第3話 更ける夜
魔獣の王を前にして、ワンちゃん。
オーフィスは気が遠くなるほどの衝撃を受けた。
「ふっ──、大きなワンちゃんか、デュランをそう呼んだ奴は、おぬしが初めてだな」
アレクシアが吹きだすように笑い、デュランの首の毛をなでた。
それにオーフィスは慌てて、ソフィアの頭をさげさせた。
「も、申し訳ありません!」
無理やり頭の上に手をおかれ、おさえつけられているソフィアが盛大に手を振りまわした。
「ちょ、痛いよ! オミちゃん、痛いってば! 髪の毛が抜けるっ。禿げちゃうよぉ!」
「黙れ、この馬鹿っ!」
オーフィスはさらに力をいれて、頭を押しこんだ。
「あうぅぅぅ~~」
ソフィアが泣きのはいった声をあげ、アレクシアはさらに笑った。
「まあ、よいではないか。許してやれ、なあ──オミちゃん」
アレクシアが笑いながら、そう言った瞬間、かっと顔に血がのぼった。姫さまにまで、オミちゃんなどと呼ばれてしまった。
「だって。はやく離してよ、オミちゃん」
「う、うるさい!」
オーフィスは少し乱暴に手を離した。
「うーん、ひどい目にあった」
ソフィアは荒れた髪を手ぐしで整えながら、あらためてアレクシアに向きなおって頭をさげた。
「申し遅れました。わたくし、ソフィア・ウル・シエルタと申します。本日より姫さまのお世話をさせていただきますで、何卒よろしくお願いいたします」
一応は礼儀をまもっているようである。
「わらがシェルマータの獣姫、アレクシア・L・クロスティアーネ・シェルマータだ。よろしく頼む」
アレクシアは面白いものを見るように口の端をつりあげた。
ソフィアはそれに、笑みでこたえながら、さらに口をひらく。
「それで、お願いがあるんですけど、そのワンちゃんに触っちゃだめですか?」
訂正、ぜんぜん礼儀など、まもれていなかった。
オーフィスは愕然とする思いで、ソフィアを見つめ、激しく叱り飛ばした。
「馬鹿かお前はっ! 不敬罪で牢屋にぶち込むぞ!」
それに対して、アレクシアは盛大に笑った。身体を二つに折り、顔をデュランの腹にうずめている。手が、ばしばしとその毛並みを叩いている。
その笑いの発作をなんとかこらえながら、アレクシアは顔をあげた。その深緑の瞳には涙すら浮いていた。
「ああ、いいぞ。デュランはやたらめったらに噛んだりしないからな。安心して触れ」
そう言うと、またアレクシアは顔を白い毛並みにうずめてしまった。肩が震えている。よほどツボにはいったらしい。
許しをえると、ソフィアは水を得た魚のような勢いで、デュランのもとへと駆けだした。そして、よりにもよって、その毛並みにむかって飛びついたのである。
「────っっ!」
オーフィスは心臓がとびでるほど驚いた。触ると言いながら抱きつくなんて。あまり刺激をあたえて、デュランの不興をかったらどうするつもりなのだ。かの魔狼がおとなしくするのは姫さまに対してのみなのだ。頭から、がぶりっ、と喰われてもなんの文句も言えない。自殺行為としか思えない行動だ。
だが──
「うわあああっ! ふっかふかだー!」
予想に反して、ソフィアは無事だった。その首にぶら下がるような格好で、白い毛並みに頬擦りまでしている。
それをデュランが眼を細めながら見おろしている。
彼の怒りに触れないかと、ハラハラしていると、アレクシアが顔をあげた。
「どうだ? 気持ちよかろう?」
「うん! とっても!」
「そうだろう。しかも、こいつに包まれて眠るのは、とっても暖かいのだぞ。そこらの高級羽根布団など眼じゃないぞ」
「えー、ほんとですか? ボクも一緒に寝てみたいです!」
なんてことを言いだすのだこいつは、本当に不敬罪で牢屋に放り込まれても知らんぞ、とオーフィスは驚き半分、呆れ半分でその様子をうかがっていた。
「ああ、いいぞ」
アレクシアはことなげもなく言った。
「ただし──、その髪粉をおとしたらな」
その言葉に、はじめてソフィアの笑みが固まった。
「……どうして、わかったんですか?」
アレクシアは獰猛に笑う。
「わらも、デュランも鼻がいいからな。その髪粉の匂いはつよすぎる。今にもくしゃみがでそうだ」
ソフィアは眼をぱちくりとさせながら、髪に触れた。
「すごい。バーサ女官長から姫さまは鼻が敏感で、化粧の匂いが嫌いって言ってたけど、ここまでとは思わなかったです」
ソフィアはデュランの首から手を離し、その毛並みを優しくなでると、少し距離をおいた。
「ごめんね、デューくん。臭かったでしょう?」
「ほう、デューくんとは、デュランのことか?」
「うん、可愛いでしょう」
