第14話 約束
そこは魔性の森。
人の手が一度たりともはいったことのない──いと暗き深淵。
それは、普通の森とは、まったく違う。人を忌避し、排斥し、拒絶するような雰囲気をもっている。そう感じるのは、人が自然をはずれてしまった生き物だからかもしれない。
だからこそ、人は、ここまで恐怖するのだろう。
それは、この森に、魔獣がいるからという理由だけではなく、人としての本能が、自分とは異なるものだと訴えているのだ。
魔界に最も近き深淵──シュラトーの森。
オーフィスとソフィアは、ここで刺客──列空を迎えうっていた。
離宮の裏庭から少し森にはいったところだ。それだけで緑の匂いが増し、空気が重く感じた。離宮にほど近い、森の入り口周囲までなら、まだなんとか魔獣に襲われずにすむギリギリのラインだ。それは、魔獣の王たるデュランの匂いが離宮を中心に広がっているからである。
オーフィスとソフィアは敵を罠があるところまで誘い込もうとしていた。
彼女たちの後ろからは、澄んだ鞘鳴りとともに、不可視の斬撃が襲いかかってきた。
それを、振り返ることなく、なかば戦士として勘のみで躱していく。
すぐ横の大木が、あまりに鋭い切れ味に、音もなく寸断されていく。轟音とともに大木が倒れた。土煙が舞い、一瞬視界が隠れる。
そのことに、嫌な汗を流しつつ、オーフィスは舌を鳴らした。
正直、少し侮っていた。ソフィアから列空の能力を聞き、最強の暗殺者のひとりとだということも知っていた。だが、全方位死角なしの心眼使いであり、圧倒的な間合いと威力を秘める真空刃使い。これがここまで厄介なものだとは思わなかった。どこから攻撃しようとも、防がれ、どれだけ気配を殺そうとも気づかれる。しかもあの真空刃のせいで間合いにはいることすらできない。それなのに、あちらは攻撃し放題だ。
ソフィアの言うとおり罠を仕掛けて正解だった。正攻法で倒すには難敵すぎる。
「ソフィア。まだか?」
「あと少しで着くよ」
ソフィアはこんな状況でも、その顔から笑みをけすこともなく、地を駆けていた。木の根も張りめぐらされていて、頭上に濃い木々の葉があるせいで月明かりもほとんど届かないというのに、危なげもなく足をすすめている。その技量に、オーフィスは舌をまいていた。
純粋な戦闘力では、あの列空を超える暗殺者──斧刃を殺したと言っていたが、それはあながち友情を盾にとった理由で命令されたわけじゃなく、その戦闘能力で選ばれたのかもしれない。オーフィスも結局は、ソフィアに勝ったことはないわけであるし。
「もう着くよ。この罠で倒すことはできないけど、一瞬でも隙はできると思う。そこを狙って」
「ああ、わかった」
その言葉にオーフィスは頷いて、愛剣トゥヴァイハンダーをもつ手に力を込めた。
「いくよ!」
列空がある地点に来たところで、ソフィアが駆けていた足をとめて反転した。その両手には何本ものナイフが握られている。それを素早く投擲していく。
だが、鋭く飛翔するそれは、列空を狙ったわけではなく、その周囲に張りめぐらせている縄を切断していった。
あらかじめ根元に深く切り込みをいれられていた大木は、その自重を支えていたロープを切り離されたことにより、急速に傾いていった。
その数、五本。身の丈を遥かにこす、樹齢百年はゆうに超えている樹木が破壊音を撒き散らしながら、列空に向かって、倒れていった。
もちろん、心眼使いの列空はそれに気づいただろう。彼は刀の柄に手をおき、鋭く呼気をはきだした。
「────ふっっ!」
閃光がはしる。それは鞘走りをもって、音をも超える速度で振るわれ、鋭い風斬音とともに大気を歪ませた。
それは空気の断絶となり、いくつもの真空の刃が頭上をむけて放たれた。
自身の何十、何百倍も重さの大木が、一瞬にして細切れにされた。無残に切り刻まれた木片が空圧によって宙を舞う。
これこそが、──勝機。
すべてを断つ真空の刃。それは、音を超える剣速が生みだす空気の断層である。それが不可視の刃として敵を切り刻むのだ。
だが、逆に言えば、音を超えるほどの速度を生みだせなければ、真空の刃は生じない。そして、列空は反りのある刀を鞘走りさせることで、その速度を生みだしているのである。
要するに、鞘から刃を走らせたあと、さらに真空を生みだすためには、一度刀を鞘におさめなければならないのだ。
