指示、侍所との優れた折衝は、実に見事であった。此度のホロケウからの高い評を受けたのは、真に其方が優れた才を持っているからだ。儂も、そなたを嘱望しておる」
覚真は、切れ長の目を細くして喜んでいた。
「私のような者は、数多おります。ホロケウ様のお褒めの言葉をいただいた事体も、たまたまお会いしたからです。他の優れた御方がホロケウ様にお会いしたならば、その御方が褒められたでしょう」
右衛門は、覚真の過分な褒め言葉に謙遜した。
「右衛門よ。十分に誇ってよいのだ。其方は、選ばれた者だ」
覚真は、右衛門の鼻の先を見ながら話していた。覚真が相手の目を直に見ると、強い圧を感じさせる。覚真は分かっているから、鼻の下を見ていた。
覚真が和やかになり、右衛門に酒を酌んだ。
「覚真様御自ら、お酒を酌んでいただきますとは。真に恐れ入ります」
右衛門らしくもなく、気が張っている。
「右衛門よ。今の幕府の政について、どのように思うか。忌憚なく、其方の真の言葉で話して欲しい。本日、其方を呼んだ事体は、そのためである。儂は、決して怒ったりはせぬ」
覚真は、重い声で右衛門に伝えた。
「これでも、度量はあるつもりだ。幕府は今や、御家人や公家などの妨げにより、新たな政を進められない。困っておる。才ある者の話を是非聞きたいのだ。今後の政のために是非活かしたい」
覚真は、顎を触りながら右衛門に尋ねた。右衛門は、急に答え難い話を聞かれた。かなり困惑している。しかし、すぐに立ち直った。
「朝廷、公家、御家人、北条御一族の中に、新しき世造りを快良く思われない方がいらっしゃいます。今は、あの方たちのために、政が上手くいかなくなりました。新たに改める政を行なう旨が、難しいのでございます。左兵衛尉様が、覚真様に不満の御家人たちを次々と味方に、取り入れておられます」
右衛門は、思った事体をはっきりと伝えた。
「正にそうだ。今や、全く日の本を豊かにする事体ができぬ。左兵衛尉に任せても、奴は日の本を豊かにする志は、全くない。北条得宗家と自分の権を強める考えしか、彼奴にはない。このままでは、御家人たちも民たちも、苦しみが増えてしまう。儂は、とても憂慮しておる」
覚真は、顔を下に向けて鬱気味に語った。いつもの豪放な覚真とは、違う面だった。右衛門は、驚愕した。
「借上から高利の金を借りた御家人を救おうと思った。だから、御家人たちの苦しみを徳政令でなくそうとしたのだ。しかし、借上たちは、御家人に金を貸さなくなった」
覚真は、熱心に話を続けた。
「徳政令は、借上が御家人から金を返してもらえない。従って、借上は貸し渋るようになった。そこで儂は、借上に幕府からの金を渡し、御家人へ金を再び貸せ。そのように命じた」
覚真は、話を続けた。
「借上たちは、幕府からの金を御家人たちに貸さない。自分たちが贅沢をする金に使ってしまっている。欲に目がくらんだ奴らだ。許せん。次は、厳しい法を作る。幕府の命として力尽くで、借上に御家人たちへ銭を低利で貸させる。儂は覚悟した」
まだ話をしている。
「蒙古との戦いで武功を上げた御家人たちへの恩賞は、未だ払われていない。由々しき件だ。儂も北条得宗家の縁者だから、御家人に対して顔向けができない」
「覚真様のせいではございませぬ」
右衛門は、話し掛けた。
「御家人には、申し訳ないのだ。蒙古襲来の時に、国を守るため鎮西の多くの守護に北条一族が就いた。蒙古が攻めてきた時は、平時の事体ではなかった。従って、北条一族が守護に就いて、国を守った件は致し方ない」
覚真は、目に力を入れている。右衛門は、覚真の目の力を見て励まされた。
「今も蒙古の三度目の攻めに対して、備えをせねばならぬ。しかし、北条家が多くの国の守護を占め過ぎている。蒙古が攻めて来ぬ確証は、持てぬ」
「北条家が日の本の守護職の多くを占めている点が、問題でございますね」
右衛門は、何とかならないかと懸命に考えた。表情は硬くなった。
「儂も、肥後の守護を仰せつかっている。現地の守護代は、息子の盛宗だ。先ずは塊から始めよだ。儂が守護職を返納しようと思う」
覚真は真剣だ。
「さすがは覚真様。しかし、北条一族の御方々がお続きになられるか。中々難しいとは、思っております」
「儂は、守護職を辞した後に、御一族の皆様に懸命に説いてみせる。この計略が成功せねば、日の本は危うい」
覚真は、鋭い目をしながら話を続けた。
「ところで、蒙古に探りを入れてみた。蒙古の皇帝に当たる汗という者は、日の本攻めの備えをまだしているそうだ。急いで、御家人たちや民たちを救うための財を、出さねばならぬ」
覚真は、熱のこもった話し振りをした。
「そのためには、北条一族の守護の領地を御家人たちに分け与える必要がある。しかし、北条一族は領地を取り上げる令に対して、大いに反撥しておる。御家人たちは、儂だけではなく、執権様を始め北条一族に不満を持っている。何とか御家人を救わねばならぬ」
覚真は、力強き覚悟を見せた。空は既に陽が落ちて、満月が出ている。月の黄の色が、不気味な感じがした。鷹の声が、覚真の屋敷の鳥小屋から聞こえた。
右衛門は、覚真の凄まじい圧を感じて、気が引き締まった。
(やはり、歴戦の強者は違うな。何も動かずとも、こちらが押される)
右衛門は、覚真の強い態度に感銘を受けた。
「覚真様の新しき政は、決して止めてはなりませぬ。御家人や民の暮らしを豊かにするためには、覚真様のお力が是非必要でございます。左兵衛尉様に政を任せたならば、あの御方の利のためだけに幕府が動かされます。皆が、生き難い世に必ずや成ります」
右衛門は、覚真と向かい合って真の気持ちを伝えた。目を捉え真剣に語った。覚真は、右衛門の言葉を聞いて、しばらく瞑目した。
「覚真様も、既に御存じかと思います。左兵衛尉様が、覚真様を隙あらば滅ぼそうと考えられておられます。左兵衛尉様側に味方は増え、危うい事体だと存じます」
右衛門は、覚真に自分の心持ちをはっきりと伝えた。
「政の改めを早急に立て直せねばならぬ。そのためには右衛門よ。其方のような若き力が要る。新しき考えの持ち主が要るのだぞ」
右衛門は、覚真の力強い話を聞いて心底から驚いた。自分は、政で日の本を豊かにするなど、今まで考えもしなかった。右衛門は、政所での職務の経験から、日の本のためにより働きたいと考えている。
しかし、覚真の新しき政が潰れたならばと、右衛門は懸念を持った。日の本は、困窮した者だらけになり、危うき先に向かうはずだ。
(左兵衛尉様の世になれば、恐ろしき世になる。恐れから不満になり、幕府を倒そうとする者も出る)
右衛門は、最悪の事体を考えた。
(早く覚真様側は、力を取り戻さねばならぬ。このままではいけぬ。民たちの暮らしを守る。それが、一番先に行なう政だ)
右衛門は熟慮した。
「私は、微力ながらも、覚真様の政に力添えを致します」
右衛門は、心の奥から正直に伝えた。
「しかし、私は左兵衛尉様にもお話をしに、何度も伺います。覚真様、この点はお許し下さいませ。戦を起こさないためにも、左兵衛尉様に伺います。左兵衛尉様に、戦の愚さを分かっていただけねばなりませぬ。非御家人だけではなく、御家人への利をもたらす政を急いで行なう必要がございます」
右衛門は、逼迫した心持ちで話した。
覚真は、目を大きく見開いて強く頷いた。空は、より暗くなっていた。庭からのカイドウの匂いが、大広間まで来ていた。覚真は、まだ縁に戸を閉めさせていない。
右衛門は、庭の草花を見て、自分の心を和やかにさせたい。それが覚真の心遣いだと思った。配慮に感じ入った。
「其方の申す事体は、真にもっともな内実だ。今や、武士や民を救うための政を、急いで考えている。他にも、新しき豊かな世を作る案を、懸命に出さねばならぬ」
覚真は、ゆっくりと話した。
右衛門も、覚真の刻苦を思いやった。三度目の蒙古襲来への備えと、侍や民たちの豊かな暮らしを目指した。しかし、自分は政所の執事代であり、評定衆ではない。従って、自分の考えを代わりに、幕府で話してくれる人を探していた。
今ここに、執権の貞時の伯父として、評定衆で強き権を持つ覚真がいる。
(この御方なら、私の考えを幕府の評定で話されるだろう。政で行なわれるだろう)
右衛門は、確かな気持ちを持った。
「覚真様。私に考えがございます。お話しても、宜しいでしょうか」
右衛門は、真摯な態度で覚真に向かって話をした。
「もちろん宜しいぞ。其方を私は高く評しておる、良き案があれば、忌憚なく話してみよ」
「新たな政にとって、御家人たちの支持は大事でございます。今は非御家人を御家人に入れる政を、一旦止めるべきと存じます」
右衛門は、覚真の目を直に捉えて伝えた。
「何だと。それでは、幕府の新たな政ができぬぞ。非御家人たちを救えないではないか」
覚真は、意外な案を持ち出されて、驚きながら口を開いた。しかし、豪胆な覚真はすぐに驚愕を鎮めた。
「一旦止めるだけでございます。幕府の政を改めるためには、多くの御家人たちの支持が要ります。左兵衛尉様に邪魔されては、困ります」
右衛門は、平静に伝えた。
「また徳政令では、借りた者を救います。幕府から利なしで御家人たちに金を貸して、御家人たちが借上に返します。そのようにすると、借上の貸渋りもなくなると存じ上げます」
右衛門は、覚真にはっきりとした考えを伝えた。
「なるほど。御家人など、借りた者たちが救われる訳だな。妙案だ。其方は確かに優れておる。政所一の知恵者だ。さすがに才ある者は違う」
覚真が、頷きながら満足な顔でいた。
「今や御家人たちは、当主が亡くなった後は子たちが遺領や財を分けております。これでは、後世には小さな遺領しか継げぬ御家人だらけになります。私は、それを憂慮しております」
右衛門は、真の思いを込めて覚真に話しをしていた。
「脅威となる有力御家人の力が弱くなる事体は、幕府に取っては都合が良いのですが。これからは、嫡男に跡目を継がせるのでございます。他の兄弟は嫡男の家臣として、扶持をいただくのが良きかと存じます」
右衛門は、話を終えた。
「其方も、嫡男ではないぞ。あの悪評高き主水の家臣となるのだぞ。それでも良いのか?」
覚真は驚き、身を乗り出して右衛門に尋ねてきた。
「私は、宜しいのです。私欲で政は、致しておりませぬ。先ず私から始めても、かまいませぬ。隗より始めよの故事に則って、行なえば宜しいでしょう」
右衛門は、目を引き締めている。
「日の本で大事が起きた場合は、小さな領主では当てにできませぬ。今も蒙古が三度目に襲ってくる懸念がございます。貧しい御家人たちばかりでは、強き敵と戦えませぬ。また、御家人は、恩賞をいただけないと思っております。これでは、二度の蒙古襲来の時のようには、勇ましく戦ってはくれぬでしょう」
「そうであるな。儂は、御家人たちを弱くする考えは一切持っておらぬ。弱くする事体を願っているのは、北条一族や左兵衛尉などの御内人たちだ。政を新しくする道を邪魔しておる連中だ」
