第2話 獣姫と魔獣の王


 いきなり声をあげて笑いだした少女に、オーフィスは恐る恐る声をかけた。


「ソ、ソフィア……。大丈夫、か?」


 すると、少女は、ピタリと、笑うのをやめ、こちらに向きなおった。

 その顔には満面の笑みがうかんでいて、先ほどの儚げな印象など微塵もなかった。


「あぁ、ごめんねぇ。あまりにも嬉しかったから、つい」


 そう言って、可愛らしく舌をだした。鈴をころがすような声はそのままに、印象だけが反転するかのように変わっていた。


「いやー、バーサ女官長ってば、ものすごく厳しいんだもん。一ヶ月も、それはもう辛い研修をさせられたんだからね。もう信じられないほど厳しかったよおー。あの地獄の日々からやっと解放されたと思ったらもう、笑いがとまらなくてっ」


 オーフィスはあまりの変わりように、声もでなかった。


 なんだろう、このあけすけな明るさは。そのことに反応を返すことすらできず、ただ呆然と彼女を見つめ返すことしかできなかった。


「んー? どうしたの、そんなに固まっちゃって? あっ、もしかして、ボクに見惚れてた? いやー、そんなの、ボク困っちゃうなあ」


 女が自分のことを、ボクなどと、しかも、なんだその口の利き方は──ここは怒って注意すべきなのだろうか、とオーフィスは悩みながらも、口をひらいた。


「ソフィア」


「んー。なぁに、オミちゃん?」


「オ、オミちゃんっ?」


「うん、オーフィス・ミルティラだがら頭をとって、オミちゃん。かわいくない? オーフィスなんて、かくばった名前より、だんぜん似合うと思うんだけど」


 これは完全に叱るべきだろう。断固としてそんな呼び方は許せない。まるで女のようではないか。


 再度、オーフィスが口をひらく──前に、ソフィアは行動をおこしていた。


「あ、こうしてる場合じゃないや、姫さまにご挨拶しなきゃね。さあ、行こう。はやく行こう!」


 こちらの手をにぎり、小走りに、石畳のうえを駆けた。


「ちょ、ちょっと待て!」


「えぇ~! オミちゃんてば、おそいよー。ほら早くはやくぅ!」


 最初から主導権を握られっぱなしだった。意外に強い力で、ぐいぐいと引っ張られ、あっという間に、離宮までついてしまった。


 離宮は堅牢な石造りで、それほど大きなものではない。部屋数はそれなりにあるが、二階建てである。そこに炊事場や、姫さまの寝室、オーフィスの控え室兼寝室などがある。もちろん使っていない部屋のほうが多い。