ソフィアは自慢げに胸をはった。アレクシアは笑いながらデュランをなでた。
「おぬしは、デュランがどういう存在だか知っておるのか?」
「うん、バーサ女官長から、おおよそのことは聞きました。内戦中に姫さまが仲間にした魔獣の王子さまでしょう?」
「ほう、バーサはそんな風に言っておったか」
「違うんですか?」
「ああ、少しな。正確には、デュランがわらの仲間になったのではなく、わらがデュランの仲間になったのだ」
「姫さま!」
オーフィスは諫言を口にした。新参者に聞かせる話ではないからだ。
この国では禁句とさえされている。
「よい。こやつの反応が見てみたい」
それをアレクシアは切ってすて、話を続けた。
「わらは、狼王の一族の仲間入りをしたのだよ。内乱時、城を追われ、わらと兄上は数名の兵とともに、このシュラトーの森に逃げ込んだ。それがどんな無謀なことと知りつつも、それ以外に逃げ道などなかったからな。案の定、多くの魔獣に襲われ、全員喰われかけた。そこを助けてくれたのが、このデュランだ」
アレクシアは愛しむように、その毛並みをなでた。デュランが眼を伏せ、しっぽを振って反応をかえす。
「助けられたときには、わらは瀕死の傷を負っていた。ただ、運がよかった。わらはこいつに見初められた。だから契約を結んだのだよ。魔獣王の一族に連なり、デュランとつがいになり、ともに次代の魔獣を統べると。そして、わらはこいつの血を受けいれた。そのときわらは──人ではなくなった。シェルマータの獣姫になったのだ」
そう、この話は、姫が国を救うため、狼王の血を受けいれ、半獣半人となったというものだ。国のためにその身を捧げ、人でさえなくなった。その身体は十三という若さで年をとることをやめ、魔獣とつがいとならなければならないのだ。魔獣の力を手にいれたことによって、内乱をおさめることはできたが、そのあと、姫さまはこんなところで一生を終えなければならないのだ。さらに、身体が魔獣の血に順応して初潮がくれば、子をなすために魔狼の故郷に連れて行かれるという。この話を聞くたびに、オーフィスは身を焼かれるような義憤にかられる。
シェルマータという国は、姫さまを人柱として、魔獣に捧げたのだ。
それで、アレクシアの話は終わった。オーフィスはソフィアの反応を見た。彼女は小首をかしげ、唇をなでていた。
「ようするに姫さまは、デューくんにプロポーズをされて、結婚したんですよね。それで、種族の壁をこえるために、血を受けいれて、半人半獣になった。そして、シュラトーの森内に新居を建てて、そこでラブラブ新婚生活を送っている、ってことでいいんですよねー?」
オーフィスは立ったまま斜めに傾いた。なんだろうこの幸せな解釈は。こいつの脳みそには、ウジでもわいているのだろうか。
アレクシアはさらに笑った。それは本当に愉しそうな笑みだった。
「そういうことだ」
「じゃあ、ボクが一緒に寝るとお邪魔ですか?」
「いや、髪粉を落としてくるなら、喜んで招待しよう」
「はい!」
そして、ソフィアはこちらをむいて笑った。
「オミちゃん、水場ってどこにあるの?」
「連れて行ってやれ」
アレクシアの命をうけ、水場に連れて行った。そこには大きな水瓶があり、なみなみと綺麗な水がためられている。ここの水汲みはオーフィスの日課でもある。
ソフィアは専用の油糧をつかい、髪粉を浮かしたあと、水で一気に洗い流した。
そして、オーフィスは、声もでないほど驚くことになった。見惚れてしまったと言ってもいい。
いままでの栗色の髪は、月の光のような涼やかな銀色に輝いていた。それが灰色がかった青い瞳とよくあい、冬の女神のような美しさをかもしだしている。
それは幻のごとく、儚げでありながら、確かな存在として眼の前にいた。
ただ髪の色が違うだけで、ここまで受ける印象が違うものなのだろうか。こまやかの所作にさえ美しさを感じるほどだ。
「……いままで、その髪をわざわざ隠していたのか?」
そう尋ねると、ソフィアは笑った。
「この髪は綺麗だから好きなんだけど、ひどく目立つんだよね。そうなると生活しにくくてさー」
ことなげもなく言っているが、さもありなん。
確かにここまで人目を惹く美貌では、そこらの男をいたずらに呼び寄せる甘すぎる密にしかなるまい。
「まあ、そうかもしれないな」
そう言いつつ、オーフィスも彼女から眼を離すことができなかった。
「んもぅ、そんなに見つめないでよ。ボク困っちゃうなー」
そのふざけたもの言いで、やっと視線をそらした。
「馬鹿言ってないで、姫さまのところに戻るぞ」
