第255話 ねじれた手札 5
「我らの命は任務遂行の為にのみある」
「失敗は許されない。それ即ち死である」
「全てを捨てよ。全てを諦めよ。任務の為に無私であれ」
「そして全てを捧げよ。デルヴァンの為の礎であれ」
そう刷り込まれ続けてきた。やがて立場が上になるにつれ、この文言を擦り込む側になった。
また自らも、染みついた言葉に導かれる様に尽力し続けてきた。任務の遂行を第一に考え、その他の一切を捨てた。
そのつもりでいた。
首尾良く標的を暗殺をした父は追手に見つかり、全身に十以上の矢を受けて絶命した。
幼少から苦楽を共にした同期は痕跡を残してしまい、自ら毒を飲んで夜の川に浮いた。
頭ひとつ抜けて見込みがあった教え子は想定外の事態に見舞われ、一兵卒に斬り伏せられた。
馴染みある顔が当たり前の様に命を落としていく現状に気付いたある日、微塵も動かなくなっていた自らの感情に気付いた。改めて周囲を見回すと、構成員達は例外なく淀んだ目をしている事にも気付けた。
死んでしまった心を抱え、言われるがまま人を殺め続ける一生。
…まるで操り人形ではないか。
初めて暗殺者稼業を俯瞰で見下ろしたその日、シュナイゼンは永い時を経て造り上げられた惨状に愕然とした。
「元老院からデルヴァン十将に推挙をいただいた。ガウロ将軍との面談を経て、近いうちに正式に任命される」
そう報告しても、向かいに座る幹部達の顔色は変わらない。
「元老院の急進派を始末したのは、依頼ではなかったのですね」
「そうだ」
短く応じたシュナイゼンは、幹部達を順に見やる。
「我らは早晩、歴史の表舞台に立つ。血塗られた宿命に未来永劫従う必要などない」
「良いのですか?」
幹部の問いかけにシュナイゼンは返答しなかった。
連綿と人を殺める事のみがこれまでの彼らの人生だった。それがなくなるとなれば、感情をほぼ失っていても、以降の日々に不安が募るのだろう。
「…その様な馬鹿げた話があってたまるか」
呟いたシュナイゼンの拳は、これ以上ないほどに固く握りしめられていた。
あの日から、ギルドを救う事だけを考えていた。それを成し得るのは、長たる自分だけだという自負もあった。
そして今。同胞への油断が過ぎた後悔を、シュナイゼンは歯噛みする事すら出来ずにいた。
殆ど死に絶えたはずの幹部達の感情。そのわずかに残された熱を持つ部分が、長である彼を死なすまいと、この異空間に縛り付けている。麻痺した身体は、ほんの指先さえも動かせない。
だが意識は保たれていた。そして、聴覚もまた、鮮明に。
「…先に…行き…ます」
「どう…か…宿願を」
「…ギルドに栄…光…」
いっそ鼓膜を潰してしまいたい衝動にかられながら、シュナイゼンは構成員達のわずかな断末魔や末期の呟きを聞かされ続けていた。
違う。
望んだのはこれではない。
これではまるで意味がない。
何故だ。
どうしてこうなった。
止めろ。
同胞をこれ以上、殺めないでくれ。
…やめてくれ…!
