〈四〉



 とぼとぼと餐庁しょくどうに辿り着くと明かりがついている。入ると母が彼女の友と茶を飲んでおり、こちらの姿に手招いた。頬がれているのを目敏く見つけて顔をしかめる。

「父上にか」

 紅珥はその手を避けようとしたが、半ば強引に引き寄せられ胸に抱かれてしまい息を詰めた。

「……本当に心配したんだぞ。本当に」

 絞るような声に涙腺が緩む。父と違って母はずるい。怒るのも抱き締めるのも心のままにするから。その様子を母の親友が微笑んで見ていた。

「紅珥さまは湯浴ゆあみをしたほうがよろしゅうございますね」

「そうだな。飯を食べる前に髪を洗ってこい」

 わしゃりと頭を撫でられ、少しだけはなすする。

「ひとりで食べるの……?」

「おや、我々がいたほうがいいのか?」

 珍しいこともあるものだ。いつもは無音を好んで独りになりたがるのに、と友と顔を見合わせた。

 やがて不安そうに窺ってくる息子に微笑む。

「では、相伴しょうばんにあずかろう。待っているから、しっかり汚れを落としておいで。傷もあとで薬を塗ってやる」

 安堵して頷き、出ていく小さな背を見送りながら閼氏はしみじみと感慨にふける。友がそんな彼女をにこにこと見やる。

「……なんだよ?」

 いいえ、とさらにふっくりと笑って湯呑みを包む。「母親してるなぁって」

「そうか?」

「あれほど假小子おてんばだったあなたがねえ」

 しみじみと言ったのにそうだな、と笑い返し、一転溜息をこぼした。

「しかし、あいつは怒り方がど下手のようだ」

「当主のこと?」

 閼氏は頷いた。事実、夫は自分以外に感情を表すのが苦手だった。それは実子でも関係ないらしい。さらに嘆息して頬杖をついた。

「なんとかなあ、仲良くなって欲しいんだが……」

「みんなと同じようにはいかなくてよ。なにせ当主と伏君ふせぎみですもの」

 当主とは一族の頂点であり他に並ぶべくもない尊い身分である。ごくふつうの父子のようにしようとしても立場と環境が違いすぎる。

「その点、あなたは昔から変わらないわ」

「喜んでいいのか、それは」

「もちろん。でも、やっぱり少し丸くなったかしら」

 言われて苦笑した。まさか自分が閼氏になって子をすとは、若かりし頃は考えたこともなかったのに。

「私は子供たちが一人でも多く無事に育ってくれればいいと、それだけを願うよ……」

 そう呟いて窓から月の浮かぶ夜空を見上げた。外気との差で少し曇った玻璃が輪郭を滲ませ、おぼろに揺らいだ光はただ静かに卓に影を落とすのみだった。







 体調の波は再び上下を繰り返し、街に下りられないまま新年を過ぎ、歳を一つ増やした。領地の冬はことさら冷える。護耳みみあての紐をなびかせ、外套を掻き合わせて久方ぶりに城下へと続く道を降りていた紅珥は寒気に頬を山楂さんざしのように染めて曇天の空を見上げた。先を行く遊び相手が振り返る。どうした、と手を挙げた。なんでもない、と返しずんずん前を進むあとに小走りで従った。彼は紅珥よりいくらか歳上で街を知り尽くしている。今日は南側に連れて行ってくれるらしい。


 白い砂利を敷き詰めた東門を抜け、二人は道をいちど街の中心の廟堂びょうどうまで辿ると、そこから交差し南北へ延びるほうの大経道おおどおりへと曲がってひたすら南下する。まだ新年の飾りが取り外されておらず、普段の冬は白と灰の街が今はとりどりに色彩豊かで紅珥はしらず顔をほころばせた。露店も賑やかで活気があり、二人で饅頭やら菓子やらを買い食いしながら目的地を目指した。



