〈五〉
街の南で唯一知っている者がいる。紅珥は
休まずだいぶ走って少女の歩調が遅くなる。荒く息をして胸を押さえ、苦しそうにした。紅珥は立ち止まって屈む。
「――早く!」
逡巡した腕を引っ張る。初めておぶった時とそれほど変わらない軽さに、この数月彼女が受けてきた仕打ちが予想できた。腕も脚も細くて筋張っている。素足は骨が浮き出ていた。
なぜ彼女がこんな目に
紅珥は初めて他人の不運に対して、自分が何も出来ないことに悔しさを感じ唇を噛んだ。ひたすらに走った。無駄だと頭の中でもうひとりの己が嘲笑う。連れ出して、ただで済むと?また閼氏に怒られ、当主に殴られるかもしれない。丞必が悲しむかもしれない。
でも、あの状況でこの少女を捨て置けはしなかったのだ。せめて、自分が子どもではなくて、楼主を言い負かせるくらいに
やっと見覚えのある通りに来て、紅珥はある
騒々しい音に中の門番が物見窓を開けた。目線を下げた先には少女がこれまた小さな少女を背負って立っているのが見えた。
「――誰だ?」
「当主の第五子紅珥だ。中にいれて!」
彼を女児と
「いったいどうしたというんです?」
「誰が来ても絶対に門を開けないで」
それだけ言うと少女を降ろし、手を引いて奥まった邸へ向かう。
「五の
困った声音に紅珥は門番を振り返った。「じゃあ待っているからと伝えて」
それで連れ立って建物をまわる。裏庭は良く手入れされた池があり、大きな松の低木の下には
「まだいいよ。寒いだろ」
それでも着ようとしないので、隣に座らせて一緒に被る。少女は自分よりも冷たくて暖は取れないが、こちらの体温を分けることは出来るだろう。
しばらくそうして子兎のように二人で凍えた白い息を吐き出しながら無言で池を見つめていると、表で話し声が聞こえた。少女に待っているよう言い、こっそりと軒下まで移動する。
すでに客人は門をくぐったところだった。ちらりと外套の隙間から長い黒髪をたなびかせ、義兄は去って行った。それを静かに見送っていた影が振り返ったので飛び出した。
「
「お待たせしました。どうしたのです、そんな薄着で」
女は戸惑いつつも自分の
急かして裏庭に連れて行き、少女に引き合わせると獅徇は険しい顔をしてみせた。
「……足抜けですか。なんという大それたことを」
「折檻されていた。獅徇、おまえのところで預かってほしい」
獅徇もかつて当主に寵愛された妓女だった。当主との子を儲け、計らいで身分を退き邸を与えられたが砂人の家系出身ということで城には上がらなかった。今では自らがいくつかの妓楼を経営している。
少女は女に怯えて紅珥の背に隠れた。か細い手が衣を握って離さない。獅徇は息をつき、とにかく、と二人を中に招いた。
「城には連絡させて頂きますよ」
「獅徇は砂人の言葉は分からないの?」
「無理です。私は自分が砂に埋もれてたわけじゃあありませんし、それに砂人は前のことをほとんど
「そうか……これ、こいつの」
紅珥が差し出した木札を受け取りますます渋面をつくった。
「幼くて見目も
「どういうこと?買うって、肉や魚みたいに?」
「砂人は保護されたあと
獅徇はよどみなく話す。城の者が自分の耳に入れないようにしているであろうことも赤裸々に明かすから紅珥は好きだった。
では、と少女を見る。
「自分でどこに行きたいか選べないの?」
「運良く希望先に枠があればそれも無きにしもあらずですが、大抵は各家の代表たちが話し合って決めることです」
紅珥は少女の手を握った。自分でどこにいたいのかも決められないのだ。まるで物のように売り買いされて、挙句の果てに虐待の毎日とは、悲惨すぎて目も当てられない。
「おまえは辛くしたりしないだろ。こいつを置いてあげておくれよ」
「それは私の一存では決められません」
獅徇は首を振った。今ごろあちらの妓楼では大騒ぎだろう。
紅珥と少女を泊まらせ、翌日獅徇は城の使者を迎えた。そのひとり、
「五君がお待ちです」
「
「なんの。当主に似て義侠心に富んだすばらしい、愛すべき私どもの末子です」
自分は紅珥の実母の閼氏と同じように彼を息子だと思っている。そう伝えたかった。我が子の養母となった彼女が
当主はただ頷いただけだったが、意図は通じたようだ。
「済まない。お前には苦労をかけてばかりだ」
「私は恵まれております。こうして暮らしに困らないだけのものを与えて頂いて」
「今回の件でまた
では、と見上げた。
「五君のご意向をお聞き届けに?」
「それはあいつ次第だが、こと
言に笑った。
「……私はあの子を産んだことを後悔しておりません。ですが、あなたさまに肩身の狭い思いをして欲しかったわけではありません。ですから力のない私の分も城で粉骨砕身してくださっている閼氏さまには本当に感謝してもしきれないのです。そのことを誇ってくださるのなら、どうぞ胸を張ってください」
当主はまた頷いた。「あれには正直頭が上がらないが、それはお前にも同じことだ。礼を言う」
それだけで十分だ、と獅徇は地に伏せた。
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