第1話 聖騎士と女官
それは、太古の森だった。
まだ、人が獣とともに暮らしていた時代から息づく深淵の森──この世で最も魔界に近いと噂される──シュラトーの森。
人の法が及ばぬ魔の領域である。
その森と人の領域を分け隔てるように、高く聳え立つ壁が存在していた。
それは人と魔の──境界線である。
それを守護するのが、〈門〉の一族と呼ばれている。
彼等は太古の昔に魔獣の王と契約を交わし、人の領分と魔獣の領分をわけた。その境界線に、気の遠くなるような年月をかけて長壁を築きあげたのだ。
その壁は『遙遠の長壁』と呼ばれ、その唯一の〈門〉を守護するように、城が建てられた。
それが、最古の国と呼ばれる──シェルマータの始まりである。
シュラトーの森は、人が一歩でも足を踏み入れれば、生きて出ることはかなわない不帰の森。それはこの大陸に住むものならば幼子でも知っていることだ。
それなのに、そのシュラトーの森の中に、──人がいた。
それだけではない。魔獣の領域に、離宮が建てられていたのだ。
するとこの者は──信じられないことだが──ここの住人なのであろうか。
その人物は、白い騎士服に身をつつんだ騎士だった。年のころは二十歳前後で、容姿は冷厳だった。艶やかな長い黒髪を後ろでひとつにまとめ、細面の肌は白く顎は鋭い。とくに印象によく残るのは、切れ長の黒い双眸だろう。深い闇色をしていて、見つめていると吸い込まれそうな錯覚さえおぼえる。どこか東部の貴族を思わせるような鋭利な雰囲気もつ容姿である。
騎士は、ただ黙々と剣を振るっていた。
それは眼を疑うような場景だった。
まず、騎士が振るっている剣。これがまず、異常である。
それは、剣身だけで身の丈を超えている長大剣、いや長大剣だった。
重量は人の子供ほどもありそうだ。しかも、大陸で使用されている、クレイモアと呼ばれる大剣よりも、四、五割増しで長い。
これには、おもわず使用者の頭を疑わずにはいられないことだ。
そもそも、クレイモアという武器は、一撃で全身鎧ごと人の身体を叩き斬ることを目的として製作されている。そう、されてはいるのだが、この長大な剣は、まさしく異常だった。
──まるで、人を馬ごと斬り殺すためにつくられた、斬馬剣のようである。
そのような凶悪な代物を、騎士は流麗に、舞うかのように振るっていたのだ。
傍目には、木剣でも振るっているかのような軽やかさで銀光がはしっている。その空間だけ、重さという概念が抜け落ちてしまったかのような錯覚さえおぼえる光景だ。
空気を裂く鋭い音さえも、素人の耳には鞭のそれと勘違いできる。
それは、ひとつの極地に達した──殺戮の舞であった。
騎士が動きをとめたのは、それからどれくらい時がたったころだろう。
これほどの剣を振るっていたにもかかわらず、ほとんど汗をかいておらず、息すらあがっていなかった。
しかし、そこに満足げな雰囲気はなく、これほどの動きをみせた騎士の顔は沈痛に歪められていた。
これほどまでに剣を極めて、まだ不服なのか。
いや、違う。
騎士は、悩んでいたのだ。それが少しでも晴れるかと思い、剣を振るっていたのが、いっこうに気は晴れなかったのである。
「今日で、百人目か……」
吐息のように、そうもらした。
この者の名は、オーフィス・ミルティラ。
シェルマータ国、元第一王女に仕える、聖騎士であった。
現在では王妹となった彼女に引き続き、付き従っている。
そして、オーフィスの仕える王妹こそが最古の国シェルマータが誇る、戦姫。三年前の内乱を収めた立役者である。
だが、その立役者も二年前、兄である第一王子が王として即位してからは魔界に一番近いと噂されるこのシュラトーの森に引き篭もっているのであった。
それゆえに、戦姫と呼ばれた彼女はいまではこう呼ばれている──シェルマータの獣姫、と。
そう、この間の森内に存在する離宮は姫の住家なのである。そして、それを守護するのが、たった一人の護衛者である聖騎士オーフィスの役目なのだ。
王妹に護衛者がたった一人なのか。そう言われることもままあるが、姫自身が戦姫と呼ばれるほどの人物であり、さきほどの技量をもつオーフィスがいれば、護衛としては十分。そもそもがここは魔の領域であるシュラトーの森。常人であれば近づこうとも思わない。守りの点は万全と言ってよいのだ。
だが、それでも、問題はあるのだ。
それが、いまオーフィスを悩ませているのである。
それは、女官──姫の世話をする者がいないことである。
だがそれは、無理もないことなのだ。
なにせここは、魔界に最も近いとされるシュラトーの森内部である。魔の領域、人の法が及ばぬ魔獣の森。入ったは最後、生きて出ることはかなわぬ、不帰の森である。一歩でも踏み込めば、魔獣の餌食にされ、骨さえ残らぬと噂されている。先も言ったとおり、常人であれば、まず入ろうと思う以前に、近づこうとさえ思わない場所だ。
離宮のすぐそばに城壁があり、すぐにでも逃げ込めるというのは慰めにもならない。ここはすでに魔の領域内なのだから。
そういった理由があり、どんな女官を連れてきても、つとまった例がない。どんなに辛抱強い娘でも、二日ともたないのだ。泣きながら、他へ移してくれと懇願するはめになる。
まあそうであろう、豪胆と噂されるシェルマータ兵士でさえ、姫の護衛として三日もたなかったのだ。
だが、護衛の点は先に言ったとおり、問題はないのである。
問題なのは、姫の世話をできるものが、一人もいないということである。