覚真は、憤慨している。今までの邪魔をしている者たちへの怒りが、かなり大きかった。鬱憤が溜まりに溜まっていた。眉毛が上がり、目が大きくなっていた。
「しかし、難しい事体をお話し致します。北条一族とは、今後も親しく付き合ったほうが良い。そのように存じ上げます。特に貞時様始め得宗家とは、これまで以上に、親しき付き合いを増やしたほうが良き動きだと思います」
右衛門は、まだ話を続けている。
「覚真様は、左兵衛尉様と激しく敵として、向き合っておられます。覚真様は日の本を豊かにするために、動く必要がある御方でございます。左兵衛尉様との和議を結んで下さい」
右衛門は、大胆にも覚真を見つめ話した。
「何だと。左兵衛尉側が悪いのだ。今は、得宗家や御内人の権を強める時ではない。しかし、奴は自分の利しか思っておらぬ。日の本の行く先を一切考えておらぬ」
覚真は、目を大きく見開いた。
「仰るお話は、存分に分かっております。しかし、戦が起きれば、多くの者たちが死んだり怪我をします。日の本を豊かにするためには、戦は必ずや避けねばなりませぬ」
右衛門は心の奥底から、覚真に伝えた。
「そうではあるな。日の本の今後のためにも、戦は必ずや起こさないほうが良い。新しき政を進めるため、日の本に暮らす全ての者たちへのためだ。しかし、左兵衛尉のほうが戦がしたくて堪らない有様に見えるぞ。安達一派を潰して、自分だけの権の独り占めを考えておる。愚かな男だ。時勢が全く見えておらぬ。儂は、決して奴の挑発には乗らぬ」
覚真は、きっぱりと言い切った。
四・
右衛門は、急いで政を行い、日の本を新しくするべきだと再び思った。従って、日の本の内での争いは、強く避ける意たった。覚真と左兵衛尉の二人が起こす内乱を。必ずや止めさせよう。そのためには、どうすれば良いか。右衛門は、常々考えていた。
「覚真様、重ねて申し上げるのも御無礼になります。しかし、左兵衛尉様が挑発しても、決して決して乗ってはなりませぬ。向こうは覚真様側を倒すために、手段は選ばない卑劣な者でございます」
右衛門は話を続けた。
「今は、安寧な世にせねばなりませぬ。民の暮らしを一刻も早く、困窮から抜け出させましょう。私もお二人を結び付けます。微力ながらも、乱を止めたいのでございます。安らかな世にしたいと考えております」
右衛門は、何としてでも日の本を争いのない世にしなければと、強く思っている。心底から、覚真に強く願っている。
新たな政は、まだ上手くいっていない。
(此度の話で、覚真様の政への真摯な取り組みに深く感じ入った。この御方を必ずや、冷酷な左兵衛尉様からお守りせねばならない)
右衛門は、堅く誓った。
翌日から、紫連右衛門は覚真側に付いたと、世で噂された。
政所でも、噂された。滝藤中監物右衛門は、急いで右衛門の出仕時に駆け寄った。
「右衛門様。安達覚真様側に付かれたと言う話は、真にございますか」
中監物は、驚いて慌てている。
「それは真の話ではありませぬ。覚真様の政が滞ると、日の本全てが弱ります。従って、支援するとお話したままです」
右衛門は、噂には決して揺れ動かなかった。右衛門自身の強き信ずる道がある。
危うき時勢に争い事が起きては、決してならぬと強く思っていた。幕府、御家人、民たちの疲弊から抜け出す事体への妨げになる。右衛門は考えていた。
覚真と左兵衛尉との対立には、中立を保つと思っていた。その中で、自分が二人の間に入って、仲裁をしたいと心から願っていた。
五・
覚真の屋敷で語り合った日の翌日、平左兵衛尉頼綱から使者が来た。右衛門を招きたいという旨の内容だった。
「左兵衛尉様は、鎌倉で評判の紫連右衛門殿に一度お会いしたいと申されております」
使者は、丁重な口上で呼んだのである。
(さすがに素早き動きだな。覚真様側に、左兵衛尉様へ通じている者がいると見た。俺を左兵衛尉様側に、取り込もうとお考えになっている。どのように応じようか)
右衛門は、ひとまず左兵衛尉の屋敷に招かれる事体に応じた。又一郎も、また供になって来た。覚真には、左兵衛尉から招かれたと事前に伝えていた。覚真からも、左兵衛尉の魂胆を見抜いてくれと頼まれた。
「右衛門様は、今や高名な御方ですからな。お二人の幕府の権を持つ御方から、招かれるとは凄い事体でございます。しかし、私にとっては場違いな所に行くので、面倒でございます。私は、抜けても宜しいでしょう?」
「駄目だ。これからは、油断ならぬところに行くのだぞ。地獄のような男の元に行く。お前は、私を身をていして守らねばならぬ」
「そんな。私は左兵衛尉様が、恐ろしゅうございます。右衛門様は、人使いが荒いのでございますな」
右衛門は、又一郎の愚痴を聞かずに屋敷を出た。左兵衛尉の屋敷に向かった。
左兵衛尉の屋敷の門は大きく、茅葺きの屋根と柱が赤く染められていた。廊下は檜の匂いがする。先月建てたばかりの屋敷と聞いた。
家臣から案内された。家臣たちの目は鋭い。右衛門に、全く気を許してはいなかった。大広間に招かれた。襖を見た。龍と虎がまた赤く染められている。
(覚真様も左兵衛尉様も、龍や虎がよほどお好きであるようだな。権を持つ御方は、そのような思いになるのか。しかし、覚真様と違い左兵衛尉様の屋敷の大部分が、赤に塗られ気味が悪い。悪しき感じを受けるぞ)
右衛門は、左兵衛尉の嗜好に辟易している。畳から新しき藺(い)草(ぐさ)の匂いがしていた。右衛門は、左兵衛尉がすぐに大広間に入ってきた姿を見た。足音が大きく響いている。五月蠅い感じを右衛門は受けた。
「待たせたのう。其方が、世から高い評を受けている紫連右衛門か。なるほど、其方の面構えを見た。さすがに若くして、政所の執事代にまで上り詰めた男だな。その才の高さ、儂は、人を見る目はかなりある。すぐに分かる」
左兵衛尉は、顔の態度は豪勢に笑っている。しかし、目の動きが止まったままだった。(左兵衛尉様に対して、決して油断してはならぬ)
右衛門は、気を引き締めた。
「恐悦至極に存じ上げます。お初にお目にかかります。左兵衛尉様からの御言葉、痛み入ります。恐れ入り奉ります。私を本日お呼びいただき、有り難き幸せに存じまする」
右衛門は、上っ面だけ丁寧過ぎる言葉で答えた。
「所作も、上できだ。其方の兄主水も儂の屋敷によく訪れるが、粗暴な振る舞いで困っておる。兄と弟で大違いだ。いったい、どのようになっておるのか。儂は、不思議で堪らない」
右衛門は、主水の話をいきなり持ち出されて答えに困った。主水は愚か者ではあるが、実の兄を悪しく話す事体はいけない。紫連家の恥を広めるだけだ。
「本日、其方を呼び出した訳は他でもない。其方の幕府の政への考えを聞きたいのだ。昨日、覚真様に呼ばれたと耳にしたのでな。覚真様から呼ばれるほどの者なら、器量があるか、才のある者。どちらかだと思ったのだ」
左兵衛尉は笑いながら、鋭い目で右衛門を捉えていた。
「私は、覚真様の新たな政を支えたいと、考えております。ただ非御家人を御家人に取込む政は、一旦は止めるべきだと申し上げました。元々の御家人たちが、不満を持っているからでございます」
右衛門は、左兵衛尉の眼光鋭い目を睨み返しながら話した。左兵衛尉の困る事体をしているからだ。
「儂も同じ考えだ。其方の意見は、真に的を射ておる。非御家人の扱いは、幕府の基を揺るがしかねない大きな件だ。何とかせねばならぬ。さすがは紫連右衛門だ。考えが、実に深い。覚真側にいるとは、実に勿体ない」
(よく言われるな。同じ考えだとは、笑わせてくれる。この政は、左兵衛尉様が困る事体だからだ)
「いえ、私はどの派にも。付いておりませぬ。今は、蒙古が三度目に襲って来るかが、懸念でございます。このような時に、内輪で戦いを決して起こしてはなりませぬ。豊かな日の本にして、民の暮らしを良くせねばと考えております」
右衛門は、心底から左兵衛尉に訴えた。悪しき心根の持ち主の左兵衛尉に、右衛門の意が伝わるか。そこが大いに上手くいくかどうかの、分かれ道だと思った。
「私も内乱は避けねばと、常々思っておる。先の執権の時宗様も、日の本が一つに纏まる時を強く望んでおられた。私は、貞時様をお守りし、安らかな世に必ずやせねばならぬ」
左兵衛尉は、力強く話した。しかし、その目を見て右衛門は、左兵衛尉の言葉が欺瞞に聞こえた。
(左兵衛尉様は、変わらず乱を望んでおられる。必ず覚真様を討つおつもりだろう。今は左兵衛尉様が覚真様よりも、力が強い。多くの御家人の支持を受けているからだ)
右衛門は、左兵衛尉の言葉を厳しい感じで受け取っている。
(左兵衛尉様の戦を起こす動きを抑える事体は、実に難しい。御本人への抑えが無理ならば、周りに当たろう。左兵衛尉様の側近の御方たちに、左兵衛尉様が乱を起こさぬ様にお願いせねば。また、覚真様側の御方たちにも、内乱を必ず避けるようにお願いする必要がある)
右衛門は、心を引き締めた。
第六章 覚真の新たな政
一・
覚真は、再び動いた。右衛門から話された非御家人を御家人にする政を、一旦止めた。元々の御家人たちへの施策を厚くした。
御家人は、苦しさから少しずつ抜け出した。左兵衛尉側から覚真側に、戻って来る者も増えた。
徳政令も、幕府からの利なしで貸し付けた。また、御家人の家督相続も、嫡男のみが跡を継ぐ事体に決まった。右衛門が最初に行なった。主水の家臣となった。主水は、驚いていたが、やがて嬉しくなった。右衛門に対して、偉そうに振る舞っていた。大夫は、その態度を気に掛けている。
覚真の新たな政は、次々と始まった。
守護の領国の件は、先ず覚真が肥後を幕府に返上した。その後、覚真は北条一族に領地返還をするように、懸命に訴えた。しかし、北条一族で話をまともに聞いてくれる者はいなかった。皆、自分の利を守りたいのである。覚真は失望した。
第七章 右衛門が動く
一・
右衛門は、諏訪盛経を翌々日に訪ねた。前日に諏訪家に使者を送り、盛経からすぐに承諾を得ていた。これから訪れる者には、全て使者を送らねばならない。訪れる時に了承を得て、その後尋ねる。人としての礼儀だからだ。此度も又一郎が供にさせられて、愚痴をこぼしていた。
「又一郎よ、其方も鎌倉武士だろう。一々愚痴を言うな」
右衛門は一喝した。
盛経は、北条得宗家の被官だった。見内人である。得宗家の内管領の左兵衛尉に近い者だと、世では思われている。
文永三年(一二六六年)には、出家していた。法名は真性である。
今年、六十四歳になった。文武で様々な経験を積んでおり、得宗家の被官の中でも、重い立場だった。他の被官たちからも、一目置かれている。
右衛門は、真性を先ず動かすべきだと考えていた。真性が左兵衛尉を抑えればと、願っている。そして、日の本での争いを止める事体ができると考えた。右衛門は、真性に会う前に、話の内容を考えていた。