つまり、そのあいだは、真空刃を放つことはできない。
だからこそ、一度真空刃を放った直後の──今が、勝機なのである。
ここを、オーフィスが強襲すれば、勝敗は決まる。
だが──
ソフィアは、ナイフを放ったあと、怖気を感じたように肩を震わせていた。
罠にかかった列空が、口の端をゆがめながら、彼女たちのほうを注視していたのだ。
ソフィアが制止の声をあげた。
「オミちゃん、待──っ」
だが、それは遅かった。
「──はあッ!」
オーフィスは列空が刀を鞘から抜いた瞬間、すでに地を蹴っていた。
足場となった木の根が、踏み込みに耐えられず、爆散するように弾けとんだ。
空気が水のように纏わりつく感覚をへて、オーフィスは一気に列空との間合いを詰めていた。その速度を十二分にのせたトゥヴァイハンダーが空を裂きながら、振り下ろれようとしている。
そして──
「──散れ」
そのときすでに、列空は刀を鞘におさめていた。それが、音を超える速度で放たれる。
ことは単純。彼の納刀速度がこちらの予想を遥かに超えてはやかったのだ。
「なァッ?」
それを、オーフィスは驚愕とともに悟った。だがそれに気づきつつも、攻撃態勢にある彼女にそれを躱すことができなかった。
オーフィスは歯噛みした。
そこに──
「──オミちゃんッ!」
声とともに、ソフィアが跳びこんできた。横からその勢いを殺さずに、オーフィスを押し倒した。
そして、ソフィアの横腹から血が噴きだした。それは赤い霧となって、周囲を染めた。
真空の刃が、オーフィスをかばったソフィアを切り裂いたのだ。
彼の顔が苦痛に歪められる。
オーフィスは、奥歯を噛み締めた。ヤバイ。これは絶好の的だ。ソフィアとオーフィスは地に倒れ、すぐに身動きがとれない。ここを追撃されたら、それを躱す手段は二人にはない。
だが、予想に反して、斬撃は来なかった。
そのかわり、列空を中心に視界が白く染まっていた。
それは、地を駆けるとともにソフィアが放ったナイフのせいだった。それがあらかじめ仕掛けておいた小麦粉や砂糖の粉末をつめた袋を打ち抜いたのである。それが濃密な霧のように列空を包んでいる。切り倒された木々の葉が辺りを囲んでいるので空気の対流もなく、晴れる気配もない。
だが、それがなんの役にたつのか、オーフィスには理解できなかった。
なにせ、列空は心眼使いなのだ。もともと眼でものを見ず、気配で周囲を知覚する難敵である。視界を遮ることになんの意味もないのである。
「くッ──!」
ソフィアが苦痛をおしながらナイフを連続で投擲した。だが、無駄だ。これを列空が喰らうわけがない。
しかし、ソフィアの投げたナイフはそれ以前の問題だった。最初に投擲したナイフがあまりに遅く、二度目に投げたナイフがそれに追いついてしまったのだ。それは煙幕のような白いもやの中で、ぶつかりあい、互いを打ち落としあった。もやの向こうに、赤い火花がかすかに見えた。
そして──
眼の前が、爆炎に包まれた。
轟音とともに衝撃波が発生し、爆風が吹き荒れた。その暴力的なまでの力に抗することができず、オーフィスとソフィアの身体は、木の葉が強風にあおられるごとく、吹き飛ばされた。
「きゃあああああああああああああああっっ!」
自分が女のように悲鳴をあげていることにも気づかず、オーフィスは宙を舞った。上下の感覚がなくなり、空が信じられないほど近くに見えた。次いで、地面が見え、また空が見え、そして──地面に叩きつけられた。
かろうじて受身はとれたと思う。それでも、腕のなかのソフィアをかばっていたので、完全ではなかったようだ。背中を強打して、一瞬、息ができなかった。
呆然とした頭で思いだした。
いまのは──粉塵爆発だ。
空気中に細かい粉末が充満し、それに火がつくことで爆発的に燃えひろがる現象。炭鉱現場でよく発生する事故だと聞いた覚えがある。それを人工的につくりだしたのだ、この馬鹿は。罠だといってもやり過ぎである。
オーフィスはゆっくりと身を起こしながら、ソフィアの様子を確認した。腹から、ゾっ、とするような勢いで血が流れでていた。
「お、おい、ソフィア」
動揺に声をだすと、彼は弱々しく呻いた。
「……オ、オミちゃん、……逃げ、て……」
「はァ?」
なにを言っているのだ。逃げるとは、なにからだ? 列空はいまの爆発で奴を殺ったのではなかったのか?
