〈五〉



 街の南で唯一知っている者がいる。紅珥は咄嗟とっさに思いついたその考えに、熟考するより先に体が動き出していた。少女はおぼつかなげな足取りでそれでも手を握り返してくる。道を走り抜け、通り過ぎた人々が怪訝に二人を振り返った。髪が目立つな、と一旦逸れる。民家の壁の狭間で、あたりを窺いながら褞袍わたいれを脱いだ。外套は妓楼に置いてきてしまった。少女の頭から被せる。路地を反対側に抜けて再び南西へ駆け出した。


 休まずだいぶ走って少女の歩調が遅くなる。荒く息をして胸を押さえ、苦しそうにした。紅珥は立ち止まって屈む。


「――早く!」


 逡巡した腕を引っ張る。初めておぶった時とそれほど変わらない軽さに、この数月彼女が受けてきた仕打ちが予想できた。腕も脚も細くて筋張っている。素足は骨が浮き出ていた。



 なぜ彼女がこんな目にわなければならないのだろう。砂の中で死にそうになっていた。ただここに、どこからか流されて来てしまっただけなのに。


 紅珥は初めて他人の不運に対して、自分が何も出来ないことに悔しさを感じ唇を噛んだ。ひたすらに走った。無駄だと頭の中でもうひとりの己が嘲笑う。連れ出して、ただで済むと?また閼氏に怒られ、当主に殴られるかもしれない。丞必が悲しむかもしれない。


 でも、あの状況でこの少女を捨て置けはしなかったのだ。せめて、自分が子どもではなくて、楼主を言い負かせるくらいに大人おとなだったら逃げなくてもよかったかもしれない。自分はただ当主の息子という肩書きを持っているだけの、無力なつまらない豎子こぞうだった。ここでいくら癇癪かんしゃくを起こして威張り散らし命令しようと周囲は我儘な伏君あととりとしてしか見ないだろうし、楼主が真面目に取り合うとは思えない。それを自分でよく分かっていた。どれほど膨大な知識を身につけ剣技を磨いても、実戦なくして経験は得られない。まだ戦いすら知らない、できるまで育っていない自分が少女を助けるためには、こうするしかなかったのだ。





 やっと見覚えのある通りに来て、紅珥はあるやしきの門前へ息せききって迷いなく近づき、扉を激しく叩いた。


 騒々しい音に中の門番が物見窓を開けた。目線を下げた先には少女がこれまた小さな少女を背負って立っているのが見えた。

「――誰だ?」

「当主の第五子紅珥だ。中にいれて!」

 彼を女児と見紛みまがえた門番は驚き、慌てて脇戸を開いた。急いで飛び込み、すぐに閉める。汗を拭って背中を見た。少女はもう泣いていなかったが不安そうに紅珥の肩をぎゅっと握っている。

「いったいどうしたというんです?」

「誰が来ても絶対に門を開けないで」

 それだけ言うと少女を降ろし、手を引いて奥まった邸へ向かう。

「五のきみ、今はだめです。四の君あにうえさまがお越しなので」

 困った声音に紅珥は門番を振り返った。「じゃあ待っているからと伝えて」


 それで連れ立って建物をまわる。裏庭は良く手入れされた池があり、大きな松の低木の下には蹲踞つくばいが備え付けてあった。紅珥は手巾てぬぐいを濡らして少女の頬にあてがってやり、寒そうに布を押さえた横で自身も顔を洗った。やっと落ち着いてきた息をもう一度大きく吐くと岩のほとりに座り込み、少女にも促した。迷った彼女はおずおずと頭から被った褞袍を脱ぐとこちらに返してきた。

「まだいいよ。寒いだろ」

 それでも着ようとしないので、隣に座らせて一緒に被る。少女は自分よりも冷たくて暖は取れないが、こちらの体温を分けることは出来るだろう。


 しばらくそうして子兎のように二人で凍えた白い息を吐き出しながら無言で池を見つめていると、表で話し声が聞こえた。少女に待っているよう言い、こっそりと軒下まで移動する。