右衛門は、諏訪家の屋敷を丑の刻に訪ねた。門兵は、穏やかに迎えた。門は、質素な茅葺き屋根で造られていた。左兵衛尉の屋敷のように、けばけばしい色は塗られていない。そのままの茅葺きだった。
広間の襖には、鶴が一羽描かれている。真性の作だそうだ。真性らしい、素朴な美しい鶴だった。
「紫連殿、よくぞ来られた。儂も其方に、是非話したいと思っていたのだ」
右衛門に、真性は嬉しそうに近づいてきた。僧髪で、頭が美しく光っていた。自分で毎日の朝に、剃っているそうだ。右衛門は、その見事な剃り具合に感服した。
右衛門は真性と接して、穏やかな風貌に穏やかにさせられた。
「真性様、今は覚真様一派と左兵衛尉様一派が、いつ戦うか分かりませぬ。戦が起こったならば、新たな政は止まってしまいます。疲弊した日の本を立て直す機がなくなります。どうか、戦をお止めいただきたい、そのように左兵衛尉様に、お願いいただけないでしょうか」
右衛門は、穏やかな真性の目をしっかりと見据えている。
「儂は、既に左兵衛尉様には、決して鎌倉で乱を起こさないで下されと申した。儂も日の本を、また窮乏に追い込むのは避けたい」
真性は、立ち上がった。縁側に行き庭を見ながら話していた。
「必ずや、日の本を守らねばと考えておる。しかし、左兵衛尉様側は、今や覚真様側を超える大きな一派となった。左兵衛尉様は、覚真様を討つ機を狙っておられる。左兵衛尉様が戦を狙っている限り、和の道はないだろう」
右衛門は、天井を見上げて溜息をついている真性を見た。
「左兵衛尉様は、私の申す話すら全く聞いてくだされぬ。残念だが、左兵衛尉様は、変わらぬ。儂は、左兵衛尉様側にも付かぬ。覚真様側にも付かぬ。儂は左兵衛尉様の家臣に、乱が起きた時には、左兵衛尉様に決して与せぬようにと命じておる。しかし、皆は、儂のいう事体を聞くか。そこを憂慮しておる」
真性は、話を続けている。
「しかし、何度も述べる。左兵衛尉様は、戦を起こすのを狙っておられる。実に情けない限りだ」
右衛門は、真性はの悲しき顔を見た。顔の皺が下がっていた。
「蒙古との大戦を見ての通り、戦は何も益をもたらさぬ。ただ、勝ったほうが恩賞にありつける。しかし、蒙古との二度目の戦では、恩賞は一部の御家人しかもらっていない」
右衛門は、真性から穏やかに見つめられて話を聞いていた。
「蒙古との戦の後での恩賞を貰えなかった御家人たちは、随分不満が高まった。左兵衛尉様に付く者は、恩賞しか見えぬ愚か者たちよ」
右衛門は、いつもは温和な真性が、珍しく怒りを出す顔を見て驚いた。
「さすがは真性様。内輪での戦いの愚かさを考え、動いていらっしゃる。しかし、左兵衛尉様やその家臣が、戦に臨むおつもりなのが残念でございます」
右衛門は、話を続けた。
「私も微かな力ながら、二つの派の方々に戦の愚かさを説いて参ります。恩賞をいただく件よりも、大事な旨を伝えます。乱が起きた時に、より大きく深刻な痛みの実情を分かっていただきます。皆様方も、自分に害をもたらす事体は避けたいでしょう」
右衛門は、いつの間にか熱い心で語っていた。
「良き案だ。儂も、戦は恩賞よりも深い痛手を受ける。その旨を皆に説いて回る。右衛門殿よ、有り難き案を教えてもらった。礼を申す」
右衛門は、真性が、深々と頭を下げた姿を見て、驚愕した。
「真性様ともあろう御方が、政所の一役人に対してお止め下され。頭をお上げ下され。恐れ入り奉ります。私も、皆に説いて回ります」
二・
次は左兵衛尉派でも、一番の切れ者と呼ばれている佐々木廷尉宗綱の屋敷を訪れた。名門京極佐々木家の当主だった。
当然、事前に使者を送っている。宗綱は、検非違使の官職をいただいていた。検非違使の唐風の名の廷尉で呼ばれていた。又一郎は、此度も連れて行った。
「もうお止めにしませんか。お偉い方々ばかりをお訪ね回れました。疲れは致しませぬか」
又一郎は、辛そうな顔をしている。
「何を言うのか。この国の危うき時に、根を上げてはならぬ」
右衛門は、しっかりと又一郎を見つめ、背中を三回叩いた。
「何でございますか。突然に」
又一郎は驚いた。
「お前に気合いを入れるためだ。行くぞ!」
廷尉の家臣たちは、皆屈強な者たちばかりだった。右衛門を鋭く見て、決して気を抜かない。
(さすがは、衛尉様の家臣たちだ。よく主から教えられているのだろう。隙が一切ない)
右衛門は感心しながらも、大広間に通された。襖には、大きな龍と虎が戦う様が描かれている。
(覚真様、左兵衛尉様、廷尉殿、皆様がたは、龍と虎が随分お好きなようだな。切れ者の御方は、そのような嗜好なのか)
庭には、アカマツの葉が美しい緑を放ち、輝いている。右衛門の逼迫した態度を和ませた。右衛門は、廷尉が入ってくる時を待っていた。
すぐに廷尉は、大広間に入ってきた。力強い足音がした。家臣を三人連れて、廷尉は現れた。
切れ長の鋭い目をしている。頭は、月代で肌は黒い。顔は大きく、顎が角張っていた。
頬は、へこんでいた。髭は口と顎に薄く生えていた。眉は細い。
「執事代殿よ。早く来られたな。覚真殿とのお話は、全て忍びによって、存じ上げておりますぞ。今、鎌倉での乱が起こらぬように、懸命に回っておられますな」
右衛門は、驚愕した。少し頬に汗が流れた。
(やはり油断ならぬ御方だ。忍びを使っているとは。必ずや隙を見せてはならぬ)
右衛門は、肝を引き締めた。廷尉と向き合った。知恵者同士の目での戦いが、始まった。
(さすがは得宗被官で、随一の切れ者と呼ばれているほどの御方だ。左兵衛尉様を超えるとも、言われている知恵者だ。こちらの内情を決して見せずに、ゆっくりと話して行こう)
右衛門は、穏やかにしていた。ゆっくりと話しながらも、廷尉の目をはっきりと見据えていた。
「御用の赴きは、分かっております。左兵衛尉様と覚真様の戦を避けたい旨ですな」
右衛門は、廷尉の鋭さを感じている。廷尉は、切れ長の目をしつつ静かに話し出した。
「さすがは廷尉殿。既にお分かりになっていらっしゃるなら、話は早い。左兵衛尉様に一番近いと呼ばれる貴殿に、お願いがございます。左兵衛尉様が戦をしないように、諫言していただけませぬか」
右衛門は、話し出した。
「私も、乱は望んでおりませぬ。蒙古との二度の戦い、三度目の襲来への備えで御家人たちは、疲弊の極みに達しております。また、民たちも重い税を取られ、苦しんでおります。そのような中で、戦を起こしたならば、幕府の財、御家人や民の暮らしが、より酷くなります」
右衛門は、しっかりと見つめられていた。廷尉は、深刻な顔をしつつ話を続けた。
「私は、左兵衛尉様にお仕えして、二十一年経っております。一番大事に考えているものがあります。覚真様の政は、一進一退を繰り広げました。結局、失敗しました」
廷尉は、残念に話した。
「一番大事な事体は、私は苦しむ武士や民たちを救いたいのです。日の本の今までなかった疲弊の時に、内乱を起こすなど愚の骨頂です。主の左兵衛尉様に、何度も諫言申し上げておるのです。しかし、主は聞く耳を全く持ちませぬ」
右衛門は、廷尉から見つめられていた。廷尉は、苦々しい顔をしながら話を続けた。
「左兵衛尉様は、どうしても覚真様を滅ぼしたいおつもりです。その後、御自分は、貞時様を操られるおつもりです。幕府を自分の意に沿うように動かしたいのです。そのためには、覚真様が邪魔です。お二人の戦は、避けられないでしょう。無念ではございますが」
廷尉は、強き心持ちで御家人へも傲慢な態度を取ると、世ではよく噂された。
しかし、右衛門は話をして、廷尉は無礼な人物ではないと分かった。日の本を案じている、真摯な者だと、右衛門は知った。
「廷尉殿でも、左兵衛尉様の戦の仕掛を止める力はありませぬか。左兵衛尉様は、日の本の苦しい実情をお分かりになっている。だからこそ、日の本を救う政を行なっていただきたいのです」
右衛門は、話した。
「しかし、幕府での御自分の権を立てる。それが大事なのでございますか。御家人や民たちの暮らしを、左兵衛尉様はお考えにならないのでしょうか。何も打つ手が、ないのでございますか」
右衛門は、廷尉に訴えた。
「打つ手は、ほとんどと言っていいほどございませぬ。少なくとも、今は劣勢の覚真様一派が、隙を見せぬように徹せねばなりませぬ」
廷尉の右衛門への話は、続く。
「右衛門殿だから、お話し致します。左兵衛尉様は、覚真様を討つ計略を常々考えておられます。近い日に計略が、できあがるでしょう。戦が始まります。とにかく、覚真様は、屋敷から一切出ないほうが良いと存じます」
廷尉は、小さな声で右衛門の耳元に囁いた。
覚真は、追い詰められている。右衛門は、その有様を強く感じていた。今まで、戦を止めようと多くの者を説いてきた。
しかし、肝心の左兵衛尉は、戦をやるつもりだった。左兵衛尉側への戦を止めさせる手立ては、真性や廷尉が説く。二人に任せるしかないと思った。
(次は、覚真様側の御家人たちを説き回る。その上で、覚真様を左兵衛尉様から守らせるしかない)
右衛門は、願った。
三・
右衛門は、吉良満氏を訪ねた。覚真側に付いている有力御家人だ。満氏は、北条一門以外で、越前守護になった件があった。これは異例の人事である。
蒙古襲来の時は、満氏は肥前守護に任じられていた。顔は温和で、常に思いやりがあった。反面、勇猛果敢でもある。肥前に赴き、指揮を執り蒙古軍と激しく戦った。歴戦の強者だった。
蒙古との戦いでの恩賞は、未だにもらっていない。しかし、覚真の苦衷を気遣った。不平を。述べたりはしていない。今は、何とか覚真の幕府の政を新たにする手助けをしている。
右衛門は、温厚で人望が高い満氏に望みを託した。事前に、吉良家に使いを送っている。戌の刻に、又一郎を連れて吉良屋敷に入った。
玄関から入り、廊下を満氏の家臣から案内させられた。広間に通された。襖は犬が三匹描かれてある。満氏らしい質素で、奢らない感じを受けていた。右衛門は襖を見て、満氏に早く会いたいと思った。すぐに満氏がやって来た。満面の笑顔である。
「右衛門殿、よくぞいらっしゃった。覚真様の新たな政を支持されていると聞きました。儂らの味方でございますな」
満氏は、穏やかな顔で話をした。口と顎には、艶のある豊かな髭が生えている。
「満氏様、私は覚真様の新たな政を、懸命に支えるつもりです。しかし、覚真様側、左兵衛尉様側と呼ばれる一派に付くつもりは、全くございませぬ」
右衛門は熱く語った。満氏の人の話を丁寧に聞く態度に、いつの間にか惹かれていた。
「それも良しですな。争いからは、何も生まれませぬ。私は日の本の困窮の時に、覚真様と左兵衛尉様が争いをしている時ではない。そのように考えております。満氏様は、蒙古襲来の時に、九州で直に蒙古軍と戦われた御方でございます」
右衛門は満氏につられて、穏やかな気になっていた。
「確かに蒙古との戦いは、日の本を苦しめ何ももたらさないものでした。せっかく懸命に戦い、国を守った御家人たちも恩賞をほとんどが、いただいておりませぬ」
