〈三〉



 いくらも経たないうちに誰かを呼びに走ったほうが良かったかもしれない、と少しく後悔した。大人おとなたちのほうが早く助けることが出来ただろう。しかしどうしようもなくこの子どもを独りにするのが怖かった。母にも丞必にもよく、砂丘の奥へは決して行くなと口を酸っぱくして教えられていたからだ。砂は全てを飲み込む力を持っている。それは獣でも人でも関係ないのだと。御岳みたけから地下を流れ来る水は時おり砂の姿をしていて、そこへ迷いこんだ者は抜け出せることなく砂の下に沈んでいくのだ。この子を置いていけば、もしかしたら砂に奪われてしまうかもしれないとなんとなくそう思ったのだった。


 もうあたりはすっかり暗くなって肌寒いのに、ひとりだけとても暑い。背負ったものがまるで火のように熱を発散させていたからだ。膝が笑い始めてようやく西の大門が見えた。箭楼やぐらの上にあんなに明かりが灯っているのは珍しい。西から敵に攻められることはないから、この時間になると西門は不寝番だけを残してひっそりと静まり返るもので、しかしそれが今、どこか騒然としていてさらに門の外には数人の兵卒が松明たいまつを焚こうと準備していた。



 箭楼に詰めていた彼らは近づいてくる小さな影にいち早く気がついて声を上げる。城から緊急の要請で幼君を探せとのお達しで、たった今捜索隊を組んだところだったのだ。紅珥が西門を出たのを知っていた門卒から話を聴き、もしかしたら砂丘に迷い込んだのではないかと城では大騒ぎになっていた。


「いたぞ!鐘を鳴らせ」


 西に広がる街と南東にそびえる城はかなり距離がある。それで街の鐘楼しょうろうを駆使して早馬や鳥よりも短時間に情報を音で伝えた。西門から叩いた太鼓の音で街の大鐘楼が決められた数けたたましく打ちつかれた。



伏君ふせぎみ!」



 数人の兵たちは辟邪やくよけの女児の装いをした当主の御子みこに駆け寄る。そして彼の背負っているものをみとめ怪訝に足を止めた。

「これは……いったい……」

「お願い、こいつを助けてやって」

 美童に必死の形相で叫ばれて兵たちはさらに混乱した。

「早くしないと死んじゃう!助けて!」

 請われたうちのひとりが息を飲む。

「――砂人だ」

 その言葉はあっという間に広がった。


「砂人だ!砂人が出たぞ――――‼」


 騒ぎ出してともかくも貴人から砂まみれの塊をもらい受け、意識のない体を持ってきた板に横たえる。

 重みと熱さから解放された紅珥はほっとして改めて子どもに寄り添う。掖門を共に入ったが兵たちに止められた。

「砂人は今から手当てを受けさせます。伏君はどうぞ城にお戻りを」

「でも、ぼくが見つけた」

「大事ございません。どうかお帰りを。私共が叱られてしまいます」

 でも、となおも後ろ髪引かれる思いで板を見やった。「心配なんだ。非道ひどいことしないよね?」

 兵たちは顔を見合わせる。その中のひとりが柔らかな笑みをたたえてひざまずき目線を合わせた。

「生きて流れ着いた砂人は助けるようにとの当主からの厳命は街の者すべてに周知されております。しかし、気がかりであるならば直々にどうぞご下命くださいませ。我らが伏君の名のもとにこの者を守護いたします」

 うん、と紅珥は自信なさげに頷いた。

「守ってあげてほしい。火傷やけどをしているようだからよく冷やして。薬師いしゃに早く診せてやって」

 丞必にしか願い事をしたことのない自分はそう言うのが精一杯だったが、彼らはそれだけで頭を垂れた。


 その兵卒らの後ろ、大緯道おおどおりの向こうから馬影が猛烈な勢いで近づいてくるのが見えた。砂塵を逆巻いて駆けてきて、鞍座から身軽に飛び下りた人物は短槍を担ぎなおす。姿に紅珥はちぢこまった。明らかに怒った顔をしている。

