第5話 裏切られた夜
それから一週間。
オーフィスは日課である水汲みをして、水瓶を一杯にしてから、剣の稽古に精をだしていた。
冬があけて、暖かくなってきてといっても、早朝はまだまだ寒く、冷たい空気が襟元などからはいってきて、ひやりとする。それに背筋を震わしながらも、新緑色の木々はまだ朝露にぬれていて、それが朝日の光を反射して輝き、眼にたのしかった。
長大剣トゥヴァイハンダーを手に、オーフィスは離宮の裏手、少し木々が開けた場所にいた。アレクシアなどはここを裏庭などと呼んでいた。
そこには、太い──大人が両手で抱えてもまだ足りないほどの丸太が直立していた。昨夜のうちにオーフィスが用意していたものだ。
それを前に、オーフィスは剣を正眼に構える。
目標との距離を測りながら、自らの呼吸を整えていく。
ゆっくりと振りかぶるように、剣先がもちあがる。それは頭上をこえ、背に担ぐように構えられた。
これは、この長大剣にとって、最も斬撃に都合のいい構えだ。遠心力のすべてをつぎ込み、眼の前の敵を残らず薙ぎ払うためのもの。
そして──
「──ふっっ!」
鋭い呼気とともに、長大剣トゥヴァイハンダーが一閃した。
銀の斬撃が空を裂き、裏庭に運びこまれた丸太が斜めに両断された。
重鈍な刃で斬られたとは思えないほど、なめらかな切り口を見せながら、斬られた残骸が宙を舞った。
それが地に落ちるよりも速く、オーフィスは動きだしていた。舞うような足取りでその位置を変える。それは草を踏みしめる音さえしない、しずかな歩法だった。
さらに銀光が一閃。今度は横一文字に刃がはしり、旋風のような斬撃が放たれる。
普通ならその質量で砕け散りそうな丸太は、またも綺麗に両断された。
彼は躍るように剣を振るう。
一閃、二閃、三閃、と銀色の波のような残像が眼に焼きついた。
その度に、丸太は細かく斬り裂かれ宙を舞った。
相変わらず、重さというものが抜け落ちらかのような異様な光景だった。
しかも、斬る対象は一抱え以上もある太い丸太である。
人知を逸している。
眼の前のものを薙ぎ払い尽くして、やっとオーフィスは動きをとめた。
「──ふうぅぅぅ──」
とめていた呼吸を再開し、オーフィスは剣を鞘におさめた。
そこに拍手が聞こえた。
「すごいねぇ、オミちゃん。さすがはシェルマータが誇る聖騎士だ」
手を叩きながら現れたのは、ソフィアだった。
ここ一週間、彼女のおかげで離宮は信じられないほど過しやすくなった。
くもの巣がはり、人の住むところであるとは信じられないほど汚れていた屋敷のすべての埃を洗いだし、清めながら、手早く散乱しているゴミを片づける。そして、どこかに埋もれていたのだろう調度品などを掘りだし部屋を飾りつけていく。ここまでくると仕事ができるとかいう問題でもなく、凄まじいの一言であった。
ソフィアが優秀であることは認める。この離宮で一週間もった人間も初めてだし、姫さまや魔狼デュランなどを怖れることもない。なにせ床を一緒にするくらいであるし、きっと奴の心臓には毛が生えているに違いない。これで言葉づかいや最低限の礼儀、オミちゃんなる呼び方さえしなければ文句もないのだが、それは我慢しよう。ようやく人間らしく暮らせるようになったのだから。
過しやすくなったせいか、ソフィアのつくる食事が美味いせいか、珍しくアレクシアがここ一週間、離宮で過されている。
これは喜ばしいことだ。これであの性格さえどうにかしてくれれば言うことはないのだが、それもいまは我慢しよう。一度にすべてを望むのは欲がすぎる。
「なにか用か?」
オーフィスは細切れにした丸太の破片を足で集めながら尋ねた。これは後で薪にでもつかおう。
「朝ごはんができたから呼びにきたんだ。姫さまも待ってるよ」
「そうか、ではすぐ行く」
片づけを後にして、ソフィアとともに離宮に戻った。
そこでは卓についたアレクシアがナイフやフォークなどを使うこともなく、素手で食事をはじめていた。
「先にいただいているぞ」
その下では、デュランが床におかれた椀の中に鼻先を突っこんで、ひたすらに食べ物をかきこんでいた。
「んもう、姫さま。ご飯はみんながそろってからって言ったじゃないですかぁ」
ソフィアが腰に手をあてながら、膨れてみせた。
「わるいな、あまりに美味そうだったんでな」