満氏は、ゆっくりと語った。
「御家人たちは、不満をかなり持っています。このままでは、幕府を倒そうと考える輩も出るやも。悪党と呼ばれる非御家人がそうですな」
満氏は、いつの間にか笑顔でなくなった。鬱な顔になっていた。
「左兵衛尉様は、覚真様を滅ぼそうと考えておられます。今は、左兵衛尉様側に多くの御家人たちが付いております。覚真様側の御家人は少なくなりました。決して左兵衛尉様に対して、隙を見せてはなりませぬ。覚真様の新しき政で、救われた多くの御家人が出ました。覚真様側に戻っている御家人も、増えております。左兵衛尉様も、覚真様一派が、増える前に、兵を動かすと存じ上げます」
右衛門は、満氏に伝えた。
「分かり申した。覚真様には、必ずや伝えておきます。私も覚真様をお守り致します。屋敷に籠もって守りを固めるべきですな。覚真様に、守っていただきます」
満氏は、固い決意で答えた。
四・
次は、幕府の執権の貞時を支えている、連署の北条業(なり)時(とき)の屋敷を未の刻に訪れた。業時は、北条一族の普恩寺流を継いでいた。幕府内では、将軍、執権に継ぐ職である。覚真、左兵衛尉よりも、高い地位にあった。
しかし、率いる軍勢は二人よりも少ない。覚真側、左兵衛尉側のどちらにも与していなかった。温厚な性分で、争いを好まなかった。右衛門は、幕府の重鎮である業時に期待した。
業時は、弘安六年(一二八三年)の四月に連署に就いている。翌年に陸奥守にも任官された。右衛門は、業時の屋敷を未の刻に訪れた。
また又一郎も一緒だ。もう又一郎は、愚痴は言わなくなった。右衛門から、叱られるだけだからである。
業時の門は質素で、色が何も塗られていない。門柱の木がそのまま立っている。業時の飾らぬ人となりが、右衛門には感じられた。
屋敷に入り、大広間で待たされた。業時の襖は薄い蛙が一匹描かれているだけだった。地味な業時らしいと、右衛門は思った。
「右衛門よ、待たせてすまぬ。若き執事代殿は、これからが楽しみだな」
業時は、すぐに大広間に入って来た。顔をほこらばせて、右衛門の両手を軽く握った。連署と言う大事な職務の者ながら、腰が低い。
右衛門は、恐縮した。
「連署様。今日は、大事なお話をしに参りました」
「分かっております。覚真殿と左兵衛尉殿の間を取り持つ役目でしょう」
業時は、連署と言う高い身分ながら、政所の執事代の右衛門に向かって、丁寧な言葉遣いをした。右衛門は、再び恐れ入った。鼻が低く薄い顎髭で、のんびりとした顔である。だが、業時は右衛門の考えを既に分かっている。
(これだけ、あちらこちらを回っている。さすがに鎌倉中に知られているだろう)
右衛門は、当たり前の事体だと思い返した。業時と接している。こちらまで穏やかになった。
「儂は、左兵衛尉殿を支持すると既に決めております。もはや覚真殿は劣勢ですからな。近頃は。覚真殿の元に一度離れた御家人が戻ってきております。しかし、まだ足りぬでしょうな。強き力の者が権を持つのは、当然の事でございます」
業時は、苦しげに答えた。
「鎌倉では、乱が起きるでしょう。私は、左兵衛尉殿に決して鎌倉を火の海にしてはならぬと、厳しく言いつけております」
右衛門は、業時の言葉を聞いて驚愕した。失望した。どちらにも与しないと思われた業時は、意外な事体を話した。
二人の戦を止める役目は、執権に次ぐ連署の北条業時しかできない。そのように、思っていたからだった。
「連署様は、左兵衛尉様が兵を動かす権を持たれて、それでも宜しいのですか。北条家が蔑ろにされる恐れが強いのですぞ」
右衛門は、言葉を自分の奥から発した。
「人を道具としか思わぬ冷酷な御方が、日の本中を力で抑える世になります。執権様、連署様は、権がなくなります。何も動かせる機が、なくなるのですぞ」
右衛門は、業時を見つめて、懸命に訴えた。
「世の流れです。覚真殿は政に失敗し、御家人たちが離れていきました。御家人たちは、左兵衛尉殿が自分たちに良き政をしてくれる。そのように思っているでしょう。しかし、左兵衛尉殿は自分のための政しかやらぬ。私は、既に見抜いております」
業時は、ますます苦しい顔で答えた。その顔から考えに考え抜いたと、右衛門には分かった。
「それでは、なにゆえ左兵衛尉様を支持なされますか」
右衛門は疑問に思って、尋ねようとした。
「例え冷酷な御仁でも、左兵衛尉殿は知恵が働き、政が得意です。時宗様を支えている時の折衝などは、実に見事でした。覚真殿が失政した後に、政をお任せする御方はすぐに分かるでしょう。左兵衛尉殿の世を治める力に期待するしかありません」
業時の言葉を聞き、右衛門は唖然とした。
(連署様がこの体たらくなら、乱を止める事体はできぬ。それにしても、この御仁が時宗様をお支えした連署様か。失望した)
右衛門は、心の中で大きく叫んでいた。
五・
右衛門は、執権の北条貞時に直に、訴える事体に決めた。政所の執事代が会える身分ではない件は、右衛門は十分に分かっていた。連署ですら諦めている事体である。幼き執権に乱を止めるように説いても、期待はできない。執権の御所を申の刻に訪れた。
しかし、右衛門は、少しでも諦める事体はしない。最期まで足掻こう。決めていた。
貞時の元へ、伺う許しが出た。幕府に申し出た三日後である。執権のいる所は、若宮大路御所と呼ばれていた。若宮大路を登った上に建てられている。又一郎と共に出仕した。
右衛門は、執権の御所は初めて入る所だった。いつもは平静な右衛門も、相手が幼い執権と知りつつも、大きく荘厳な屋敷を見ると心が張った。
(門は、屋根も柱も黒く艶があるな。柱はさすがに、左兵衛尉様の屋敷の門の二倍ほどはある。茅葺きの屋根も、実に美しく整っている)
右衛門も又一郎も、門の上を見ながら驚嘆した。厳しい警護の元、入り口から大広間へ通された。天井も黒である。執権を伺う者を圧する仕掛けと、右衛門は見抜いた。襖には大きな龍が天に昇っている絵が描かれた。
(さすがは、日の本を治める執権様の大広間だな。しかし、俺は、日の本で乱を起こす事体を決して許してはならぬ。今は、命懸けの時だ。例え、相手が執権様でも、話すべき事体は話さねばならぬ)
右衛門は、強い思いで貞時が来る時まで待っていた。北条業時も連署であるから、既に左側に座っていた。右衛門と顔を合わさず、気まずい顔をしている。
貞時が家臣に守られながら、上座に座った。
「お初にお目に掛かります。私は、紫連右衛門良高と申します。政所の執事代を務めております。執権様への拝謁をお許しいただき、真に恐悦至極に存じ上げます」
右衛門は、深々と礼をした。後ろにいる又一郎も続いた。
「そちが今、鎌倉で評判の右衛門か。政所随一の切れ者だそうだな。私も是非、一度会いたいと思っておったぞ」
貞時は、はっきりと答えた。元服は、未だ済ませていない。だから頭は、みづらという顔の左右の髪で結う形だった。肌は白い。顔は小さくて丸かった。目は大きく、瞳が黒で利発な感じを受けていた。
「恐れ入り奉りまする。私は、世の話に出回るような切れ者ではございませぬ。政所で、地道に政に勤めているだけの者にございます」
「何も、謙遜せずとも良いぞ。儂の耳には、様々な話が来ておる。ホロケウという蝦夷の勇者も、勇猛且つ温厚な男だった。儂は奴の事体が、すぐに気に入った。そのホロケウが、其方を大いに褒めた。それだけでも、右衛門の器量が分かる。もう少し近くに来い」
右衛門は、少し前に進んだ。貞時の声は、元服前と思われないほど低く落ち着いていた。
(十四歳の執権の貞時様は幼いが、聡明な御方だ。時宗様亡き後、御自分で政を行なう決心があるな。貞時様は、左兵衛尉様が裏で操っていると聞く。だが、直にお見目えすると、そのような御方ではないな)
右衛門は、若き執権に少ない望みを託そうと考えた。
「執権様、此度は大事なお話で参りました」
「覚真と左兵衛尉の事体であろう」
右衛門は、貞時が既に分かっていた事体を当然と受けた。ただ、受け答えが確かな有様を感じた。
(恐らく御父上の時宗様の薫陶を受けられたのであろう。しっかりとなされて、おられる。乳母の夫の左兵衛尉様の躾を受けたならば、聡明な御方には、なられてはいない)
右衛門は、ますます貞時に期待を寄せた。
「せっかくの其方の話だが、儂はどちらにも与せぬ」
「私めも、十分に分かっております。それでも執権様のお力で、お二人の戦を止めていただきたいのでございます」
右衛門は、温和な顔で貞時に話掛けた。業時は、苦い顔を相変わらずしている。
「もちろん、二人には決して戦はせぬように、強く話をしておる。二人からは当然承知しましたと言われた。しかし、油断はならぬ。十四歳の執権の言う事体を侮るやもしれぬ。鎌倉の地が、炎で燃えて屋敷が壊れてしまう。必ずや避けねばならぬ。日の本の者は、今やかなり疲れておる。危急の時に、内輪で戦をするほうが愚かだ」
貞時は、明らかな態度で右衛門に答えた。
「儂は、覚真、左兵衛尉の二人の間には、決して与みしない。介入しない事体が得宗家のためだと考えた。連署を始め、儂の側近たちも同じ意見だ。儂の考えは、ますます強まってきておる。しかし、時がある。いずれどちらかが、儂を操って政をしようとする時だ。儂も、その時は相手をすぐに処断しなければならぬ」
「分かり申しました。有り難き御言葉をいただきました。恐れ入り奉ります」
右衛門は、又一郎と供に、自分の屋敷に帰った。
「執権様も、お二人を抑えるおつもりではあったか。だが、お二人が執権様の御命に従うか、甚だ疑問だ。覚真様、左兵衛尉様が、皆様の真剣な訴えをお聞きになられるかを、憂慮している」
右衛門は、心の中で危うさを感じていた。
「そうでございますね。私も幕府のお偉い御方のお力で、お二人が戦を止めていただきたいと強く思います」
又一郎も、気になっていた。
庭のアカマツが、相変わらず幹が太かった。命の力を右衛門は感じた。しかし、この鎌倉では、命の遣り取りが軽くなっていると右衛門は思った。
六・
右衛門は、執権の貞時へも上手く左兵衛尉と覚真を説くか、気にした。貞時の力で覚真、左兵衛尉を抑えられるかが懸念だった。
右衛門は、無駄な事体と承知で決めた。将軍源惟(これ)康(やす)に訴える件だ。惟康は、征夷大将軍になる前は、帝の孫で、朝廷では惟康親王と呼ばれていた。将軍に就任するに当たり、源氏へと臣籍が下った。
惟康は代々の宮家からの将軍と同じく、幕府でのお飾り扱いである。惟康は、政への意欲は元々持っていない。将軍に任じられる前から、和歌作りに打ち込んだ。歌会を何度も行っている。
右衛門は、此度は事前に自分が将軍御所に出向いた。将軍の直臣に会い、拝謁の了承を受け取った。二日後の申の刻に、又一郎と供に将軍御所の門に辿り着いた。
右衛門は、見てみると門の衛兵は隙だらけだった。衛兵は五人もいた。欠伸をしている者もいる始末だった。右衛門も又一郎も、口を開いて呆れている。門は、柱も茅葺きの屋根も薄茶色だった。数十年は、経っている門だった。