「ご苦労」

 そう兵を労ったが、こちらには厳しい目を向けた。大の字に立ち腰に手を当てて見下ろす。息を吸い込む音がして彼は備える。


「――――この大馬鹿者っ‼」


 夜空をつんざく怒声が響き、紅珥は目を細めた。襟首を掴まれ顔を上げさせられる。

「いつも日没までには戻るよう、耳に胼胝たこができるくらい言ってるよな?なぜ守らない!」

 紅珥は鬼の形相に恐怖するより気圧けおされてぽかんと口を開いた。

「でも、母上」

「でもじゃない!」

 一喝されて閉じる。

「しかもまた勝手に城を抜け出して、丞必がどれだけ心配していたか分かっているのか!いいか、お前にもしものことがあればあれの首が飛ぶんだ。そのことを肝に銘じろ、れ者が」

 もと軍兵の母の叱責には遠慮がない。紅珥は俯いて謝罪の言葉を口にした。

「……ごめんなさい、閼氏えんし

「今すぐ帰って当主にもお叱りしてもらうぞ」

 腕を引っ張られ、馬に乗せられる。閼氏は後ろに跨り手綱たづなを取った。集まった野次馬を見渡し、再び兵卒に向き直る。

「生きた砂人が現れたと。こいつのことを別として私からも保護を願う」

 兵たちは軍礼れいをした。それに頷き、馬は来た道をまっすぐに駆け戻りはじめる。







 疾風の勢いで城に連れ戻された紅珥は身を清めることも許されないまま当主の御前に立つ。周りには重臣が集っており、その中で傅役ふやくがみるからに安堵した顔をしている。


 じゃりつく服の裾を握りながら前へ進み出た。

「……申し訳ございません、父上」

「皆の心配をよそにいい身分だな。陽が落ちるのも分からなんだか」

 いえ、と弁解しようとした声は続かずそのまま霧散し、ただ頭を垂れた。当主は閼氏とは違い、いつも二言三言静かに苦言を呈して終わる。今回もそうだと思っていた紅珥だったが、いきなり張り手を食らって受け身もとれずに吹き飛んだ。


 当主、と重臣がいさめる声がする。何が起きたか分からず、倒れ込んだまま明滅する視界をなんとか元に戻そうとまばたいた。遅れてやってきた痛みとともに、じん、と口の中が熱くなり血の味がした。


「お前はもう少し自分の立場をわきまえたほうが良い」

 感情のないくぐもった声が場に響く。

「お前は当主の子、次代を担う貴重な人材。いずれ皆の上に立つならば、お前の一挙一投足でひきいる万の兵が生き延び、または死ぬ。そのことがまだ理解できないか」


 こんなときばかり、と不味い唾を舌の上で転がして胸が悪くなった。父はたまに言葉を交わせばいつも自分の立場を突きつけてくる。一族の首長の息子、後先考えない行動はせず、発言には責任を持ち、皆を牽引する力をつけよ。母の注意よりよほど聞き飽きた。


 実のところ、紅珥は父親の顔を見たことがない。表情の分からない布に覆われた面でただ黒い双眸だけが冴え冴えと自分を見下ろしていた。彼にとっては、自分は息子である前に後継者のひとり。むしろそうとしか見られていないとはすでに了解している。

 紅珥はよろよろとその場に膝をつき、額を床に当てた。


「……申し訳、ございませんでした」

「当分、聞得キコエの訓練以外は外出を禁ずる。街へ下りるのも許さぬ。左賢さけんも良いな?」

 はい、と丞必が従順にいらうのが聞こえてさらに苦いものが広がる。では、あの砂人がどうなったか見に行けない。

 内心を読んだのか、当主は去り際に冷たく言い放つ。

「守るべき掟を破って自由など得られはせぬ。そのことが骨身にみる良い機会だろう。母や傅役の心を痛めつけたことをもう一度よく考えるがいい」


 当主の言には心の中でいつもわだかまりが残る。常に閼氏を優先しているからだ。紅珥は態度や接せられ方で己への愛情の薄さを悟っていたし、それは彼の幼い心を少なからず傷つけていた。父は母が悲しむから怒っているのであって、自分を本心から想ってくれているわけではないのだ。そう考えてしまうと心がめた。




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