〈一〉



 丞必はといえば、花の香りを移した茶を抱えて城の奥へ進む。城内は外と比べてひんやりと涼しいが、それでもあまり風通しが良くないので締め切ると熱気がこもった。開け放した隔扇いりぐちの前まで来て声を掛け、綵幕あやぎぬをくぐりさらに進んだ。


 広い牀榻しんだいからは乱れた寝具がだらしなく垂れ下がり、そこかしこに竹簡や帛書はくしょが散らばっている。が、肝心の人物の姿はない。卓の上に茶器を置き、隣に接した小房こべや帷帳とばりをめくった。


 隣は石壁の窓に面しており、申し訳程度に風が入り込んでいる。そのすぐ下、睡衣ねまきうずくまる影をみとめ、静かに近づいた。


紅珥くじさま」


 呼びかけた主はまだ九つにも満たない子どもであり、傍に寄っても固く閉じた目を開かない。両耳を覆う布地には緻密な刺繍と硝子玉が縫い止められ、顎下で結ばれている。耳の部分は綿を特に厚く詰め、外部の音を遮断できるようになっていた。


 形の良い鼻を微かにひくつかせた幼君はようやく長い睫毛に縁取られた瞼を糸の細さほどに開く。


「……暑い」


 呟きに丞必はことわり、きつく締められたその護耳みみあてを取ってやった。

「冷茶をお持ちしましたよ。立てますか」


 紅珥は両膝に顔を埋めた。座ると床につくほどのつややかな漆黒の髪が流れ落ちる。主は機嫌の悪い時にはぐずらない替わりに、無言になるか攻撃的になるかのどちらかで、不機嫌とはつまり不調な時だった。今日は当たり散らさず無言の日だ。こんな日は感情を爆発させる気力もないほど弱っている。


 首筋に手を当てると火照ほてって汗がにじんでいた。髪をすくってひとつに括ってやり、肩を揺するとすがりついてくる。痩せぎすの軽い体を易々と抱え、隣房に戻って長靠椅ながいすに降ろし、茶を差し出した。

 青白い肌は生気がなく頬はげている。このところ暑くなってなけなしの食欲がさらに失せ、紅珥はもうひと月ほども城から出られない日々が続いていた。



 原因はその特異な体質にある。一族に伝わる、五感が鋭敏で六感にも優れた能力。これを常には聞得キコエと呼んだ。その才能ある者たちを列国へもぐり込ませ間諜かんちょうとして使うことにより、一族は勢力を拡大してきた。

 聞得は血の継承により子々孫々に伝えられる。一族の長たる当主は並外れて聞得の能高い一家から選ばれ、その力を維持するために、やはり同じような一家の者と婚姻する。紅珥もそうして生まれた次期当主候補のひとりだ。しかし、そのせいで生命の危険に冒され、こうしていまにも消えそうになっている。


 当主である父も閼氏えんしである母も聞得の才に恵まれたほまれある優れた者たち、紅珥の誕生により一族の力はより磐石なものとなった。しかし予想以上にその異能の血を色濃く受け継いだ。耳も鼻も舌も過敏でささいな物音やにおいに気を害し、味の濃いもの、食感の悪いものを食べたがらない。よくそれらにあてられて熱を出し、本人自身も何日も静謐な暗闇で過ごすことを好んだ。


 もちろん閼氏も丞必も様々に手を尽くした。聞得の能力を生かすには自分で制御出来るようになるしかない。常に多くの音を拾い、微かな臭気を嗅ぐのは紅珥の中で上手く調節が整っていないからだ。これには訓練を要する。大抵の聞得は物心つくまでにある程度は自力でそれを習得するが、紅珥はいまだ半分も掴みきれていない。



 ところで、一族の領地、族領ぞくりょうは東南北の周囲を毒霧で囲まれた険阻な山岳地帯にある。唯一西にだけ山は開けており、領地を越えた向こうは広大な砂丘が無窮に広がっていた。さらにその遠くには蜃楼まぼろしのように空に浮かぶ巨大な雪山が佇んでおり、それは彼らの信仰の対象であった。


 聞得の能力を持つ者は只人とは異なる。大きく違うのは年中山間を漂う毒霧の影響を身体に受けないということだった。ために聞得ではない民は西側、霧の晴れている高い郭壁かくへきに囲われた街とその周囲の谷で暮らした。



 話を戻すと、聞得とは生得しょうとくのものであり、それを統制するには霧のなかでの鍛錬を要する。毒霧は音を反射させ、大気をこごらせるので訓練には都合がいいものなのだ。紅珥は生まれた時から霧に触れていたから、自らの力を抑え込むのにこんなに時がかかるとは己も他の誰も思っていなかった。それほどに潜在する能力は異常なまでに高く、そして人としての生活に支障を来たすほどなのだった。


 これでは世話をするほうも入念に気を配らざるを得ない。不興を買って世話役はもう五人も辞めていた。結局、幼君の生まれた時から傍で見てきた丞必が傅役ふやくに抜擢され、紅珥にも気に入られて事無きを得ていたのだが流石にひとりでは骨が折れる。今日のようにいつもおとなしければまだ御しようがあるのだが。