(門は、住んでいる主の顔である。征夷大将軍ほどの御方の門の手入れすら、幕府はしてくれぬのか。例えお飾りの将軍でも、将軍様の御所を将軍様に値する屋敷にせねばならぬのだが)
右衛門は、怒りが強まった。
右衛門と又一郎が、御所の大広間に案内された。案内する家臣は、公家風の化粧をしている。大広間と名はあっても、狭かった。右衛門の屋敷の居間と、広さは変わらなかった。襖には、鯉が三匹描かれていた。
(これは、何という質素さだ。公家や宮家からの将軍は、只のお飾りだから惟康様もやる気を失われておられる)
右衛門は、一種の侘しさを感じた。
「右衛門様。力のある執権様、連署様、御家人に説いても、駄目でした。戦を止める大きな手立てはございませんでした。将軍様に御進言しても、意味がないのではございませぬか」
又一郎が憂慮して、小声で話し掛けてきた。
「しかし、他に人はいないのだ。将軍様に申し上げるしか、手立てが残っておらぬ。私は、何とか上手く説いてみなければならぬ。将軍様の御威光で、戦を止めるしかな手がない」
右衛門は、気を引き締めた。一刻ほど待たされた。
「将軍様は、いったいどのようなお考えなのでしょうか。戦で、鎌倉が炎で焼き尽くされるかもしれませぬぞ、将軍様の御所も、火の手を受けるやも知れぬのに」
又一郎は、かなり苛ついていた。
「又一郎よ、落ち着け。心を決して乱してはならぬ。ここは大事な場である。大戦(おおいくさ)の前だと心得よ」
右衛門は自分の内を引き締めて、又一郎に諭した。
「はい、分かり申した。申し訳ございませぬ。二度と苛つきませぬ」
又一郎は、決まりが悪そうになった。
喧しい足音が聞こえてきた。五名の者の足音と、右衛門はすぐに分かった。
「これはこれは、鎌倉で名高い紫連右衛門ではないか。待たせてすまぬのう。つい和歌を家臣共と詠んで、盛り上がっておった。待たせた件をつい忘れておった」
将軍の惟康は悪びれる様もなく、口を袖で隠した。大笑いをしていた。又一郎が、また微かに怒りの顔を出した。右衛門は又一郎を見ないで、手を縦に振っている。又一郎は右衛門の手を見て分かり、すぐに大人しくなった。
「将軍様、御機嫌麗しゅうございます。お初にお目に掛かりまする。私は、紫連右衛門良高と申します。本日は、一介の政所執事代の私にお会い下されました。恐悦至極に存じ上げます。御礼申し上げます」
惟康の周りには、四人の家臣が侍(はべ)っていた。どの者もお歯黒をつけ、公家風の化粧をしていた。
「右衛門よ。今日は何の用で来たのか」
維康は、庭に十三本も植えている落ち葉松を見ている。鷹揚とした言葉で尋ねた。庭には、雀が三匹餌を啄んでいる。
(十四歳の貞時様ですら、前からお分かりになられたのだ。将軍様は、未だに御存じでなられていない)
右衛門は、惟康に心底から呆れた。
「将軍様、今の鎌倉及び日の本が危うき事体になっております。安達覚真様と平左兵衛尉様が、戦をする時が迫っております。幕府の政を巡っての争いにございます。戦が起これば、鎌倉も火の海になります。この上は、将軍様直々にお二人の仲裁を行なっていただきたいのでございます」
「安達と平が戦をするのか。なにゆえだ。訳が分からぬ。今までの有様を教えてくれ」
惟康は、今までの態度から急に変わった。目を大きくし慌てて、右衛門に話し掛けた。
(やはりそうか。執権様、覚真様、左兵衛尉様、今周りにいる近臣の誰もが、将軍様に何もお伝えしなかったのだな。お飾りの将軍だ。全く政に携わらないように、周りから政には、遠ざけられたのだ。お可哀想に)
右衛門は、維康を愚かとは思わずに将軍に深い悲しみを抱いた。惟康に、戦に至る前の今までの流れを、詳しく伝えた。
「そのようになっておったのか。所詮、儂は傀儡将軍だ。何も儂に報せない事体が、当たり前であろう。父上など、今までの宮家や公家から将軍になった者は、そのようになっておった。何れ邪魔になったら、儂も京に戻される」
惟康は、悲しい目で右衛門を見つめている。
「しかし、幾ら操り人形でも、儂の許しも受けずに戦を始めるとは何事だ。平穏で豊かなな鎌倉は、儂は大好きだ。この街を火の海にする事体は、決して許せん」
惟康は、微かに怒りの顔を出してきた。
「将軍様に、今の危うき事体をお分かりいただきました。私は、嬉しゅう存じ上げます」
右衛門は、懸念していた心が落ち着いた。
「儂の力が、微力なのは確かだ。しかし、戦は止めねばならぬ。儂が二人を呼び出して、話を直にする。二人に戦の愚を伝え、必ずや止めさせる」
惟康は、今までと違い力強く語った。今までのか弱き将軍とは別人だった。右衛門は、僅かな望みを見出した。
七・
二日後の昼、右衛門の屋敷に将軍の使者が来た。
右衛門は、維康の仲裁の結果がどのようになったかが、気になった。広間で右衛門は下座に移り、使者が上座に立った。右衛門は、厳粛な心持ちと態度で使者に向き合っている。
「紫連右衛門殿。将軍様からのお達しである。昨日、安達覚真と平左兵衛尉を将軍御所に呼び出した。戦を必ず起こさぬように、将軍様直々に命じられておられる。しかし、二人は相手の非を述べるばかりだった。将軍様は失望なされた」
使者は、話を続けた。
「将軍様は、何度も仲に入られた。しかし、二人は、将軍様の話すら全く聞き入れなかった。遂には、二人は喧嘩になった。征夷大将軍様の御前で、喧嘩をするとは無礼な者たちだ」
使者は、苦い顔をしている。
「まるで、幼子だ。情けない限りだ。無念だが、将軍様は戦を止める件は、おできになられなかった」
右衛門は、使者に深く礼をした。
「真に残念でございます。しかし、将軍様の御尽力には、深い感謝の念ばかりにございます」
(左兵衛尉様は、醜き心の御方だ。しかし、覚真様ともあろう御方が、左兵衛尉からつられて喧嘩に乗った。真に、情けない)
右衛門は、一瞬気落ちした。しかし、すぐに気持ちを引き締めた。使者は、残念な顔をして帰っていった。
父の大夫が少し慌てながら、右衛門の屋敷に入った。右衛門の元へと近づいていった。
「右衛門よ。先ほどの御使者は、将軍様の御家臣であろう。お前は、いったい何事をしておるのだ」
大夫は、やっと落ち着いて口を開いた。
「父上、私は覚真様、左兵衛尉様、御家人の方々、連署様、執権様、将軍様にお会いしました。覚真様と左兵衛尉様の戦を何とかして、止めようと致しました。懸命に動き回りました
右衛門は話を続けた。
「しかし、左兵衛尉様は覚真様を滅ぼすおつもりでございます。皆様の御尽力で戦を止める事体はできませんでした。無念でございます」
右衛門は、悔しさを内から出した。
「左兵衛尉様は確かに、戦を必ずや起こす御方だ。覚真様の新たな政の失敗で、御家人たちが不満を持った。多くの御家人たちが、左兵衛尉様側に今や付いている。再び、数人の御家人が覚真様の元へと戻っておるが。この機を逃す左兵衛尉様ではない。もう戦は、避けられぬ。残念な事体だが」
右衛門は、大夫が眉間に皺を寄せている姿を見た。大夫は、右衛門に語った。
右衛門は、大夫の顔に皺が増えた有様に気が付いた。髪も白いものが、増えていた。
(御父上も御刻苦された、お歳を取られたのだな)、
右衛門は、それに気付かなかった自分を責めた。
「そうでございます。もう計略はございませぬ。覚真様に何があっても、決して屋敷を出てはなりませぬ。そのように書翰をお送りしました。また、今の屋敷は手薄だから、守りの備えを強くするようにも書きました。又一郎を使者にして、送っております」
右衛門は、覚真が戦に巻き込まれない。それしか、手はないと考えた。安達屋敷に着いた又一郎は、何度も覚真に念を押して右衛門の願いを伝えた。又一郎は、屋敷に戻って覚真が何度も頷いたと、右衛門に答えた。
「儂も此度は、左兵衛尉様に付くしかないと決めた。覚真様の軍勢では、左兵衛尉様の大軍に今や勝てないのは必定だ」
大夫は、右衛門の気持ちを捉えるようにして話した。
「左兵衛尉様の御性分は、家臣に冷たく信の置ける御方ではない。しかし、覚真様側に付いたならば、必ずや紫連家は滅びる。主水は、元々左兵衛尉様側におる」
右衛門は、大夫から肩をゆっくりと叩かれた。自分の心持ちを軽くするようにと、右衛門は受けた。
「其方も左兵衛尉様に付くが良い。左兵衛尉様は、其方の優れた才を買っておられる。左兵衛尉様は信頼できぬ御方だ。だが、使える者と思ったら大事になされる。右衛門よ。其方も儂らと共に、勝ち組に乗るのだ」
右衛門は、大夫が寂しい態度を見た。
「父上、有り難きお言葉でございます。しかし、私は覚真様の日の本を救う新たな政を手伝って参りました。覚真様は御家人や民を思いやる御方でございます。覚真様の人となりに感銘を受けて、この御方に付いていこう。私は固く決めております」
右衛門は、力強く心の奥から声を出した。
「そうか。儂たちは、敵味方に別れてしまうのだな。儂は左兵衛尉様側に、付いておきながら其方との戦はなるべく避ける。しかし、主水は其方を憎んでおるから、必ずや手段を選ばずに命を狙ってくるぞ。十分に用心しておけ」
右衛門は、大夫が平静に伝えた事体を、有り難く感じた。
「分かり申した。なるべく一族での戦いは、避けましょう。しかし、一族が二つに分かれたならば、勝ったほうは生き残ります。どちらが勝っても、紫連家は続くのでございます」
右衛門は、静かに答えた。
「そうだな。紫連家の命運が、此度の戦に掛かっておる」
二人は、ゆっくりと話した。二人は別れた。
(再び、父上にお会いする時を願っております)
右衛門は、父の後ろ姿を見ながら、落ち着いて思った。
-
第八章 乱の始まり
一・
「執権様、お聞きになられましたか。覚真様の御嫡男宗景殿が源姓を称しておられます。将軍になる野心を、持っておられます」
執権の御所の奥の居間で、左兵衛尉は、貞時に静かに耳打ちをした。既に戌の刻になっている。空に満月が光っていた。黄色の光を見て、貞時は不安になった。しかし、自分の心持ちが分かり、気を引き締めた。
「つまらぬ噂だ。左兵衛尉よ。いったい何を言うのか。安達一族は、北条得宗家に一番近い一族だ。私の母上は、覚真の妹だぞ。そのような馬鹿げた企みは、決して有り得ない」
さすがに聡明な貞時は、左兵衛尉を元々信じていない。怪しく信の置けない者だ。貞時は、既に見破っていた。
しかし、父が重用した者だから、取り除く機は今はなかった。従って最初は、全く相手にしなかった。
「覚真様が貞時様を守ろうとしても、分かりませぬぞ。息子が将軍になる望みを持つ。その有様は防げませぬ。覚真様は、遂に宗景殿の企みを支えるとお決めになりました」
貞時は、巧みな左兵衛尉の話を毎日続けて受けた。当初の考えが、徐々に変わっていく。覚真への疑いが強まってきた。遂に、覚真とその一派への討伐の命を、左兵衛尉に与えた。空に、月が雲で隠れて見えない日の時だった。左兵衛尉は、影でほくそ笑んでいた。