シュナイゼンの心を、どす黒い絶望と怒りが、なみなみと満たしていく。
「攻め続けよ!数は変わらずこちらが勝っている!賊は疲弊しているぞ!」
鞍上からの小隊長の鼓舞に、周囲の部下達は勢いづいた。
奇襲による山道の崩壊でおよそ四割の兵が命を落としたが、それでもナツェルト駐留軍の数は千。
たった二百の襲撃者達がいかに手練れとはいえ、交戦時間が長引けば長引くほど消耗は激しく、数の優位はあからさまになっていく。
前後から槍で刺し貫かれた襲撃者が、大きく目を見開いたまま倒れ込んだ。肩で息をする兵士達は互いに顔を見合わせる。
「ようやく…か。何人殺られたんだ、一体…」
「こうしてる場合じゃない、次だ!」
「第五小隊にはまだ敵が三人いる!急げ!」
他部隊を救援すべく踵を返した兵士の一人は、その背中を凄まじい悪寒に襲われた。何事かと反射的に振り返る。
そこに立っていたのは新たな襲撃者だった。長身痩躯のその男は、先ほど斬り伏せた亡骸をじっと見下ろしたまま動かない。
周囲の兵士達もまた、唖然としたまま動けずにいた。先ほどまで誰もいなかったわずかな場所に、何の気配も前触れもなく男が現れたのだ。
「…また冥府で会おう」
呟いた男は、その両手を音もなく、大きく左右に広げた。
「ネアト、エヴォン…喰らい尽くせ」
ぐしゃりと嫌な音を立てて、血しぶきが陽光に舞う。二度、三度とその不快な音が重なり、悲鳴が連鎖して山間に響き渡った。
男の傍らで猛威を奮っているのは、影から現れた二頭の獣である。
豹を二回りほど大きくした様なその身体には一切の体毛がなく、また、目や鼻もない。ぬるりと伸びた首筋の先にある不釣り合いなほど大きな口には、たった今新たに犠牲になった兵士の上半身がくわえられていた。
「…っ、この化け物が!」
果敢にも斬りつけた兵士の剣が獣の胴に吸い込まれるが、手応えはまるでない。呆然とする彼の頭を、獣の牙が無惨にも噛み砕いた。
「新手の刺客だ!油断するな!」
対峙する男の底知れなさを即座に理解したナツェルト兵達が、素早くその包囲を広げる。だが、長身の男から発せられる異質な空気が、その場にいる全ての人間を一歩たりとも動かさない。
二頭の獣を従えたシュナイゼンは、自らに向けられる敵意を意に介さず、静かに首を回した。
古い街道は爆破によって前後が塞がれている。斜面を伝って山を登り切れば逃走は可能だろうが、影術をもってすれば追いつく事は容易い。つまり、逃げ場はないに等しい。
斜面には土で拵えた足場、またこの山道自体も瓦解寸前の状態を氷で繋いでいる。三虎の一人、ローギンダールの仕業と見ていい。そして殆ど溶け出していない氷の状態から察するに、まだこの戦場で指揮を執っているに違いない。
視界の確保、戦況の把握、そして援護射撃。山間の戦闘では高所ほど有利になる。
「となると…上か」
斜面を眺めたシュナイゼンは、その一歩を踏み出した。襲撃者の歩みを止めようと、少しずつ包囲が狭まってくる。
「うわぁぁぁ!」
息詰まる圧に耐え兼ねた兵士の一人が、手にした槍を突き出した。
それが惨劇の始まりだった。
正面から槍を噛み折った獣は、息をもつかせぬまま兵士の右半身を鋭利な爪で深く抉る。ぐるりと頭を回し、シュナイゼンの右を囲っていた兵士達の頭を次々に噛み砕いていく。
左に従う獣は、脇腹に噛みついた兵士の身体を大きく持ち上げ、ぶんと首を振って崖下へと放り投げた。
漆黒の肢体を雷撃の魔法が射抜くが、微塵も効いた様子のない獣は大きく跳ね飛び、魔法を用いた兵士を爪で無惨に叩き潰す。その間に首を伸ばし、震えている兵士の左半身を噛みちぎる。
「ぎゃあああ!」
「ほ、包囲を広げ…ぐぶ」
「ひいいい!た、助けて!」
「痛いよ、痛い、いた…」
薄青い朝の空をつんざく悲鳴と断末魔の中、兵士達の血を全身に浴びながら、シュナイゼンは氷と岩で出来た山道を歩き、斜面へと足をかけ、ゆっくりとしたその歩みをひと時も止めない。
「射手方、撃て!」
合図と共に放たれた無数の矢が彼を狙う。だが、大きく跳躍した二頭の獣の身体に吸い込まれた矢は、ただの一本も矢傷を負わせられない。
「く、来るぞ、おい!」
「逃げろ!早く!少しでも離れろ!」
「散開だ、総員散開!」
大量の血が大地に吸い込まれ、折り重なった兵士達の亡骸が転がる。
その元凶たる長身の男が粛々と迫る様に、腰を抜かした兵士はカタカタと歯を震わせた。
「し…死神だ…死神が来た…!」
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