かなり爆風で飛ばされたらしく、遠くに轟々と燃え猛る炎が見えた。
しゃぁあああ──ん!
それが、鞘鳴りの音ともに、巻き上げられた。それは竜巻のように炎を喰らい、そして消し去った。
炎と風が晴れたそこに──列空は無傷で佇んでいた。
彼の放つ空気の断層は、炎の熱や、爆発の衝撃波ですら断ち切るのか。
オーフィスは久々に戦場で自分以上の強者と向かいあう感覚を味わった。咽が干上がり、背筋に冷や汗が流れる。
「森の、奥へ……。少しは、時間が……かせげるから」
ソフィアが途切れ途切れに言った。オーフィスは戦慄に追われるように、彼を抱きあげ、森の奥深くに身を投じた。
アレクシアが城を追われ、逃げだしたときにも、このような感じだったのかもしれない。
オーフィスはただ走った。木の根が足をとろうとするが、それを気にしている余裕はなかった。抱きあげたソフィアの顔色は真っ白で、額に玉のような汗がにじんでいた。息が荒れていて、すぐにでも傷の手当てをしなければ、命にかかわる。せめて止血だけでもしなければ。
「……ボクたちには、デューくんの匂いがしみついているから……、少しの、あいだだったら、魔獣とかも平気だと、思う……」
「もう喋るなっ!」
オーフィスは怒鳴りつけるように言うと、列空から少しでも距離をおこうと、足をはやめた。
息がきれるぐらいまで走って、もう十分と思ったところで、ソフィアをおろした。木に寄りかからせるようにして座らせ、その衣服をはいでいく。大きな裂傷がパックリと口をあけていて、あとからあとから血が溢れでていた。それでも重要な内蔵は傷つけていなかった。それだけを確認して、ソフィアの服を裂き、傷口にあて、きつく縛った。
「……あ、んん、……痛いよぉ、オミちゃん……、もっと、やさしくぅ……」
「うるさいっ、気色悪い声をだすな!」
こんなときまでも、ふざけた態度をとるソフィアに叱りつけるようにそう言うと、オーフィスは背後を振り返った。
いまはまだ平気だが、列空は確実にこちらに向かっているだろう。だが、彼はデュランの匂いが身体や衣服についているわけじゃない。それのせいで魔獣に襲われているはずだ。それで多少は時間がかせげているはずである。
「ねえ、オミちゃん──」
ソフィアが彼女の名を呼んだ。顔はいつものような笑みが浮かんでいたが、その顔色は驚くほど白く、声は囁きかと思うぐらい弱々しかった。そしてその青灰色の瞳がある種の覚悟を宿していた。
それにオーフィスは、彼にその先を言わせないように口をひらいた。
「──私に逃げろとなんて言ったら、許さないからな!」
「オミちゃん……」
その声には諌めるような色が含まれていた。オーフィスはそれを無視してさらに言葉をつむいだ。
「お前はここで休んでいろ。あんな奴、私ひとりで十分だ」
それにソフィアが口をひらこうとする。それにオーフィスは被せるように言う。
「無理だなんて絶対に言わせない!」
ソフィアと視線をあわせた。ここは絶対にひいてはいけないところだった。
どれぐらいそうしていただろう。青灰色の瞳が優美な弧をえがいた。ソフィアが笑ったのだ。
「……言わないよ。ボクみたいな卑怯専門でもない限り、オミちゃんは負けないよ。真っ向勝負で、オミちゃんに勝てるヤツなんて、そうはいないんだから」