アレクシアは悪びれた様子もなく食事の手もとめなかった。大きなパンをまるごと口の中に放りこむ。それを見て、ああ、ちぎって食べるとか、もう少し上品に召しあがってほしい、せめてナイフとフォークは使ってください、とオーフィスは思うのだが、口にだすことはなく、ため息をひとつ落とすだけで卓についた。
ソフィアも同じように席につく。
普通の女官であれば、主人と同じ卓につくことはないし、いつでも世話ができるように背後に控えているものだが、ソフィアはそんなことをしたことがない。同じ卓につき、ともに食事をとる。
それに最初は憤りを感じたものだが、いまでは一緒に食事をすることに慣れてしまって、食べる姿が見えないと落ち着かないほどだ。
「では、いただきまーす!」
ソフィアは笑顔で手をあわせた。オーフィスも小声で、いただきます、と呟き手をあわせた。
それを見て、ソフィアは笑みをより濃くした。
これもソフィアがしなきゃダメだとひたすらに主張したものだ。食事はみんなで。いただきます、ごちさそうさま、はきちんと言いましょう。母親かお前は、と呆れつつも一週間も続けていれば慣れる。こういうときに人は慣れの生き物だなと、つくづく思う。
あいかわらず、ソフィアのつくる食事は美味かった。パンも朝早く起きて焼いているので、中はまだ熱々のホクホクで外側はカリカリとしている。卵もとろけるような半熟となっていて絶妙な焼加減である。スープは鳥の骨や、牛の骨、魔獣の骨などで、しっかりと出汁をとっていてコクがあるのにしつこくなくクセになりそうな味である。
なにより楽しみなのは、夕食後のデザートである。
いままで食べたこともない異国の菓子を、ソフィアは毎回夕食後につくってくれるのである。
すでに二人と一匹は、彼女に餌付けされているといっても過言ではないかもしれない。
一度、ソフィアを怒らせてデザート抜きにされたことがある。それはもう、たまらなかった。
眼の前でアレクシアが、ソフィアが、デュランが、美味しそうに、見たこともないお菓子を、満面の笑みで食べるのである。
あの甘い匂いに思わず咽がなり、見た目にも綺麗な砂糖のデコレーションが、美味しいよ、甘いよ、舌がとろけるよ、と訴えかけてきた。
それを食べることもできず、だからといって、眼をそらすこともできずに、ただ、美味しそうに食べる二人と一匹を見ていることしかできない。
あれを地獄と呼ばずに、なにを地獄と呼ぼう。
それからオーフィスは、ソフィアの機嫌をそこねるのだけは避けてきた。
ソフィアの奔放さに悩まされ叱りつけることもあるが、この一週間は、離宮で過してきた二年間の中で一番たのしい日々だったのかもしれない。
そして、今日も夜の帳は降りてゆく。
オーフィスは、一週間連続で姫さまの扉の前で就寝のときをむかえた。
心安らかな日々に、オーフィスはすぐ眠りにおちた。
それが邪魔されたのは、夜が最も深くなる刻限だった。
扉のうちから、人の動く気配がしたのだ。さらにいえば殺気のまじる剣呑な気配だった。
それが一瞬にして、オーフィスの眠気を吹き飛ばした。
「姫さま!」
扉を蹴破るようにして、オーフィスは部屋の中にはいった。すでに愛剣トゥヴァイハンダーは鞘から抜き放たれている。
暗闇の部屋の中を、窓からの月明かりだけが照らしだしていた。それは常人にとっては頼りない光源でも、オーフィスのような熟練の戦士にとっては十分すぎるほどだった。
そこにいたのは、一人と一匹に対峙する、ひとつの人影であった。
アレクシアは、いつもの上座に陣取り愛用の得物である、巨剣を手にしていた。
それは人知を逸した代物。オーフィスのもつトゥヴァイハンダーも人の武器としては逸脱しているが、彼女のもつ巨大な剣はそれと比較してなお、異常だった。
人が扱うには巨大すぎる、刀身が人丈を二倍したほどもあり、その厚さもそれに見合うだけある。重量などは成人男性ほどもあるだろう。人はそれを見て決して剣とはいわない。あえて表現するとしたらそれは、──鉄塊。
オーフィスの剣が、人を馬ごと斬り殺すことを目的としてつくられたものであるならば、その巨大な剣は、伝説の幻獣王──ドラゴンを斬り殺すためにつくりだされたかのようである。
それを、アレクシアは木の枝でも振るうかのような軽やかさでもっている。それは、オーフィスのように遠心力や速度を利用して振るうのではなく、半人半獣である膂力だけでその巨剣をささえているのだ。