 ソフィアは鼻歌でも歌いだしそうな勢いで、頑丈そうな木製の扉を開けようとした。


「ちょっと、待てッ!」


 いい加減、頭にきて、オーフィスは怒鳴りつけた。


 この怒号だけで、普通の女子供は泣きだしてしまうほどの迫力がある。なまじ顔が整っているぶんだけ、怒ると、本気で怖いと言われることもしばしばだ。


 だが、ソフィアは、そよ風を受けたがごとく、小首をかしげただけだった。


「ん。どうしたの、オミちゃん? ボク耳悪くないから、そんな大声ださなくても聞こえるよ」


「だったら、最初に待てと言ったときに、すぐとまれ!」


「え、でも、姫さまが待ってるんでしょう?」


「待ってはいるが、その前に言っておくことがある!」


「なぁに? 姫さまのことは、だいたいバーサ女官長に聞いてるけど」


「違うっ! お前の口の利き方や、私の呼び方のことだ!」


「え……、もしかして、ダメなの?」


「駄目に決まっているだろうッ! なんでいいと思えるんだ!」


 この言葉に、ソフィアは愕然としたように、後退る。


「今すぐ直せッ! それができないというのならば、バーサ女官長に言って、お前を引き取ってもらうぞ!」


 そう叱りつけると、先ほどまでの明るさが、嘘のようになりをひそめた。


「……ごめん、なさい……」


 その声はか細く、立つ様はこのうえもなく儚かった。下手に触るとそれだけで壊れてしまうような気さえした。


 ソフィアが恐る恐る窺うように、オーフィスに話しかけた。


「ここが、あまりにも怖くて……。無理にでも、明るくふるまっていないと、潰れてしまうそうで……っ」


 彼女は顔を伏せた。泣きだす寸前のような声だった。


 オーフィスは内心舌打ちをした。思わず言い過ぎた。こんなところ怖いに決まっているのに、度が過ぎていたとはいえ、それを誤魔化そうとする少女の心を傷つけてしまった。


「すみませんでした……。直せというのなら、今すぐ直します。ですから、バーサ女官長には言わないでください。わたし……ここを追いだされてしまったら行くところがないんです……。お願いします……っ」


 ソフィアは深々と頭をさげた。

 オーフィスは慌てて、その肩に手をおいた。


「いや、こちらこそ、すまなかった。言い過ぎた」


 それでも彼女は顔をあげようとしなかった。細い肩が震えている。もしかして泣いているのかもしれないと、オーフィスはさらに慌てた。


「お、お前が、明るくふるまうことで、少しでも怖さがやわらぐのなら、どれだけ明るくふるまってくれてもかまわないぞ。姫さまもそれぐらいはお許しになるだろう」


 それに、やっとソフィアは声を返した。


「……本当、ですか……?」


「ああ、約束する」


「わかりました」


 そう言って、あげた顔には一滴の涙さえ見えず、あっけらかんとした笑顔がもどっていた。


「は……?」


 またも、あまりの変わりように、オーフィスは唖然としたように、まじまじと、その顔を覗きこんでいた。


「もう、またぁ? いくらボクが可愛いからって、あまり見つめられちゃうと、照れちゃうよー」


 ソフィアは両手を頬にあて、くねくねと身体を動かしていた。


 ここでやっと、理解が追いついた。

 はめられたのだ。


「お、お前なぁっ!」


「えー、なぁにー? まさか、また直せなんて言わないよねぇ? だって約束したもの。騎士さまが約束をやぶるなんて、あっちゃいけないよねぇ?」


 あまりの怒りに歯が、ぎしりっ、と音をたてて軋んだ。

 完全にしてやられた。こいつは猫をかぶっていたのだ。それも、ただの猫ではない、毛並みも艶やかな最高級のチェシャ猫だ。バーサ女官長すらも、これで完全に騙されていたに違いない。それでなければ、このような性格のソフィアが、姫さまの世話役になれるはずもない。


 オーフィスはあまりの怒りと、これから先を思いやって視界が真っ黒に染まるようだった。


「さあ、姫さまに挨拶に行かなくちゃ。オミちゃん、固まってる時間なんてないよ」


 そんなオーフィスを尻目に、ソフィアは扉を開けると、さっさと中に入っていった。


「うわあ、汚いねぇ。掃除とかしないの?」


 彼女は開口一番にそう言った。

 たしかに、そこはものが散乱していて、綺麗とはいい難い状況だった。週に一度、バーサ女官長が片づけに来る以外は掃除をすることがないのだ。オーフィスが手を動かせば、余計に被害がひろがるので一切手をだせない。そんな状況では、いくらバーサが優れた女官だからといって、綺麗な状態に保てるわけもない。とくに玄関先には、ゴミをすぐに運ぶことができるように集めているから余計に汚く見えるのだ。