二・
又一郎が、執権の御所の天井裏に潜んでいた。右衛門は、左兵衛尉が何か覚真に対して、動くと考えていた。従って、左兵衛尉の動きを又一郎に見張らせていた。見たままの事体を、右衛門の屋敷に戻って報せた。
「覚真様は今こそ危ない。此度は、俺が動く」
急いで右衛門は、安達屋敷に赴いた。覚真に火急の用があると伝え、会った。
「覚真様、大事(おおごと)でございます。左兵衛尉様が、宗景様が将軍になる望みを持っている。そのように貞時様に讒言したそうでございます」
「何だと。それは真か?」
覚真は、愕然としている。
「はい、私の家臣の上田又一郎を、執権様の御所の天井裏に忍ばせておりました。今は、覚真様の新たな政が、上手くいっております。覚真様側に味方が増えております。従って、左兵衛尉様が焦りを感じておられると、思いました」
右衛門は、覚真の目を真っ直ぐに見つめた。
「しかし、貞時様は、御聡明な御方だ。決して、左兵衛尉如きの小人の讒言には、乗せられぬ。また、儂は、貞時様の母の兄だ。儂は貞時様を信じておる」
覚真は、胸を張った。
(只の憂慮であれば、よいのだが)
右衛門は、一抹の不安をよぎったが気を取り直した。また、左兵衛尉の動きを見ていこうと、強く思っている。
三・
弘安八年(一二八五年)十一月四日と十四日に、左兵衛尉は、日光山の別当の源恵に願って、覚真討伐の祈祷を行なった。
「遂に、覚真めを討ち滅ぼす時が来た。皆の者いざ参るぞ!」
左兵衛尉は、発揚している。
「エイエイオー! エイエイオー!」
味方の御家人たちは、激しい勢いを抑えられなかった。
この日も、陽が雲に隠れていた。暗雲が、鎌倉の人々の心を不安にさせている。
「何か起きるのか。不安だぞ」
一人の商人が、空を見ながら不安になっていた。
十一月十七日の丑の刻に、遂に左兵衛尉は内管領の屋敷を一千の軍勢で出た。軍の士気は、すこぶる高い。佐々木廷尉などの側近や外様の御家人たちが出陣した。覚真の屋敷のほうに、急いで向かった。
左兵衛尉は、事前に何度も考えを巡らせた。どのようにして、覚真を逃さずに討つか。左兵衛尉は、懸命に考えた。そして、答えは既に十分に出た。忍びを使い、覚真の動きを全て捉まえていた。
左兵衛尉は、覚真がどこにいる時に襲うか。明らかに決めていた。左兵衛尉の軍の備えは、十分である。
黒糸威や赤糸威などの甲冑の武者たちが、勢いよく駆けていった。皆、目が血走った。鎌倉の路を駆けた後は、土煙が昇っている。
鎌倉の松谷の別荘に居た覚真は、周囲が騒がしい態度に気付いた。左兵衛尉は、覚真が安達屋敷を出て、この屋敷にいる時を狙った。
「覚真様、屋敷を決して出てはなりませぬ。左兵衛尉から狙われます。今は、紫連右衛門殿の言われる通り、屋敷に籠もって守りましょう」
側近の宇都宮尾張守景綱が、命懸けで覚真を止めた。
「安達屋敷を出て、松谷にいた時を狙われた。迂闊だった。安達屋敷は、守りは万全だったのだが。安達屋敷以外の屋敷は、備えが整えてなかった。この屋敷は守りが手薄い。左兵衛尉に、儂の動きは全て読まれていた。近くの塔ノ辻(とうのつじ)の屋敷で左兵衛尉の軍を防ごう」
覚真は、話した。尾張守は、危うき懸念を持ちながらも、覚真に従った。
(こちらも、左兵衛尉様の動きは掴んでいたはずだ。又一郎に忍ばせていた。左兵衛尉様は、我らの動きも調べられていたのか。恐ろしい御方だ。すぐに覚真様を助けねばならぬ)
右衛門は、危うき気持ちでいた。
覚真は、未の刻の頃には塔ノ辻にある出仕のための屋形に、逃げている。
(覚真様が、遂に屋敷を出られてしまった。左兵衛尉様に決して釣られてはなりませぬ。そのように何度も強くお伝えしたはずなのに、なにゆえ屋敷を出られた。なにゆえだ)
右衛門は、紫連家の屋敷に一旦戻った。何か事が起こったら、すぐに動くつもりだった。
又一郎から、報せを聞いた右衛門は心から悔しく思った。
「覚真様は、塔ノ辻屋敷から貞時様の邸に出仕されました。覚真様が討伐の対象になり、貞時様に無実を訴えるためのようです。途中で、左兵衛尉様の家臣の御内人や御家人の手勢一千に行く手を阻まれました。死者が三十名、傷を負った者が十名に及んだそうでございます。噂ではございますが」
又一郎は、話を続けた。
「これを機に大きなぶつかり合いが、結局起こってしまいました。何と将軍様の御所にまで、火が回り焼けてしまっております」
「なぜ、安達屋敷から塔ノ辻の屋敷に移られたのだ。安達屋敷で敵を防ぐべきだった。確かに塔ノ辻の屋敷は、守りがし難い。しかし、外に出ればより危うい。覚真様は、十分にご存じのはずだった。なにゆえ、私の忠言を聞いて下されなかったのだ」
右衛門はまだ悔しく感じて、叫んでいる。
「貞時様の屋敷に向かわれるとは、何たる間違いだ。これで、安達一派はもう終わりだ。せめて、覚真様お一人でも救わねば」
右衛門は、頭の中を振り絞った。苦しみながら考えた。
真の話が次々と、右衛門の元へ入ってきた。未の刻には、覚真の側近である吉良満氏は、屋敷を攻められ自害した。右衛門は、満氏の穏やかな顔を思い出して、悔しい心持ちになっている。
(おのれ。日の本に害をなす左兵衛尉め)
伴野長泰は逃げるところを捕まって、由比ヶ浜で斬首された。宇都宮尾張守景綱は、捕まって職務から外された。左兵衛尉側に縁者がいて、尾張守は一命を助けられた。
「やはり御味方に死者が出てしまったか。私の力不足だ。左兵衛尉は日の本を良くしようとは、一切考えておらぬ。若き貞時様を操り、自分の幕府での権を強められる。只それだけだろう。民の暮らしなど考えずに、自分の利ばかりを求めるだろう」
右衛門は、まだ憤っていた。
「左兵衛尉の恐ろしい政が、これから始まる。全く行き難い世になる事体は、確かだ。俺は、このような政が始まる時を憂慮していた」
右衛門と又一郎は、急いで塔ノ辻の屋敷に馬で駆けていった。
(鎌倉は、遂に戦場となった。栄えていた街も崩れ落ちるだろう。俺は、この事体を避けるために、皆様方に説いて回った。無念極まる)
右衛門は、門から入った。燃え盛る屋敷を見て、右衛門は愕然とした。自然と涙を流しながら、大声で叫んだ。
「覚真様! なぜ安達屋敷を出られたのですか」
右衛門は、塔ノ辻の屋敷の前で膝をついている。拳を何度も地面にぶつけた。又一郎が止めようとしたが、右衛門は力強く振り払った。右衛門の拳は、血だらけになった。
第九章 紫連家の有様
一・
右衛門は、紫連家の無事について、かなり気になった。
「俺が覚真様側に付いたので、我が屋敷は大丈夫だろうか。すぐに見に行かねばならぬ」
右衛門は、又一郎と共に急いで駆けた。坂を登る。両側には、建長寺などの高名な寺が並んでいた。寺は、さすがに燃えていなかった。
(人を人と思わぬ左兵衛尉も、寺社には火を点けなかったか。寺社を燃やしたならば、当然怒りを買ってしまう。後々の政に、寺社からの横槍が入るからな。左兵衛尉は、利を考えて寺社には手をつけなかった)
右衛門は、安堵すると共に自邸を思い出した。馬に再び乗った。より腰に力を入れて急いだ。薄黒い雲の中に、黒炭の炎が入っている様に見えている。
自分の屋敷に辿り着いた。二人とも、激しい息をしていた。その場で手を膝に載せて、立ち止まっていた。右衛門は、顔を上げて屋敷のほうを見た。
右衛門の屋敷は、まだ燃えていない。右衛門は安堵した。しかし、見ると怪しき者たちの声が聞こえた。
「早く主水様の敵の右衛門めの屋敷を燃やそうぞ」
主水の残党が、激しい声で叫んでいる。残党たちは右衛門の屋敷を囲もうと、動き出した。
「それはならぬ。右衛門の屋敷が燃えたならば、儂や主水の屋敷にまで、炎が移ってくるぞ。至極迷惑だ。後で左兵衛尉様から、お叱りをお前たちは受けるのだぞ」
右衛門は、父の大夫が低く重い声で話している態度を見た。
(父上、有り難き事体にございます)
大夫は、左兵衛尉側に付いていた。敵に付きつつも、右衛門の屋敷をわざと燃やさないようにしている。
大夫は、右衛門への敵となり気持ちに苛まれ苦しんだ。紫連家を守るために、迷いに迷って二つに分かれた。右衛門と袂(たもと)を分かち合った。
できの悪い主水と共に動くのは、本意ではない。できれば右衛門と共に、覚真側に付き戦いたかった。それが本心である。
しかし、左兵衛尉側のほうが、覚真側より御家人の支持や、兵の数が遙かに多かった。どのように見ても、左兵衛尉のほうに分があった。
大夫は、せめて右衛門の妻良子と子の一丸の命を助けたかった。
(右衛門よ、許してくれ。せめて生きて戻ってくれ)
大夫は、時が経っていくうちに、段々と悔いが強くなった。薄黒い空を見て、鬱陶しくなった。
二・
そこへ、右衛門と又一郎は、急いで駆けつけた。右衛門の考えは、良子と一丸の無事を第一に考えている。
「右衛門よ、生き残っていたのか。儂は、嬉しいぞ。覚真様側の御方たちは、ほとんどが討たれるか捕らえられるかだった。お前は今のうちに、左兵衛尉様に付くのだ。左兵衛尉様は、冷たい心の持ち主だが、お前の高き才には惚れ込んでおられた」
大夫は、話を続けた。
「才のある道具ならば、必ずやお許しになられる」
大夫は、右衛門に懸命に訴えた。
右衛門も、大夫を見た。込み入った心持ちながら、近づいた。父は、敵の左兵衛尉側に付いた件は、戦の前から話し合っていた。
「父上、お心遣い有り難き幸せにございます。しかし、左兵衛尉は覚真様の政を断ち切りました。せっかくの日の本を新しく豊かにする機を潰した男でございます。私は、あの男を、決して許しませぬ」
右衛門は、話した。
紫連家は燃えていない訳は、大夫の御陰だ。屋敷の前には、大夫と家臣たち十人が立って守っていた。皆、鬼の形相である。体から強い圧が出ていた。主水の残党も、元々紫連家の家臣だった。大夫の怖さを恐れて、右衛門の屋敷になかなか近づけなかった。
「父上は、左兵衛尉側に付かれてから、いかがなされたのですか」
右衛門は、落ち着いて尋ねた。
「一度は戦に向かって、吉良殿の屋敷を攻め落とした。吉良殿のお人柄は、穏やかで素晴らしかった。吉良殿を攻める時は、ためらいがあった。吉良殿が御自害されたのは、真に無念だ。その後は、紫連家を覚真側から守ると左兵衛尉様に報せ、今までここにおった。右衛門の屋敷を燃やされたら、堪らぬからな」
右衛門は、大夫の言葉を聞いてますます落ち着いた。少し晴れ晴れとした気持ちになった。
「左様にございますね。御家を守るためにですからね。このようにするしかなかったですから」
右衛門は、大夫の目を穏やかに見つめて、安らいだ。
「良子と一丸は無事だ。儂の家臣に守らせておる。是非会いにやってくれ。其方は顔を見せる。二人はさぞかし喜ぶだろう」
右衛門は、大夫から伝えられた。