 ここだ、と指されたのは立派な建物。ひときわ異様な鮮やかさにまじまじと高楼を見上げた。

「なに、ここ」

「まあ入ろうぜ」

 促されて門をくぐった途端、むわりと白粉おしろいと花香油のにおいが鼻をついた。思わず顔を覆う。

「くさいよ」

「お前も去年よりゃだいぶ聞得キコエの調節が出来るようになったろ?別に嫌なもんじゃねえ。これも訓練だ、訓練」

 そう言われて進んでいるうちに、門窗とぐちからわらわらと飛び出してきたのは絹を纏った女たち。こちらを見つけ嬌声を上げた。


「あらあ、いらっしゃい侈犧しぎ

「どうして年越しに来てくれなかったの?一緒にお祝いしたかったのに」


 侈犧を囲み鳥がさえずるようにかまびすしい女たちは後ろで呆然としている小さな姿をみとめて遠慮なくその頬を両手で包んだ。

「まあ、なんてお可愛らしいのかしら」

「あらやだ、白粉をはたいてるのかと思ったよ」

「妓楼ははじめて?」

 たいそう胸の開いた衣装で寒くないのだろうか、と紅珥は首を傾げ、隣に問う。

「なんのお店?」

 そちらはただ口角を上げただけだった。

「私たちとお茶したり遊んだりするところですよ、伏君」

 いたずらめいた顔でそう言う女たちは二人をあっという間にいざない暖かで豪奢な客室へと案内した。

「言っとくがこいつに本気で手を出さんでくれよ」

 注意した侈犧に女たちは笑い出す。

「もちろん、十五おとなになったらお相手してもらいますわ。さあ、ねえやたちと飴湯あめゆを飲みながら六博すごろく遊びでもしましょう。それとも樗蒲かりうちがいいかしら」

 紅珥は座らされるままに室内を見渡し、しかし出て行こうとする友に声をかけた。

「一緒に遊ばないの?」

 背の高い彼もまた、女たちと同じくいたずらめき指を口に当てて屈む。「こっちの姐やと内緒話があるからな。終わったらまた来るぜ」

 ふうん、と呟いて見送り、次いで隣に座った浅黒い肌の女を見上げた。

「侈犧はあのひとが好きなのかな?」

 どうでしょうねえ、と女は卓の上に遊具の板を置きながら笑った。さらに別の女へ問う。

「ここには、女の子だけ?」

 そちらは煙を吐き出して頷いた。「妓楼ってのはそうなんですよ。お客さんにお金を出してもらってあたしらはおまんまが食べられるんです」

「ふうん。……ねえ、それわせて」

「伏君にはまだ早い」

 濃紺の瞳を細めてにやつきつつすっぱり断られ紅珥はむくれる。それでふと、まわりの女たちをひとりひとり見た。自分のように黒髪黒眼ももちろんいるが、不思議な色をした者が多い。


「おまえたちは砂人さじんなの?」


 たずねると皆、ええと答える。「砂人は伝統の一家を持ちませんから、たいした後ろ盾がない。暮らしに困って妓女になる者が多いんですよ」

「こうしていると宝石箱に入ったみたいだ」

 本心から言えばいきなり抱きつかれた。

「可愛いですわぁ。飼いたいですわぁ」

「およし。匂いを移すんじゃないよ」

「大丈夫だ。れてきた」

 護耳を解いた。女たちは絶えず口を動かしていて、城の静けさとは大違いに飛び交う言葉があっちにいったりこっちに投げられたりしてめまぐるしい。それでも終始明るく和やかで居心地が良かった。



 ひとしきり遊び、少し眠った。妓女らも新年を迎えての連日の宴で疲れていたのか、小さな客人が身を横たえると倣うように微睡まどろみだす。今日は侈犧が一日紅珥のことを借りていて、借りられた自分は少なくとも日没を過ぎて帰城しても怒られはしない。それに安堵してうとうととし、女の温かい膝の上で目を覚ました。