オーフィスも努力はしたのだ。
世話ができるものがいないのなら、自分がしようとも思い実行もした。
だが、結果は散々なものだったのだ。
世話を焼けば焼くほど、部屋は散らかり食材は無駄になる日々だった。
そうオーフィスは剣の腕は確かだが、家事などの生活能力全般は壊滅的なのだ。
それに、家事は女の仕事であると、自分を慰め、その言葉にさらに自己嫌悪におちいった。
姫などは、最初から女官もいらないし、護衛も必要ないと言っていた。
実際に、姫は身につけるもの、口にするものすべてを自分で用意していた。
森の中に入り、魔獣をしとめ、その毛皮をはぎ、衣服にする。生肉を平気で食べるし、冬があけたこの時期ならば離宮で過すことすら稀である。
だから、護衛も、女官もいらない。そう公言していた。
だが、そういうわけにもいかないのが王家というところだ。なんとしてでも、姫のそばに護衛と女官をと、奔走している。その意見にはオーフィスも賛成していた。姫ともあろうものが獣同然の生活など、もってのほかだ。
そうこうしているうちに、姫が魔の森内に住み、二年の歳月が流れた。
そして、今日──記念すべき百人目の女官がここに派遣されるのだ。
そのことが、オーフィスを悩ませている。今回は何日もつだろう。王宮内では、ここに送られることを、島流しと揶揄するという。
考えていると、さらに鬱になりそうで思考をとめた。
そろそろ、女官長があたらしい女官を連れてくる時間だ。
長大な剣──トゥヴァイハンダーを鞘におさめた。それを腰にさすと、彼は出迎えるために、城壁の門前まで続いている石畳を歩いた。
ちょうどよいタイミングだった。
姫が魔の森に住むようになってから作られた裏門が開き、二人の女性が出てくるところだった。
一人は、すでに中年の域をすぎていた。白髪まじりの頭をきっちりと結いあげた小太りの身体つきだった。
服装はなんの飾りもない白一色の衣装だ。裾は長く、首をまるく切り、ぴったりとした袖が手首までを覆っている。
それは、女官の衣装だった。彼女はそれに加えて、肩に徽章をかけている。
女官長である証だ。
彼女の名は、バーサ・ベティーナ。
シェルマータ王宮の女官の長であり、肝っ玉母さんとも呼ばれる女傑である。
あらゆる女官の中で彼女ほど尊敬できる人を、オーフィスは見たことがない。
そして、彼女の隣にひっそりと佇んでいるのが今回の生贄──もとい、こちらに送られることになった女官だろう。
まだ若い女性だった。十代半ばから後半、どうみても二十歳はこえていまい。
すらりと背が高く、淡い栗色の髪を三つ編みに結って背にたらしている。ぬけるような白い肌と、灰色がかった大きな蒼瞳が特徴的だった。ぱっと華やかな印象はないが、儚げで美しい少女だ。
彼女はこちらに気づくと、しずかに頭をさげた。
その際、金色の光が眼の端にうつった。
よく見ると彼女は左の耳に鈴をかたどった耳飾りをしていた。耳たぶから極細の鎖につながれていて風鈴のように揺れている。
オーフィスは少女にならって、かるく頭をさげた。
女官長であるバーサも、深々と頭をさげた。
「この者が、本日より姫さまのお世話をさせていただきます」
少女はうながされて、再び頭をさげた。
「ソフィア・ウル・シエリタと申します」
鈴をころがしたような、涼やかな声だった。
「オーフィス・ミルティラだ。よろしく頼む」
それに、オーフィスも簡単に自己紹介をかえした。
こちらに派遣されてくるからには、姫さまのことや自分のことなどは教えられているだろうが、名乗りを返すのはひとつの礼儀である。
バーサがそれを待ち、あらためて口をひらく。
「こちらのことは、きちんと言い含めておきましたので、どうかよろしくお願いいたします」
そう言ってから、ソフィアにむきなおって、その肩に手をおくと、
「気をしっかりともつのですよ」
そう励ました。ソフィアはうつむきながらも、はい、としっかりと答えた。
そして、そっと肩を抱くと、裏門から人の領域へと帰っていった。
少女は静かにそれを見送っていた。
彼女が帰るための門は、いま閉ざされたのだ。それをいつまでも見つめていた。心細いだろう、魔獣が蔓延る森に置き去りにされることは。その細い肩が、それに耐えるかのように震えていた。
オーフィスはこの瞬間が、大の苦手だ。
どう声をかけていいか、いつも悩む。もう九十九回も繰り返しているのに、いっこうになれることがない。
ひどいときには、扉が閉まった瞬間に泣き叫び、許しを請うということもあった。
それをなんとか宥めながら、離宮へと向かうのだが、そんな娘が一日もつはずがない。
いくら、この離宮の周囲は安全であるし、姫さまたちは、お前を喰ったりしない、と言い聞かせても無駄だった。
そんなことを百回ちかくも繰り返せば、苦手にもなろうものだ。
さて、この少女はどうだろう。
儚げに佇み、細い肩を震わせながら俯いている。栗色の髪が影をつくり、その表情をうかがうことができない。
オーフィスは意を決して、声をかけようと、一歩踏みだした。
その瞬間だった。
「うふっ……うふうふっふふふふふふ──あはははははははは──っ」
彼女の肩の震えが、大きくなったと思ったら、いきなり笑いだしたのだ。
初めてのパターンにオーフィスは踏みだした足をとめた。
あまりの恐怖に気でも狂ったのだろうか。
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