彼女はすでに人の気配を残してはいなかった。それは彼女の眼を見ればわかる。
普段は深緑色の瞳は金色に輝き、虹彩は縦にわれ、爛々と炎のような激しさを宿していた。
その後ろに控えるのは、魔獣たちの王である魔狼──人が決して敵うことない力の権化。
それは、大地に四本の足をつけ、すぐにでも跳びかかれるように身体をたわめ、弓のように筋肉が引き絞られている。
金色の瞳は殺気を放ち、すべての種族を統べる王としての畏怖をその身に宿していた。
それと相対するのは、冷たい銀髪の暗殺者だった。
それは、闇夜でもわかる白一色の衣装を身にまとい、スカートの長い裾を優雅に揺らしていた。その手には光を反射することがないように艶消しを施した黒い短剣をもっていた。それは、『く』の字に湾曲していて、内側に刃がついていた。刃先のほうに重量がくるようにつくられていて、鉈のようにその重みで相手を叩き斬る短剣だ。
携帯用の武器としては十分に凶悪な代物だが、それだけであの巨剣をあつかう獣姫と、魔獣の王を相手にするにはあまりにも心細い装備と言えるだろう。
だが、オーフィスが気をとられたのはそんなことではなかった。
銀髪の暗殺者の姿が、彼女に見えたのだ。
「……ソ、フィア……?」
信じられない思いで、その名を呟くと銀髪の暗殺者はこちらを振り返った。その際、視界の端に金色の光がうつった。それは左耳にしている鈴の耳飾り。それが風鈴のように涼やかに揺れている。
「あれぇ、オミちゃん、起きちゃったの? うーん、すぐ済ますつもりだったんだけどなぁ」
彼女──ソフィアはその明るい喋り方もそのままに、いつもの笑顔を浮かべていた。
眼の前が揺れているような錯覚をおぼえた。剣の柄をしっかり握っていないと取り落としてしまいそうなほど、全身の力がぬけていた。
「なんで、こんな……ことを?」
やっとそれだけを口にすることができた。ソフィアは無邪気な笑みでこたえた。
「なんでって、ボク暗殺者だし。元々姫さまを殺すために来たわけだし」
その一言で、すべてが壊れてしまった気がした。
ご飯を食べるときに、いただきますと言っていた彼女の笑顔も。プリンをまたつくてあげるねと笑っていた彼女も。オミちゃんと呼んでいる彼女も。彼女を信用していたオーフィスの中のすべてが、粉々に砕け散った。
「──ぁ、ぁあああああああああああああああっっ!」
荒れ狂う感情を吐きだすようにオーフィスは、ソフィアに斬りかかった。
十歩は離れている距離を一瞬にして詰め、長大剣で闇を切り裂くように一閃した。その刃は視認するのも困難な速度で、ソフィアを両断した。
旋風のごときその一撃に耐えることもできず、斜めに切り離された上半身が宙を舞う。驚くほど軽い手ごたえだった。血が舞い、周囲を赤く彩る。
あっけなく、ソフィアは死んだ。
──りいぃ……ん。
鈴の音が空気を震わせた。
眼の前から、ソフィアの死体が消える。それはあたかも幻であったのごとく。影もかたちもなくなった。
「なぁ……っ?」
それに眼をむいた瞬間だった。
首の後ろに衝撃をうけ、脳が揺さぶられた。
眼の前の風景が歪んだ。視界が黒く染まっていく。
「……くっ……!」
気力を振り絞って後ろをふり向くと、暗くなった視界にソフィアの笑顔がうつった。
「怒りは視界を狭くする。安易に激情にかられるものじゃないよ、オミちゃん」
それはまるで、いただきますって言わなきゃ食べちゃダメだよ、オミちゃん、と注意するかのような気軽さであった。
「……ソ……フィ──ァ──」
オーフィスは倒れた。視界の半分が黒く塗り潰され、残りは冷たい石畳がうつっていた。
それでも、ソフィアの後姿が辛うじて見えた。
銀髪の暗殺者は、すでに標的へと向きなおっていた。その手にもつ刃は黒く内側に湾曲していて、死神の鎌を思わせた。
「いくよ、姫さま──」
「ああ、来い……ッ」
獣姫は獰猛に笑い、自らの牙である、巨剣を構えていた。
暗殺者は黒刃をひるがえし、音もなく駆けだした。死の刃が振るわれようとしている。
そこで、オーフィスの意識は完全に黒く染まり、その意識を完全にとざした。
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