第27話 泥

 どれくらい経ったのだろう。数分、いや、数十秒だったのかもしれない。雨音だけが耳に届いてくる。

 咄嗟に、柔道の受け身を取るように転がったのか、男の子を抱えるようにして身を丸めていた。

 腕の中へと視線を向けると、男の子が僕の体にピッタリと身を寄せ、顔を埋めている。

 でも、怪我はなさそうだ。


 美和は……ゴリさんは……。

 男の子を抱えたまま立ち上がり、走った。



 階段の前で僕は立ち尽くしていた。


 屋上と2階の中間辺りに2人の姿がある。

 ゴリさんが片足を校舎の壁に押し当て、両手で手すりにしがみついている。茫然としたたまま丸くなっている美和を、まるでネットのようになって、転げ落ちるのを支えている。


 声をかけると、むりやりにでも笑顔を作って返してくれた。そして、


「あの……そろそろどいてもらっていいかな。この体制けっこう辛いんだよね」


 その声に、美和はやっと我に返ったのか、ごめんなさい、を繰り返しながら、体勢を立て直した。

 ゴリさんも起き上がると、問題なしとばかりに、力強く親指を突き上げた。






 僕らは屋上へと上がっていた。


「なんもかんも、泥の中か」


 ゴリさんの視線の先を追うと、校庭から車が消えている。いくつかはひっくり返り、泥の上に転がされたようになっている。

 視線を横へと移すと体育館の下半分も泥で埋まっている。

 脳裏に夢の映像が浮かんでくる。ヘリに乗ったアナウンサーが、何十人もの人が生き埋めになっていると、プロペラ音にも負けない声で叫んでいた。


 今、目に映るこの泥の中にもしかしたら僕らも、みんなも……。

 深い深い息がもれ、僕は目を閉じた。


 突然、泣き声が耳に――ゴリさんの胸にしがみついていた男の子が、思いだしたかのように泣きだしている。声を張り上げ、泣き叫んでいる。その姿に、ゴリさんが大声をあげて笑いだした。


「見ろ。元気だな」僕らのほうを見て、「みんな生きてる。それだけでバン、バンザイじゃねえか」


 まるで、赤ちゃんを、高い高い、するように男の子を持ちあげている。

 笑顔のゴリさんと元気に泣く男の子。微笑んでいる美和。なんだか胸が温かくなる。

 みんな助かった。みんな――次々と込み上げてくるものがある。


「なに、泣いてんの」


 そう言って笑う美和の顔も、雨ではない温かいもので濡れている。

 雨の向こうでいくつものサイレンが鳴り響き、ゴリさんの携帯電話も鳴りだしている。





  ☆  ☆   ☆


 マンションの外も中もまだ暗い。ベッドの傍らにあるスマホを手にとり、時間を確認すると、4時38分と表示されている。

 未曾有の大災害――数ヵ月後のアナウンサーはそう口にしていた。

 未来からのSOS。そのとてつもない大きなものに、体の震えが止まらない。


 自分に何ができる。何が。

 ひとりの顔が浮かんでくる。そして、あの顔も、この顔も。


 力を貸してくれ――僕はスマホを耳に当てた。

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未来からのSOS ゆらゆらゆらり @616256

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