右衛門は、より穏やかになった。すぐ側には、主水の残党が十三名も残っていた。右衛門を睨みながら、囲んでいる。及び腰で、右衛門を恐れていた。中には恐怖で、歯が震えている者もいた。
「お前たちも紫連家の家臣だ。同じ家の者とは、争いたくはない。兄者との戦いだけで、既に身内同士の戦は止めた。兄者は、塔ノ辻屋敷で討ち死にした。私が討ったぞ」
右衛門は、残党たちの目を鋭く睨み、強い念で口を開いた。残党たちは、すぐには信じなかった。
「武勇に秀でている主水様だぞ。政所風情の役人に、討たれるものか」
残党たちは、腰を引きながらも刀を構えていた。
「お前たちよ。これを見たらどう思うか」
右衛門は、馬の鞍に結びつけていた物を取った。主水の兜だ。残党のほうに、放り投げた。黒糸威の兜は、軽々と転んでいる。
「主水様の兜だ。間違いない」
残党たちは、転がってきた黒い兜を見て、愕然とした。
主水の家臣たちは、表ではおとなしく従ってきた。逆らうと、主水から厳しく叱責されるからだった。しかし、家臣たちの中では主水の日々の悪行のせいで、主を激しく憎んでいた。恩もなく憎い主のために命を張るなど、あり得ない。右衛門と戦う勇猛さは、一切なかった。逆に穏やかになっている。
「右衛門様。憎っくき主水を討っていただき、感謝の念に堪えませぬ」
残党たちは、明るい顔になった。右衛門に、深く頭を下げて礼をした。
まるで、主水の家臣たちのために敵を討った感じだった。右衛門は、奇妙な気分になった。残党たちは、すぐに大夫の元に降っている。大夫は、降った者たちを丁重に迎えた。
「右衛門よ、真に主水を討ったのか! 実の兄を討ったのか」
右衛門は、大夫から涙を激しく流しながら、両手を掴まれた。激しく手を握られた。強く振られた。
右衛門は、大夫が我を忘れていると感じた。
「私は兄者を討つつもりは、一切ございませんでした。しかし、向こうが私を討つ良い機だと強く思っていました。家臣に周りを包囲させたのです。戦う気満々で、攻めて来ました。私は兄者に何度も勝ち、その度に許しました」
右衛門は、無念の顔で話を続けた。
「兄者を何度も許しても、卑怯な振る舞いをしました。私を諦めずに、討とうとしたのでございます。従って、止むなく討ち取りました。幼き頃から、兄者には卑劣な行いを受けて、長年苦しめられました」
右衛門は、平静に話した。
「兄者は、私への讒言、闇討ち、罵倒などで大いに害を与えてきました。良子、一丸を襲った件は、決して許されませぬ。侍所での悪行も甚だしく、紫連家の名をかなり汚しておりました。私は討たれる訳に参りません」
右衛門は、神妙になり寂しくなった。
「そうだな。残念だ。しかし、主水は儂が勤める侍所に頼み込んで、職務に付かせた。主水は、職務はまともに行なわなかった。同じ侍所の役人と、よく揉めてしまっている。悪評を立たせただけだった。侍所の中で、儂の立場が悪くなってしまった。儂の育て方が間違っていたのだ。主水には、気の毒な接し方をしてしまった」
右衛門は、大夫が気持ちが沈み込んでいる姿を見た。
「奴の出来が幾ら悪いとしても、紫連家の者たちは才がある右衛門ばかりを可愛がった。主水は僻みの心を持ち、悪行を行なうようになった。儂が、主水にもっと情けを掛けていればと、今になって悔いた。今頃思っても遅いが。残念だ」
右衛門は、大夫の深い悲しみを分かっていた。
三・
「右衛門よ。良子と一丸の元へ急ぐのだ。ここは儂が守っておく。気にするではない」
「はい、分かり申した」
右衛門と又一郎は、急いで走った。屋敷は今日出る前と、全く変わらなかった。柱には刀傷すらなかった。
「良子よ、一丸よ。俺は、今戻ってきたぞ」
右衛門は、玄関から入り大声を発しながら、二人を探した。
右衛門は、どこに二人がいるのか、憂慮した。
「右衛門様、生きておられたのですね。良かった。お傷はございませんでしたか。一丸よ、御父上様が帰って来られましたよ」
二人は、奥の居間で抱き合っていた。隠れていた。前を三人の大夫の家臣が、二人を守っている。
「三人とも、よくぞ良子と一丸を守ってくれた。礼を言うぞ」
右衛門は、大夫の家臣に対して深々と頭を下げた。感謝してもしきれなかった。
「右衛門様、紫連家の者は同じ家族同様にございます。我ら共に向かって頭を下げるなどとは、滅相もないです。私たち共は、大夫様に命じられ、当然の職務を務めただけでございます」
三人は、深々と礼をして立ち去った。
良子は、大いに喜んだ。美しく薄緑の艶を放つ畳の上から、立ち上がった。良子の顔色は、今まで青ざめていた。
しかし、右衛門の顔を見ると、すぐに頬が赤くなった。すぐに駆け寄り、右衛門に抱きついた。今までにない素直な態度をした良子に、右衛門は大きな驚きを持った。
「良子よ、抱きつくとは武士の妻としてはしたないぞ。謹んでくれ。悪い思いは、しないがな」
右衛門は、いつもの平静な時と違う。恥ずかしくなり、思わず下を向いた。
「あはは、右衛門様も良子様の前では、大人しくなるものでございますな」
又一郎は、大声で笑いながら話している。
「又一郎よ、もう言うな。照れてしまうではないか」
右衛門は、笑みを浮かべて口を開いた。
「これは、失礼致しました」
又一郎が、微笑んでいた。静かに縁側を歩き、表のほうへと引き下がった。
「御父上、御無事で何よりでございます」
五歳の一丸は、自分を立派に見せようとした。父を安堵させようと、話し掛けてきた。
「一丸よ。よくぞ無事であった。御祖父様と母上の御陰で、其方は守られたのだぞ。決して忘れるではない」
右衛門は、目を細めている。
「分かりました。後で御祖父様に、御礼を申しておきます」
「一丸も、大人びた言葉を話すようになったか。元服した後が、実に楽しみだ。紫連家は、これからも安泰だぞ」
右衛門は、ますます喜びを増した。良子と一丸を両手で包み、強く抱きしめた。この幸せが長く続くようにと、右衛門は強く内から願った。
四・
右衛門たち親子と上田又一郎は、屋敷の外に出ていった。紫陽花(あじさい)が、美しい青の花を咲かせていた。右衛門は紫陽花を見て、心持ちが和んだ。
(今まで、自分の屋敷ですら何の花が咲いているか、全く覚えていなかった。職務ばかりに追われていたからな。これからは、花や庭の有様も気に掛けていこう)
右衛門は、自分を改めた。
良子、一丸と又一郎を連れて大夫の元へ向かった。
「御父上の御陰で、皆は無事でございました。有り難き幸せでございます」
四人は深々と大夫に向かって、礼をした。
「同じ紫連家の者ではないか。助けるのが当然だ」
右衛門は、大夫が笑みを浮かべている姿を見た。大夫は、右衛門の右肩を軽く三度叩いた。
右衛門は、幼き頃の思い出が浮かんでくる。右衛門は、大夫に頭を下げた。
第十章 新たな道へ
一・
「だが、儂は左兵衛尉様側の者だ。今共にいる所を左兵衛尉様側の者に見られたならば、お前たち家族の命が危うい。何とか早急に、手を打たねばならぬ」
右衛門は、大夫が険しい顔をしている態度を見た。
「右衛門たちよ。早く逃げるように致せ」
「しかし、逃れる場がございませぬ。鎌倉は街中だけでなく、外への切通しも左兵衛尉の手の者が押さえておる、そのように聞いております」
右衛門は、静かに落ち着いて答えた。切り通しは、鎌倉を守るために造られた隘路である。崖と崖の間にある。掘って造ってあった。左兵衛尉軍が易々と押さえている所であった。
右衛門は、考えに考え抜いた。眉間を険しくして、考えを続けた。いつの間にか、そのような顔の表情をしている自分が分かった。右衛門は、急に明るい顔に変わった。紫連家の屋敷の左側にある松の木が、美しい緑を映えさせている。
「父上、私は樺太に一時隠れようと考えております」
右衛門は、大夫の大きな驚愕を見た。
「樺太は、厳しい冬が多い島だと聞いておる。蝦夷ヶ島より遙か北の島だぞ。お前が耐えても、良子や一丸の体が持つのか。その点を、儂は大丈夫か気にしておる」
二人は、真っ白で深く積もった雪と、大風が吹く有様が頭に浮かんだ。
右衛門は、大夫が両手を頭に押さえ、困惑している様を見た。右衛門の話を受け入れられないようだ。
「私も、そこは懸念しております。一丸もまだ五歳です。樺太の寒さがどれくらいかは、分かりませぬ。しかし、厳しい寒さだと、世では話されております」
良子も、憂鬱な顔で話している。
「私は、大丈夫でございます。五歳と、甘く見られては困りまする。どのような寒さでも耐えて見せます。私も紫連家の者でございまする」
一丸が突然話した態度を見て、皆が一同に驚いた。
「一丸よ。どこで、そのような言葉遣いを覚えたのだ。五歳の子とは、決して思えぬ物言いだぞ」
右衛門は、驚き且つ我が子の成長を喜んで、尋ねた。
「父上始め、紫連家の方々の言葉遣いを、常々聞いていただけです。私も、これからは名門紫連家の者として心掛けます。人様に向けて、恥ずかしい振る舞いをしてはなりませぬ。無論、伯父上主水様の行いは、真似してはならぬ。そのように、良き学びとなりました」
右衛門たちは、主水の話が出て、一丸を呆れつつ笑った。
「そうか。一丸も、かなり育ったのだな。紫連家も安泰だと思ったが、右衛門たちはここを去るのか。実に寂しい事体よ」
右衛門は、大夫が空を見上げて呟いている有様を見た。右衛門も、寂しく感じた。
右衛門は、振り向いた。戦の時は空は薄黒い雲に満ちていたが、今は雲が除かれている。青い空が見事に、皆の心を晴れ晴れとさせた。日が大夫の顔に当たって、眩しかった。右衛門は、大夫が思わず目を閉じた態度を見た。
「樺太の頭領には、ホロケウ様がおられます。鎌倉に来られた時に、私を高く評していただきました。あの御方は、御立派な英雄でございます。私は、ホロケウ様に文を送ります。頼って、樺太へ向かおうと考えました」
「ホロケウと呼ばれる御仁が、お前をこれからの世で大いに必要な者になると言われた。話は、儂も聞いておった。何せ鎌倉中に広まった話だからな。樺太で蒙古を退けられた御方に、お前たちは頼るのか」
右衛門は、大夫が目を大きく見開いている様子を見た。大夫から尋ねられた。
「はい、御父上、ひとまずの凌(しの)ぎでございます。私は、いつも鎌倉の動きを見ております」
右衛門は、確かな答えを大夫に伝えた。
「私も一丸を守って、樺太で生きたいと存じます」
右衛門は、良子、一丸、又一郎も憂鬱な顔が消えていた姿に安堵した。皆、活き活きとした目で、大夫を見ていた。
「そうか。分かった。其方たちは、早急に鎌倉から抜け出さねばならぬ。左兵衛尉様側に捕まったら、おしまいだ」
右衛門は、大夫が憂慮した態度を見据えた。
「右衛門様、私はどのように致せば宜しいのでしょうか」
又一郎は、困った顔をしていた。
「又一郎よ。お前は無二の忠臣だ。共に行くに決まっておる。私たちを守ってくれる職分も、期待しておるぞ」
「有り難き幸せにございます。樺太まで、必ずや右衛門様たちをお守り通します。樺太では皆様への敵が来たら、迷わずに討ち果たします」