「ここの片づけは後かな。先に姫さま姫さまっと」


 ソフィアはそれらを一瞥するにとどめ、先に歩みを進めた。


「姫さまー。姫さまー。どこにいるんですかー?」


 声をかけながらどんどん先に行く。

 それを黙って見ているわけにもいかず、オーフィスは後を追い、ソフィアを姫さまのところまでうながした。


「こっちだ。姫さまは二階にいらっしゃる。くれぐれも、いいか、く・れ・ぐ・れ・も、失礼のないようにな!」


「うん、まかせて!」


 ソフィアは胸をたたいた。それなりに豊かな胸がたわわに揺れた。

 不安だった。


 だが、それ以上に姫さまを見て、いまと同じような態度をとれるかという意地の悪い考えもあった。


 階段をあがると、通路の向こうにひとつだけ扉があった。二階に部屋はひとつしかなく、そこが姫さまの部屋なのだ。

 だが、部屋とはいうものの、姫さまがここで眠ることはほとんどない。だいがいの日々は森を駆けまわり、そこで生活し、寝ている。それでも今日は、新しい女官との顔合わせの日なので部屋にいるはずだ。


 数度のノックのあとで、声をかける。


「姫さま、失礼いたします。新しい女官を連れてまいりました」


「ああ、はいれ」


 扉をあけると、その部屋にはなにも存在しなかった。調度品もなければ、寝台すらない。

 部屋の上座が少し高くなっていて、そこにあぐらをかくように座っているのが、シェルマータが他国に誇る王妹。アレクシア・L・クロスティアーネ・シェルマータ。


 彼女は、人とは思えないほどの存在感を撒き散らしながら、ただそこにいた。

 容姿から判じる限り年齢は十代前半であろう。

 一種独特の美しさで、息をのむほどの威圧感をはなっていた。それも穏やかとはいい難い種類の偉容だ。顔立ちにはまだ幼い丸みが残っているが、その眼は猫科のそれのように切れあがっていて、深緑色の輝きを宿していた。可憐な唇は、笑みを刻んでいるが、それは野生の獣が歯を剥きだしにしているかのような獰猛さが見え隠れしている。荒れた長い髪は後ろに流されていて、猛々しく跳ねている。そのさまは、暴れ狂う金色の洪水のようでもあった。身体は細く、少年のようにすらりとした体躯をしていて、白い毛皮の胴着でつつんでいる。


 そして、背後の白い毛並みに、うずもれるように、背をあずけていた。

 そう、白い毛並みに背をあずけているのだ。

 それは、姫以上に、桁違いの存在感を主張する異形だった。


 一匹の獣。


 それは、狼の姿をしていた。

 ただの狼ではない、深い野生をその身に宿した、牛ほどの体躯をもつ大狼だ。

 それと同じ部屋にいる。それだけで、精神をまるごと潰されるような威圧感を感じる。


 それもそのはず、その大狼は、シュラトーの森の王。魔獣たちの頂点に君臨する魔獣王たる一族。狼王の末裔でなのである。

 この存在にとって、人など塵芥ほどの脅威にもならない。


 それは、ただ静かに、オーフィスとソフィアを見おろしていた。満月のような金色の凶眼が、苛烈な光をはなっていた。牙を剥き出しにした口腔から、紅い舌がたれ、灼熱の呼気が漏れている。


 オーフィスも慣れたとはいえ、いまだに脅威を感じずにはいられない。相対するだけで、咽がなり、手のひらに汗をかく。ゾクリ、とするような悪寒がとまることなどない。


 そう、この魔獣は、地上に並ぶもののない理不尽なまでの『力』そのものなのだから。


 王たる威厳、王たる資格──王になるのではなく、種として統べることを宿命づけられている最古の魔獣。

 あらゆる生物の天敵。すべてを葬る殺戮者。数多くの同胞の屍で敷き詰められた魔界の頂上に佇む絶対者。

 それが、狼王たる魔獣。


 これを前にして、まだ先ほどのような減らず口を叩けるというのなら叩いてみろ。


 オーフィスは横目でソフィアの様子を観察すると、彼女は大きな灰色の瞳を零れ落ちんばかりに見ひらいていた。口までひらきっぱなしである。


 それに少しだけ溜飲をさげ、あらためて、アレクシア姫に挨拶をしようと口をひらく──


「すごいっ! おっきなワンちゃんっ!」


 ──前に、ソフィアが手を叩いて歓声をあげた。


 それに、オーフィスはあごが、かくんと落ちるほど驚いた。

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