 寝過ぎたかとあたりを見回したが漏刻とけいの水はそれほど落ちていなかった。まわりはまだ眠っていたので彼女たちの香りでちたなかを音を立てないようそっと抜け出す。外の冬の寒気が甘い匂いに麻痺した鼻を澄ませてくれる。


 高楼の裏は張り出した露台になっていた。欄干に手を滑らせながら、冬風が通り抜け五色の旗が緩やかにはためいている見晴らしの良い街々を眺める。残雪と相まって非常に優美な景色に見とれていたところ、ふいに気配を感じて柵の外に顔を出した。


 見下ろした店裏の雑多な物置の一角で、誰かがうずくまっている。家童ざつようか、しばらくその少女を凝視していれば泣いているようで、時おり肩が上下しているのが分かった。


 気まぐれに忍び足で階下に降りた。女たちはまだ抜け出したことに気がついていないようだし、侈犧も帰ってこない。少しくらい散歩してきてもいいだろう。


 一階は人が多いようだった。喧騒に紛れ、店の主人が客の相手にてんてこまいなのを後目しりめに裏口へと歩を進める。物干し竿に洗濯物が風でなびくなかを泳ぎ、紅珥は先ほどの少女がまだそこにいるのを確認した。どうしたいのか自分でも分からないまま近づく。城内のときの癖で足音を立てないように歩いたが、それでも気取られたようで少女ははっと硬直しておそるおそる顔を上げた。


 熟した麦穂のような明るい髪が涙で濡れた頬に張りついている。怯えて揺れるのは青葉色の双玉。紅珥は既視感に目をみはった。去年、自分が拾ったものも、同じ色をしていたから。


「おまえ、あの時の?」


 囁いたのに少女はびくりと体を跳ねさせる。火傷やけどはすっかり治って小さな顔は真っ白で美しく愛らしかった。しかし、それはいま恐怖に歪んでいる。紅珥は距離を置いて子猫に対するごとくゆっくりと地に膝をつけた。


「何もしない。言ってることがわかる?」

 少女は瞬いて小首を傾げた。まだ言葉が通じないようだ。そのまま腰を下ろした。

「えっと……」

 枝きれで自分の名を地面に書いてみせ、己を指差す。少女は文字と彼を見比べた。紅珥の言葉を真似するように細い声が漏れた。


「お前の名は?」

「――――」


 言った語彙の意味は測りかねたが、彼女は名乗ったのではなく何かを訴えたのだとは分かった。もどかしげに瞳を潤ませる。首に紐で掛けた木札を外して見せ、紅珥は受け取りためつすがめつした。どうやらここでの身分証のようなものらしかった。少女はそれを押し付けて首を振ったが、紅珥はそれよりも手のほうを見咎めて思わず掴む。

「……どうした、これ」

 小さな手は青痣だらけだった。つねられたのか甲には点々と染みが広がっている。さらに上腕には目立たないところに所々水ぶくれが出来ており、まだ生々しく新しかった。よく見ると片頬が赤く腫れている。彼女は折檻を受けた直後のようだ。

「楼主にか?」

 少女はしゃくりあげ、すすり泣く。紅珥はふつふつと猛烈に煮えたくってくる腹をなだめながら、痛々しい手を力を込めないようそっと握った。非道ひどいことをするなと言ったのに。


 突然、店で怒号が聞こえた。少女は震えてすがりついてくる。楼主が彼女を探す声だった。



「――――来て」



 意を決して細腕を引いた。誘われるままに素直に従った少女に微笑み、走り出した。






 階上の窓から一部始終を眺めていた侈犧は溜息とともに煙を吐き出す。

「あーあ。まったく、怒られるのは俺なんだぞ」

 どうしたの、と裸でしなだれかかった女になんでもない、と笑い、遠ざかる小さな二つの背に目をすがめる。呆れつつも、なよなよしいくせに侠気おとこぎはあるじゃないか、と少し紅珥を見直した。




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