「ちょっと待って。その前に、ざっとでいいから、この離宮の案内をしてくれない?」
仕事場の確認をしておきたいから、と言いだしたので、炊事場、厠、風呂場──小屋のなかに焼いた石を置き、そこに水をかけて蒸風呂のようにして汗を流す場所をここでは風呂という──そして、井戸のある場所に、ソフィアが寝ることになる寝室、オーフィスの部屋や、各種空き部屋まで案内をした。
その際ソフィアは、案内されながらも、テキパキと片づけも並行してこなしていた。態度とは裏腹に、仕事はきちんとできるようであった。
そして、今日の夜には、豪勢な夕食まで用意をした。しかもデュランにまで。
あたたかい食事など久しぶりに食べるので、涙がでるほど美味かった。いつもは味気ない携帯食であるし、姫さまとデュランは森で狩をして、そのまま生肉を食べる生活をしている。
「喜んでもらえてよかった。ボクって結構、料理とか得意なんだよねぇ」
ソフィアはそう言って、デザートまで出してくれた。
西国のお菓子で、カスタードプディング──プリンというのだそうだ。初めて食べたが、信じられないほど美味かった。舌のうえでとろける、ほどよい甘さ、少しだけ苦味のきいたカラメルソースがポイントだという。
涙まで浮かべて食べるオーフィスを見て、ソフィアが微笑んだ。
「オミちゃんって、甘いもの大好きなんだね。そういうところは普通の女の子みたい」
「なァ……っ! だ、誰が女の子だ、っ!」
思わず、スプーンをとめて、怒鳴ってしまった。
だが、それにも動じず、ソフィアはプリンの皿を前にだした。
「ボクのもあげるね」
眼の前にプリンの皿がすべってきた。
女の子などと言われて、誰が食べるか──そう言ったつもりだったが、口を開閉するだけで声がでなかった。
皿のうえのプリンがこちらを誘惑するように、ぷりんぷりん、と揺れている。眼が離せず、ごくりっ、咽がなった。
「──くっ!」
それでも、食べるものか、と思い、スプーンをおいた。
そして──
「お粗末さまでした」
ソフィアがそう言いながら食器を片し始めた。
オーフィスは言葉もなく、ただ──カラになった皿を呆然と見つめていた。
ソフィアがそれも見て、微笑んだ。
「プリン、気にいったみたいだね。また今度つくってあげるよ」
「くぅ……っ」
オーフィスは悔しげに唇を噛んだ。
すべて、貧しすぎる食生活がいけないのだ。毎日毎食、栄養バランスだけは優れているが、味が粘土のように味気ない携帯食だけを食べ続けてみろ。プリンのような甘味に逆らえるわけないではないか。
それでも、負けた気分であった。
恨めしげに、洗い物をするソフィアの後姿を眺めた。腐海の森のごとく汚れて、物が雑然としていた炊事場がわずかな時間で、信じられないほど綺麗になっていた。認めたくはないが、仕事はできるようだ。
少しだけ見直した気分でいると、アレクシアが彼女の背中にむけて声をかけた。
「ソフィア。わらはもう寝るが──」
どうする? と声をかけるまでもなかった。
いつの間にか、ソフィアは姫さまのそばにいて、うきうきとした顔を隠すこともなく。
「ボクも、もう寝ようと思ってたんですー!」
炊事場を見ると、まだ洗い物が途中だった。
「では、寝るか。腹が一杯になると、眠くてかなわんからな」
「はい!」
アレクシアとデュランのあとを、ソフィアはまるで子犬のような足どりでついて行った。
「…………」
オーフィスは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。先ほど見直したと思った自分を殴ってやりたい気分だった。
ため息をつきながらも、オーフィスも立ちあがって、彼女たちのあとを追った。
だからと言って、オーフィスまで彼女たちと床を共にするわけではない。
アレクシアが離宮で寝るときは、その扉も前につめていて、扉横の壁を背に睡眠をとることにしている。睡眠は浅いほうなので、なにか異常があれば、すぐにでも姫さまのもとへ駆けつけることができる。
姫さまも、いつも森で寝るのではなく、離宮で寝てくれれば、常にそばで護ることができるものを。
オーフィスはそんなことを考えながら、扉を背に、愛剣トゥヴァイハンダーを胸に抱き、眠りについた。
この扉の前で眠るという行為が、姫が離宮で眠らない原因のひとつだと気がつかないのが、オーフィス至らない点なのかもしれない。
こうして夜は更けていった。
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