 そう内心嘆息して額の汗を拭いてやっていると、ようよう覚醒してきたのか、主は熱でうるんだ瞳でしもべを見上げた。

高竺こうとくが戻ったの?」

 そういえば先刻ぶつかった、と丞必は頷いた。

「申し訳ございません。血のにおいがしますか」

「……平気。おまえの香りでほとんどわからないから」

 あとこれで、と危なげに硝子のわんを持ち上げる。

美味おいしい」

 丞必は微笑んだ。普段は鷹揚でよく笑う素直な御子みこだ。憐れに思った。母親に似た美貌の主は儚げでいまにも壊れてしまいそうで、小さな額から手を離した。

えんは?」

「高竺に相手をしてもらっていますよ」

 そう、と呟いた声はほんの少し羨望の色を滲ませていた。

「今日は侈犧しぎ徼火きょうかは来ないのかな?」

 二人は紅珥の歳上の遊び相手だ。時おり泥だらけのまま上がり込んで勝手をしていく小鬼たちで、丞必は片付けが大変なので御免こうむりたいが、紅珥の良き友たちといえた。

「あれらも訓練で忙しいようですね。特に侈犧は」

「そうなんだ……ぼくも外に出たいなあ……」

 長靠椅に寝そべった紅珥に問う。

「今日はどうされますか。また書庫からなにか見繕って来ましょうか」

「それもいいけど、今日は居て。なにか話して」


 近頃、紅珥は族領の外に興味津々なのだ。丞必も紅珥が生まれるまで頻繁に霧向こうの諸国に任務で行っていたから珍しい話には事欠かないが、さて今日は何を話そう。


 少し考えてさきほど主が口にした徼火のことに思い至った。

「では今日は砂人さじんについてお話しましょう」

「徼火の先祖のこと?」

「ご存知でした?」

「よくは知らない。あいつ、そのことなにもしゃべらないし」

 いじけたように言ったのに苦笑して頭を撫でた。

「これは次の当主になるかもしれない紅珥さまには知っておいて頂きたいお話です」

「当主には義兄あにさまたちの誰かがなるでしょう?ぼくは本当は城よりも街に住みたいんだ。うるさいけど楽しい」

「そう、砂人も大抵街で暮らします。獅徇ししゅんさまも砂人の血を受け継ぐ方ですよ」


 獅徇は紅珥の一番下の義兄の母親だ。街に住んでいて、閼氏と仲が良く何度か連れられて顔を見せたことがある。


「ああ…だから瞳が青いの?」


 紅珥は初めて思い至ったように宙を見据えた。

「そうでございますね。砂人は珍しい目や肌の色をしています」

「徼火の髪と瞳もくすんだ柘榴石ざくろいしみたいな色だよ」

 丞必は頷いた。

「砂人は昔から我々の領地で共に暮らしてきました」

「彼らはどこから来るの?どうしてぼくたちとは色が違うの?」

「西の砂丘からやってきます。何十年、何百年かに一度、突然現れるのです」

 紅珥は初めて聞いた話に目を丸くした。あの広大な砂の山から?

「あの向こうには何も無いと聞くけれど」

「ええ。行けども行けども砂の。旅に出た酔狂な者で帰って来た者はおりません。鳥と獣の行き来はともかくも、ただあるのは虚空に浮かぶ我々の御岳みたけのみ。しかし、どうしてか砂人はある日いきなり街の郭壁の外に流れ着くのです」

 へええ、と紅珥は興味深げに拳を握った。久しぶりに生気の灯った瞳が輝く。

「しかし、一族の中では砂人の立場というものはあまり良いものではありません。彼らは不吉とされています」

「どうして?」

「砂人が流れ着いた年には原因不明の病が流行はやると言われます。毎回というわけではありませんが、史実と見比べると否定は出来ません。それで先祖は砂人を忌み嫌いました。しかし、彼らは他の不治の病について、まだ我々が知らなかった薬の作り方や治療の仕方を知っていたり、鉄を強く練る為の方法を伝授してくれたりと、そういう益もありましたので、流れ着くのは一概に凶事というわけでもないのです」

「彼らは今までどこにいたんだろう。何をしていたんだろう」

 問いには首を振った。

「砂人はこちらで目覚めると、以前の記憶をほとんど失ってしまうのです。最初は謎の言葉を話して意思疎通もままならないとか」

「違う寰宇せかいの人たちってこと?」

 ふふ、と丞必は笑った。「紅珥さまは面白いことをお考えになる」

「だって、そうじゃない?」

「かもしれませんね。ということで、我ら一族と砂人はこの土地でずっと暮らしてきましたが、今までのことで彼らを毛嫌いする者も多いのです」

 つまるところ砂人の身分が低いのは一族の差別でしかないことを丞必も分かっている。

「ですから当主は獅徇さまが砂人の血を引く方だったために、それをおもんぱかり砂人の子孫でも聞得であれば兵になれるようにして下さったのです」

「そうなんだ……だから徼火も皆と訓練していいんだね」

「左様です」

「砂人を見つけたらどうすればいいの?」

「見つけることなど一生のうち一度あるかないかですが、ともかく同じ人であることは間違いございませんから、干からびそうであればお水をあげてくださいね」

 丞必はまるで花卉かきを育てるときのように言った。





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