その眼は澄んでいて、オーフィスの心を惹きつけるなにかがあった。
「オミちゃんなら、──勝てるよ」
「ソフィア……」
オーフィスは魅入られたように彼を見つめた。
ここで、ソフィアが咳き込んだ、口元をおさえる手から赤い飛沫が見えた。オーフィスはとっさに彼の身体をささえ、その背中をさすった。
「ここで休んでいろ。いいな、絶対に死ぬなよ!」
身動きもできないほど出血した彼に無茶を言っている自覚はあった。それでもそう言わずにはいられなかったのだ。
その言葉に、ソフィアはおどけるように笑った。
「オミちゃんがキスしてくれたら、がんばれるかも……」
彼は死の直前でもこうして笑っているのだろう、そのことを哀しいとも思うこともできずに。
オーフィスはそっと唇をかさねていた。
「……約束、だからな……っ」
顔をそむけるように立ちあがり、オーフィスは背をむけた。ソフィアの顔は見ることができなかった。
それでも──
「うん、がんばるよ」
その声が、やさしく彼女の耳に届いた。
オーフィスはそれに背中を押されるように、走りだした。
いまは、誰と戦っても負ける気がしなかった。
彼女の背中を眼で追いながら、ソフィアは後ろの大木に体重をあずけた。傷口を押さえる布はすでに赤く染まっていたが、その勢いは確実におとろえていた。これで大人しくしていたら、助かるかもしれない。
しかし、ソフィアは眼を細めて周囲を見渡していた。
そして思わずため息をもらす。その息はいつもより熱く感じられた。
周囲を獰猛な気配が囲んでいた。耳をすませば獣の息づかいまで聞こえてきそうだ。
さすがに、これだけ血を流していると、デュランの匂いすら焼け石に水なのかもしれない。
ソフィアはそのことに苦笑する。
どこで計画が狂ったのだろう。
たぶん本格的に狂ったのは、オミちゃんに出て行くのを止められたときだろう。
今日オミちゃんに止められることがなければ、いまごろは所定の場所まで列空を誘きだし、姫さまの協力を得て闇討ちしているはずだったのに。
そして姫さまに用意してもらった死体に耳飾と組織の認識票をつけてソフィアと称し、列空と相打ちに見せかけ、死亡の誤認をさせる予定だったのだ。
そう、これこそが本当の計画だった。
そのために力をもつ国に亡命して、自分に似た背格好の死体を用意してもらったというのに。
誤算だったのは、ボクが予想よりオミちゃんに好かれていたことと、──ボクがオミちゃんのことを予想より好いていたことかな。
ああ、姫さまも当初の待ち合わせ場所で死体をもって待ちぼうけさせちゃってるよ。怒ってなきゃいいけど──って怒らないわけないか。
獣の気配がどんどん範囲を狭めてくる。動く力はほとんど残されていなかった。
それでも──
ソフィアは唇をなでる。
「──がんばるって、約束しちゃったしね」
利き腕に、黒く艶消しを施した『く』の字に湾曲した短剣を、左手に投げナイフをにぎった。
森の奥から、ひときわ獰猛な気配が近づいてきた。思わず短剣もつ手に力がこもる。
暗闇に金色の光が四つ浮いていた。
爛々と輝くそれは、遭難者を死地へと誘う鬼火のように揺らめいていた。
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