 すでに客人は門をくぐったところだった。ちらりと外套の隙間から長い黒髪をたなびかせ、義兄は去って行った。それを静かに見送っていた影が振り返ったので飛び出した。


獅徇ししゅん

「お待たせしました。どうしたのです、そんな薄着で」


 女は戸惑いつつも自分の囲巾えりまきを取って巻いてくれた。そのときを惜しむように腕を引く。「助けて欲しいんだ」


 急かして裏庭に連れて行き、少女に引き合わせると獅徇は険しい顔をしてみせた。

「……足抜けですか。なんという大それたことを」

「折檻されていた。獅徇、おまえのところで預かってほしい」


 獅徇もかつて当主に寵愛された妓女だった。当主との子を儲け、計らいで身分を退き邸を与えられたが砂人の家系出身ということで城には上がらなかった。今では自らがいくつかの妓楼を経営している。


 少女は女に怯えて紅珥の背に隠れた。か細い手が衣を握って離さない。獅徇は息をつき、とにかく、と二人を中に招いた。

「城には連絡させて頂きますよ」

「獅徇は砂人の言葉は分からないの?」

「無理です。私は自分が砂に埋もれてたわけじゃあありませんし、それに砂人は前のことをほとんどおぼえていないものなんです」

「そうか……これ、こいつの」

 紅珥が差し出した木札を受け取りますます渋面をつくった。

「幼くて見目もいのでかなり高値で買われたのですね」

「どういうこと?買うって、肉や魚みたいに?」

「砂人は保護されたあとりにかけられます。実際に金の受け渡しもあれば、どれかが欲しいと思っている名家が品定めして引き取っていくだけの場合も多い。格式ある伝統一家に家付きしもべとして入ったりもします。いずれにしても働かずにタダ飯はもらえません。どのみちお勤め先は見つけなければならないのです」

 獅徇はよどみなく話す。城の者が自分の耳に入れないようにしているであろうことも赤裸々に明かすから紅珥は好きだった。


 では、と少女を見る。白湯さゆを飲んで少し落ち着いたのか疲れが押し寄せたのか、ぼんやりとしていた。彼女もまた、あれから競りにかけられ妓楼に売られたのだ。

「自分でどこに行きたいか選べないの?」

「運良く希望先に枠があればそれも無きにしもあらずですが、大抵は各家の代表たちが話し合って決めることです」

 紅珥は少女の手を握った。自分でどこにいたいのかも決められないのだ。まるで物のように売り買いされて、挙句の果てに虐待の毎日とは、悲惨すぎて目も当てられない。

「おまえは辛くしたりしないだろ。こいつを置いてあげておくれよ」

「それは私の一存では決められません」

 獅徇は首を振った。今ごろあちらの妓楼では大騒ぎだろう。







 紅珥と少女を泊まらせ、翌日獅徇は城の使者を迎えた。そのひとり、裹頭ずきんの男に驚いて視線を交わらせる。久方ぶりに見た姿は相変わらず謎めいていて、それでいてひどく懐かしい。微笑んで深々と頭を下げた。

「五君がお待ちです」

せがれが世話をかけた」

「なんの。当主に似て義侠心に富んだすばらしい、愛すべき私どもの末子です」


 自分は紅珥の実母の閼氏と同じように彼を息子だと思っている。そう伝えたかった。我が子の養母となった彼女がたまのように慈しんで育ててくれたのと同じく、こちらもまた、血の繋がりの拘泥なく全ての息子たちを愛していると。


 当主はただ頷いただけだったが、意図は通じたようだ。

「済まない。お前には苦労をかけてばかりだ」

「私は恵まれております。こうして暮らしに困らないだけのものを与えて頂いて」

「今回の件でまたねたそねみに晒され、いわれのない悪言に悩まされることになるやもしれん」

 では、と見上げた。

「五君のご意向をお聞き届けに?」

「それはあいつ次第だが、こと砂人これに関して私は強くは出れんのでな」

 言に笑った。

「……私はあの子を産んだことを後悔しておりません。ですが、あなたさまに肩身の狭い思いをして欲しかったわけではありません。ですから力のない私の分も城で粉骨砕身してくださっている閼氏さまには本当に感謝してもしきれないのです。そのことを誇ってくださるのなら、どうぞ胸を張ってください」

 当主はまた頷いた。「あれには正直頭が上がらないが、それはお前にも同じことだ。礼を言う」

 それだけで十分だ、と獅徇は地に伏せた。






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