右衛門は、又一郎に話し掛け安堵させた。
「分かり申した。御父上の願いを決して忘れませぬ。鎌倉で政の在り方が変わり、乱の兆しが見えた時の話です。御父上は、私に文を書いて下され。必ずや樺太から、馳せ参じます。憎っくき、平左兵衛尉頼綱めを討ち果たして見せます」
右衛門は、自分を締めて大夫を見つめた。
「左兵衛尉は、表の顔は明るく見えます。しかし、家臣や御家人に対して冷酷な人物であります。恐怖で政を行い、敵になる者は潰すでしょう。御家人たちは、いずれ左兵衛尉の真の姿を知るでございましょう。傍輩が恐れに怯える。左兵衛尉の治める世は、長くは持ちません。必ずや、貞時様から処断されると思います」
右衛門は、話をした。
「儂も、そのように思う。主水も道具として、ただ使われただけだ。お前たちは早く、鎌倉から抜け出せねばならぬ。何か、良き案がないか考えよう」
右衛門、良子は納得した。懸念している事体がある。どの湊から、どのようにして逃げるかであった。
「この案はどうだ。鎌倉の由比ヶ浜の湊まで、四人を隠して船で発つ。陸奥まで行く。陸奥の十三(とさ)の湊から蝦夷ヶ島に辿り着き、そこから海を経て宗谷まで行く。宗谷から樺太の白(しら)主(ぬし)まで、また船で渡る。白主からホロケウ殿のいる所に進む案だ」
「良き案でございますね。私も御父上のおっしゃる通りに、進みたいと存じます」
右衛門は、納得した。
「私も、同じ心でございます。右衛門様に付いて参ります」
右衛門は、良子も力強く答えた事体を聞いた。安堵した。
「以前に、ホロケウ様の樺太の住処がクシュンコタンと聞いております。そちらに、参りたいと存じます」
右衛門は、四人がクシュンコタンに行く考えを大夫に答えた。
二・
紫連大夫の家の屋敷に馬丁の小屋がある。小屋で、樺太へ逃れる備えは行なわれた。右衛門たちは、荷車の中に入った。良子、一丸、又一郎と共に大夫に藁で隠された。
左兵衛尉の手の者から、見つからないように荷車の底に四人を入れ、藁を敷いた。その上に米俵を十俵置いた。
また、上に敷き藁を被せている。大夫と紫連家の五人の家臣が、由比ヶ浜に慎重に運んだ。右衛門は、見つからないようにと願っていた。
右衛門は、大夫の自分たちを守るための思いを感じた。
右衛門親子たちと又一郎は、荷車の中で隠れて不安だった。特に一丸は五歳の幼子だ。
三・
(一丸が突然泣き出さないか。不安だ)
右衛門が、今一番の懸念するところだった。逼迫した思いだった。
「御父上、苦しいです。もっと息がしたいのです」
一丸が、珍しく弱音を吐いた。
「一丸よ、今ここでじっとしておれ。我慢しておれば、良いぞ。新しき素晴らしい世に、出る事体ができる」
右衛門は、一丸の頭をゆっくりと撫でながら、優しく諭した。
「分かり申した。私が甘過ぎました」
一丸は、小声で右衛門に謝った。
「分かれば良い。さすがは私の子だ」
右衛門は、誇り高い気分になった。
上に被っている藁が、顔に刺さって痛い。重い米俵により、強く圧迫した感じを受けた。藁の匂いが、荷車の下に満ちている。
大夫は、紫連家の屋敷を申の刻に、四人を隠した荷車を発した。荷車の大きさは、縦が一丈(三.○三m)、横が三十丈(九十.九m)の長さである。
未だに、鎌倉は人々が慌てて騒いでいた。老若男女が、走り回っている。大夫は、街の中を通らなかった。奥のほうは、人があまりいない、奥の鎌倉北部の路を通った。
木々に覆われ、鳥の囀(さえず)りしか聞こえない。静かところだった。鎌倉の戦での騒乱が、嘘のようである。
鎌倉から、切通しという狭い路が、通ったところの辺りを通った。幕府は、鎌倉から外に出る路は全て切通しにした。右衛門が話した通り、鎌倉から切り通しへの入り口は左兵衛尉の家臣が守っていた。
鎌倉を外から攻めて来る敵に備える。切り通しで、敵を防ぐ計略ができた。陽は、雲に半分ほど隠れた。鎌倉の皆に、不安をかき立てさせた。この有様は、もちろん右衛門たちには知られていない。
(無事に、右衛門たちを由比ヶ浜の湊から逃れさせるだろうか)
大夫は、不安だった。
(御父上は、御心痛であろう)
右衛門は、大夫の事体を思い遣った。
戌の刻だった。由比ヶ浜の湊に辿り着いた。随分回り道をしたから、陽が沈みかけた。雲は、いつの間にか消えていた。海が陽により、赤色に染まっていた。赤の海と寄せる白波が、大夫の心持ちをより不安にした。
四・
左兵衛尉の家臣の佐々木廷尉宗綱が、念入りに船の中を調べていた。廷尉の姿を見た時、大夫は驚愕した。また逼迫した。
(何と廷尉殿自らが、見張っているのか。まずいな。廷尉殿は左兵衛尉殿に従い、覚真様の屋敷を攻めた中の一人だ。廷尉殿なら、厳しく取り調べする。だから、左兵衛尉様は任せておられるのだろう。何とかせねばならぬ)
大夫は、気を張り詰めている。
前には、七つの荷車が並んでいた。
「お前は、安達家の家臣だな。ここから逃げようとしたのか。甘い考えだ。さっさと出て来い!」
廷尉の家臣が怒鳴って、見つかった者を乱暴に荷車から引っ張り出した。他にも三つの荷車で、吉良満氏の縁者、伴野長泰の家臣、覚真の家臣が見つかった。
(さすがに廷尉殿は厳しいぞ。家臣たちは、決して見逃さない)
大夫は、厳しい面構えをした。
(もし廷尉殿に見つかったならば、儂、右衛門、良子、一丸、又一郎も最期だ)
大夫は、自分の恐れの心を振り払おうとした。
(他の紫連家の者も捕まるだろう。皆、斬首は免れぬ。 紫連家が、生き残るように手を打ってきたが、ここで滅びるとは)
大夫は、憂慮した。由比ヶ浜の湊に並んでいる荷車は、後ろも三十余ほどの荷車が、多く続いた。同じく逃げる考えの者が大勢いると、大夫は考えた。
大夫たちの荷車を調べる番になった。廷尉は、切れ長の鋭い目で荷車の中を厳しく見ようとしている。廷尉の家臣たちも、荷車の隅々まで目をつけながら立っていた。
「大夫殿ではございませぬか。この戦、起こすべきではござりませんでした。しかし、起きてしまい、無念でございます。大夫殿も御味方、御刻苦でございましたな。遅い時分に何を運ばれて、おられるのでございますか」
廷尉は、相変わらず鋭い目で大夫を見捉えた。
「廷尉殿、夜分までのお勤めは大事にございますな。激しい戦の後に、湊の取り調べとは、御刻苦でございます。陸奥の十三(とさ)湊(みなと)に持って行く米俵でございます。陸奥に縁者がおりましてな。向こうに、武蔵でできた美味なる米を送るのでございます」
大夫は、顔に汗が流れている。
「遠方の御方にまでお気を遣われるとは、やはり大夫殿でございます。感服致しました」
廷尉は、頭を下げた。
廷尉は、荷車の中を改めようとした。荷車の中には、藁が上にある。下に五つの米俵が入っていた。廷尉は、大夫の顔を見た。一瞬周りに、強い圧が張られていた。
(まずいな。廷尉殿が調べられていては、逃れられまい)
外の声を聞いた右衛門は、逼迫した。
「分かり申した。大切な米俵ですから、船にしっかりと置かせていただきます」
廷尉は、左兵衛尉のために厳しく、由比ヶ浜の湊を出入りする者たちを調べている。しかし、急に温和な顔になった。強く頷いて、家臣たちに米俵を調べさせて下の方は見なかった。
「私も右衛門殿には、情けを大いに寄せておりますよ。右衛門殿が、左兵衛尉様と覚真様の間に決して戦が起こらぬために、奔走されました」
廷尉は、話を続けている。
「右衛門殿の強き信念に、私は大いに自分の心を打たれました。しかし、私の力も無力でした。結局、左兵衛尉様は乱を起こされた。私の諫言を左兵衛尉様は、聞いて下されなかった。日の本の行く先に、暗雲が立ち込めております。右衛門殿に、合わせる顔がござりませぬ」
廷尉は、無念そうな顔をした。話を聞いていた右衛門は、驚愕した。しかし、すぐに切り替えた。
廷尉は。笑みを浮かべて大夫に話し掛けた。
「どこに行かれるかは、存じ上げませぬ。しかし、私は、また戻って来られる時を望みますぞ」
廷尉は、右衛門に語りかける感じで、荷車を見ている。
考えてもいなかった廷尉の言葉に、大夫は驚愕した。
右衛門も感じ入った。右衛門に思いを寄せる者は、左兵衛尉の側近にもいたのだった。大いなる希望だった。
五・
亥の刻に日が沈む頃、由比ヶ浜の湊を船が出ていった。船は丸木を彫って、上船(うわふな)梁(ばり)、中船(なかふな)梁(ばり)、下船(したふな)梁(ばり)という横板が張られている。櫓を漕ぐ音が、軋んで聞こえた。
紫連大夫は、家臣十二名に松明を持たせた。松明の燃え盛る炎が、右衛門の命の強さを現わした。大夫は船に向かって、大きく手を振っている。
(右衛門、良子、一丸、又一郎よ。またいずれ会おうぞ)
紫連大夫良続は、声を出すと周りに聞こえてしまう。従って、気持ちの奥底で心を込めて叫んだ。
船は、安房の西ケ崎を通り過ぎた。左手に見えた。薄暗いが、岬が大きく見えた。岬は、安房の西の尖った半島の先にある。雄大な岬だった。先ず船は、陸前の塩釜の湊に立ち寄るつもりだった。
西ケ崎を過ぎて、しばらくすると右衛門、良子、又一郎が、重い米俵から抜け出した。
一丸は、右衛門が外にゆっくりと引っ張り出した。
「お辛かったでございますね。しかし、我慢致しました」
一丸は、安堵して語った。
「よくぞ。我慢しておった。偉いぞ」
右衛門は、一丸の頭をゆっくりと撫でた。
外は満月が出て、海に黄色い光を当てた。
「重かったな。しかし、無事に由比ヶ浜を出立する事体ができて、安堵したぞ。御父上にも感謝せねばならぬ。しかし、廷尉殿が見逃してくれるとは。覚真様と左兵衛尉の戦を、私が懸命に止めさせようとした。その動きに、廷尉殿は、御心を寄せて下されたのかも知れぬ」
右衛門は、安らかになった。
「右衛門様、樺太へ着いたならば、新しき暮らしをせねばなりませぬ。私もホロケウ様に再びお会いする時が、楽しみでございます」
右衛門は、又一郎が満月の光を目を細めているのを見た。すぐに見つめながら、喜んでいた。
四人で、空をじっくりと見つめていた。
「今日の満月は、特に美しい。樺太でも月を、愛でたいものだ」
右衛門は、穏やかに話した。
「俺は、樺太でホロケウ様を支える。樺太に蒙古が攻めてきた時は、共に戦う。蒙古を撃退するぞ。鎌倉で異変が起きた時には、すぐに馳せ参じるつもりだ。憎っくき平左兵衛尉頼綱めを、この手で討ち獲る。覚真様の新しき墓を造り、左兵衛尉の首を供える」
右衛門は、新しき樺太での暮らしに大いなる望みを持って、気を引き締めた。
波は静かだった。船はゆっくりと進んでいく。右衛門は、船首に立って活き活きとした目をした。黒く揺れが少ない海を眺めた。
右衛門は、新しき地での暮らしの望みを持って、喜びが満ち溢れていた。
(完)
鎌倉、燃ゆ 県昭政 @kazkaz1868
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます