〈二〉



 夏の暑さがようやく少し薄らいだ頃に紅珥も徐々に調子を取り戻していった。炎とふざけ合い、友とも遊べるようになり、日課の読書もむさぼるようにのめり込んだ。霧中での訓練も以前にも増して努力していた。



 どたどたと荒い足音がして丞必は眉を寄せる。城内では無音歩行が原則なのに。

 現れたのは紅珥の遊び相手の少年だ。

「なあ、あいつは?」

「侈犧。もっと静かに走りなさい。紅珥さまなら自房じしつにおられる」

「いねぇからいてんじゃん」

 続いて頭を出したもう一人は明るい茶色の髪の子どもで、愛らしい笑顔を浮かべ首を傾げた。

厩舎うまやにいるのかなぁ」

「もっとよくお探しなさい。それとあなたたち、当主の御前ですよ」

「……良い、好きにさせておけ」

 目線を向けないまま筆を動かす当主はそっけなく言ったが口調は穏やかだった。

 失礼しましたあ、と威勢よく言って駆け出て行く子らを見送り、一縷の不安にかられる。

「いちおう、見てきます」


 言いおき紅珥の房室へやに向かった丞必は走廊ろうかに佇む二つの影をみとめた。向こうも気がつく。


「丞必。あの子は?」

「やはりいませんか?」

 焦って室内を見たがもぬけの殻だ。

「久しぶりに一緒にお茶をしようと思ったのに」

 残念がる閼氏に茶器を持たされた高竺も苦笑する。

「俺も挨拶しようと思ったんですがね。いつもすれ違う」

 はは、と閼氏は笑ってその背を叩く。

「振られてるなあ、お前」

「そう言わんでくださいよ」

「丞必もどうだ、少し」

 誘われて、いえ、と不安げに見返す。

「紅珥さまをお探し申し上げます。それに当主の執務もまだ残っておりますので」

「ちゃんと息抜きしないと。あいつもたまには一人にさせてやろう。こっちの有難ありがたみを分からせてやる」

 いたずらめいて笑うのに、でも、とさらに逡巡する。そんな丞必に閼氏はなおも肩に手を置いた。

「いいんだ。お前には苦労させているからな。感謝しているぞ。ちゃんと休め。まあここでまったりしていればあの子もそのうち帰ってくるだろう」

「閼氏……」

 彼女は何事にもふところが深い。連れ立って紅珥の房室に入ろうとして走廊の先に目をとめた。

「おや珍しい。さぼりか」

 視線を追って臣下二人は驚く。真面目な当主が昼日中に政務を放り出すとは。


 裹頭ずきんを被ったままの当主はまあな、と適当に答えて閼氏と共に室内に入った。乱雑に散らかった書物で足の踏み場もないほどだ。見回してひとつを手に取る。

「あれはもうこんな難しいものが読めるのか」

「はい、お読みになっておられます」

 閼氏が横から覗いて、うへえ、と声を出した。

「あれは確かにお前の子だな。私は文字を見るだけで頭痛がする」

「言っておくが城を勝手に抜け出す奔放さはお前譲りだ」

 やはり、と丞必は肩を落とした。紅珥の悪い癖は調子が戻るとすぐに忍んで城下に出てしまうことなのだ。

「どうしましょう。おひとりでもし何かあったら」

「街に下りるのはいいことだぞ。まあ、日没まで帰らなかったら仕置きだ。迎えに行こう」

 そう言った妻を夫は鼻で笑った。「強がりおって。一番心配なくせに」

 なんだと、と閼氏がむくれたところで、高竺がいさめにかかる。

「まあまあ。なにかあれば俺が走りますので。ともあれ暑いですし、ひとまずお茶にしませんか」





 広大な街を横に分断する大緯道おおどおりをひたすらまっすぐ歩き、ひるをだいぶん過ぎた頃に紅珥はようやく西の大門まで辿り着いた。城から馬を拝借して乗ろうかとも思ったがばれたら叱責されるだろうから、こっそりと抜け出してきたのだ。


 掖門えきもんから郭壁かくへきの外に出ると小さな黄色い実をたくさんつけた林があり、植わっているところはもう既に砂地だ。緩やかに吹く風に火照ほてった頬をさらし、ふう、と一息ついて眼前に迫る茫漠ぼうばくとした砂丘を眺める。天は澄みきった空の青、地は眩しく光る混ぜもののない白。まるでこの世にこの二色しかないみたいだった。壁沿いに少し南下して木々の隙間にもぐり込む。冬に見つけたお気に入りの場所だった。砂風も林に阻まれて来ないし、頭上を葉で覆われた日陰の冷たい砂土は心地いい。紅珥は靴を脱ぎ捨ててそのなか、木の根元に体をあずけた。裳裙もすそが動きにくかったのでももまでまくり揚げ、久しぶりに来られた喜びでしばらく砂を蹴って遊んだ。飽きて読みものを取り出そうとし、ふと、なにかの気配を感じて動きを止めた。


 あたりを見回す。自分の他に誰かいるようだ。さっきの独り遊びを見られてしまったかしら、と恥じ入りながら腰を上げ、林を奥へ進む。砂丘により近いほうは低木と地面のあいだが狭い。腰を屈めながら枝の垂れ下がる砂地を覗いた。


 陽の射したそこには誰もいない。気のせいだったか――と、戻ろうとした時、視界の隅で微かに、何かが動いた。


 警戒して硬直する。砂にまみれて、そう、白い地面に埋もれていたのだ。紅珥が息を詰めて見ているとそれはもう一度、ほんの少しだけ動いた。


 驚きで思わずこうべを上げてしまい、したたかに枝にぶつける。おそるおそる後退あとじさり、腰の小刀を手に取った。なにかの獣か、もしかしたらあなぐまかも。こんなところにいるのかは分からないけれど。


 そう思って再び動くのを待ったが、今度はぴくりともしない。痺れを切らして一歩ずつ近づいた。己の鼓動の音が早鐘のように鳴る。生唾を飲み込んでその塊のすぐ近くに立ち、試しに小枝でつついてみる。反応はない。

 不可思議さに凝視し、動かないことに安堵してひとまず心の余裕ができた。さらに大胆にてのひらで砂を払う。布のような手触りにともかくも獣のたぐいではないことが分かって息をついたが、これは、なんだろう。首を傾げてさらに塊に接続した棒のようなものを辿り、その先が五本に分かれているのを見てとって、ついに悟って今度は青褪あおざめた。


 人だ。うつ伏せになっている。慌てて地面から引き剥がした。灼熱の砂をいて現れた顔にさらに驚く。固く目を閉じているそれは小さな子どもだった。皮膚が真っ赤だ。砂と泥だらけで生きているのかよく分からない。ともかくもその子を引き摺って、先ほどまでくつろいでいた林になんとか戻ってきた。


 肩で息をして、砂まみれになった腕で額に浮いた汗を拭う。

 奇妙な、とても不思議な子どもだった。埃だらけで容姿はなんだかよく判然としない。ひだを縫いつけた見たことのない服を着ていた。端々は焼け焦げたように黒ずんで朽ちており、剥き出しのすねと腕は痛々しく傷ついている。紅珥は半ば願うようにその胸に耳を当てた。とく、と音が聞こえ、腰の革袋に手を伸ばす。――――生きている。


「ねえ、大丈夫?」

 頬を叩きながら飲み口をあてがう。砂を払ってやって水を少し流し込めば、たしかにこくりと喉が動いた。ひび割れた唇がほんの少しだけ息を吐く。


 紅珥は今さらながら、以前丞必が話してくれたことを思い返していた。


砂人さじん……」


 たぶんそうだ。さらにゆっくりと水を流し込み、顔を拭ってやると睫毛が震えた。虚ろに開いた薄目が意識の明瞭を待って宙を見る。

「平気?ぼくがわかる?」

 紅珥はつぶらな翡翠ひすいの瞳を覗き込んだ。時間をかけて焦点が顔前の黒眼と合う。唇を震わせて何事かを呟いたが、紅珥にはなんと言ったのか分からなかった。

「もっと飲む?」

 といっても残りはあと半分くらいだ。少し頭を起こそうとしたので、小さな背を支えてやる。木の葉のような手の、鳥のあし見紛みまがう細さの指が砂を掻いたが腕を持ち上げる力はないようだった。


 水を全て飲みきる前に嚥下えんげが止まったので、もう要らないのだと了解して残りのひと口を飲み干すと袋を枝に引っ掛けた。今は邪魔だ。また明日にでも取りに来よう。


 子どもは立てそうになかったから林を抜けるまで引っ張るしかない。紅珥はいちおう謝りながら再びその子を仰向けで引き摺った。

「ごめん。沙棘さじの木はとげがあるんだ。おまえを背負うと刺さるからね。我慢して」

 子どもは小さいといっても紅珥もそう大して体格は変わらない。大層苦労して轍道わだちみちに上がった頃には黄金色の稜線に陽が燃え落ちようとしていた。


 子どもを背負う。引っ張るより断然軽く感じた。意識は再びくなってしまったが、体越しにとくとくと感じる鼓動は先ほどよりも元気な気がした。


 南の谷には名家の土楼いえが連なる。しかしそこまで行くにはずっと坂で、この子を抱えて登りきる自信がなかった。誰かが通るのを待っていても埒があかないから、とにかく街に戻る決断をして西門へと歩きはじめた。





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