第254話 ねじれた手札 4
「お前のそれは既に出来上がっておる」
仄暗い部屋でダンサラスは眼鏡を上げ、向かいに立った少女を見つめて続けた。
「これ以上、屍術が手を入れる余地などない」
「…お姉ちゃんは?どうなるの?」
半泣きの少女は、汚れた長衣の裾を強く握りしめる。
「どうもこうもない。そのまま、お前と共にあるのだろうよ」
「そんな…折角ここまで来たのに…」
少女は静かに涙を流しながらしばらく震えていたが、やがてとぼとぼと部屋から出て行く。
静かになりかけた部屋に、入れ違いに姿を現したのはレジアナだった。
「読み終わったよ、魂魄滞留法」
「そうか。では次は実践だな」
何事も無かったかの様に淡々と話すダンサラスに、レジアナは入り口を振り返る。
「…さっきの子供は?」
「お前と同じ、屍術を学びに来た」
「あんな幼子が?」
ダンサラスの返答に、レジアナは驚愕を禁じ得なかった。
彼が住まうこの居城は、西大陸の南端を走る巨大な断崖からしか訪れる事は出来ず、また、その中にも無数の死人や魔物が蠢いている。
レジアナも場所を突き止めるだけで三年、ダンサラス本人に会うまでに何度となく挫折しては出直している。
およそ十歳にも満たない様な女児が、たった独りで来れる場所ではないのだ。
「結論から言えば、その必要はなかったが」
「…どういう事だい?」
レジアナの問いかけに、ダンサラスは分厚い書物を開くと目を落とす。
「あの子供は姉を亡くしておる。だがその魂は、今も傍にいながら、彼女を危機から守っている…らしい」
「らしい…」
「こちらからの働きかけには一切応じんのだ。そもそも、実在しているのかも明らかではない。その姉とやらの存在を感じ、意思を疎通出来るのはあの子供だけ…」
やはり淡々と話し続けたダンサラスは、そこで一度、大きく溜息をつく。
「どれほど屍術を追及したとしても、稀にこういった説明のつかぬ事象が突きつけられる。これだから死との対峙は止められん」
酷く雨の強い夕暮れ。
遂に屍術を習得したレジアナは、降りしきる豪雨の下を晴れやかな気持ちで歩き出した。
その彼女を草むらから見つめていた少女は、気付かれない様、距離を空けながら小走りに駆けて付いて行った。
”お姉ちゃん、お願い”
言葉にする必要などない。ただ強く思うだけで、傍にいる見えない姉が意思を汲んでくれる事を、ネネイは知っていた。
姉からの思いもまた、言語で返ってはこない。だが感覚として、姉が言う事を聞いてくれたかどうかが不思議と分かる。とは言え、断られる事など殆ど無いのだが。
今も勿論、姉はネネイの思いを快諾してくれていた。これで崖から身を投じたルベルの命はどうにか助かるだろう。
将軍は言うに及ばず、同期や上下からも信頼の厚い彼は、ナツェルト駐留軍の要に思える。ここで失われて良い存在ではない。
こうしている間もネネイは剣を振るい続けた。襲撃者達は次から次へと押し寄せる。流麗且つ残酷な斬撃は、兵士の間を縫って執拗に命を刈り取り続ける。
「やぁぁっ!」
気合と共に放った斬撃を宙返りでかわした襲撃者は、素早く前方に手をかざした。近くの木の枝がするする伸びると、馬の後ろ脚を締め上げる。嫌がって大きく身体を揺らした馬上から、耐え切れずネネイは肩から落馬してしまった。
「く…そっ」
すぐさま身体を起こしたネネイだったが、そのわずかな隙を見逃す相手ではない。傍で斬り結んでいた黒装束が地面に転がる彼女に気付くと、相手の斬撃をかわしざま、手にした短刀をその背に振り下ろす。
だが次の瞬間、乾いた音を立てて襲撃者の手首がねじ曲がった。苦痛に身を屈めるその間にネネイは態勢を整え、肩から深く襲撃者を斬り払った。
”ありがと、気付けなかったよ”
普段通りに小さく感謝すると、ネネイはもう一振りの剣を腰から抜いた。二刀を手にして低く構えた彼女に、襲撃者達はじりじりと後退して距離を取る。
一歩、踏み出した時だった。手にしていた二振りの剣が突然、手にしていられないほどの凄まじい重さになる。
「え?!…あ!」
あまりに予想外の出来事に、不意を突かれたネネイはそのどちらをも取り落としてしまった。地面に転がるはずの剣は、音も立てずに影の中へと沈んでいく。
「なるほど、影術…ってわけね」
背後や付近で、同様の光景がいくつも見られる。兵士や傭兵達は自慢の武器を手から影へと奪われ、丸腰で襲撃者達と対峙する羽目になってしまっていた。
「皆、気を付けて!手にした武器は奪われるよ!」
使役された地の精霊が剥がし飛ばす岩片を、眼前に構えた両手でどうにか弾きながら、ネネイは必死に叫ぶ。
「いや副長!そうは言っても、どう気を付けたら良いんです?!」
「私も…杖がなくては魔法が唱えられ…きゃっ!」
「分かんないけど、とにかく!」
言うが早いか姿勢を低くし、一気に詰め寄ったネネイは、その拳を下から撃ち抜いた。あまりの衝撃に、白目を剥いた襲撃者の身体がしたたかに浮く。
だが、これでは何の解決にもならない。素手での近接戦闘が得意な者がこの中にどれほどいるだろうか。ましてや、その技量で相手の命を絶てる腕がある者となれば尚更だった。
手近な木に素早く駆け寄ったネネイは、その枝をへし折って握った。だが、その途端に凄まじい重量が手首にかかり、やはり取り落とす。
顔をしかめたネネイは、襲撃者の猛攻をかわしながら馬へと駆け寄り、荷袋を引っ掴むと再び駆け出した。
短刀、ナイフ、ランタン、ロープ。手にしたものは何であれ次々に重みを増し、足元の影へと吸い込まれていく。
「副長!今は何やっても無駄だ!」
武器を持たない傭兵達が防戦を続ける中、突然、地面の影が大きく燃え上がり、悲鳴を上げた人影がその中から躍り出た。全身を炎に包まれ、もがいて転げ回る。
「…危なかったぁ…」
荷袋の中に持っていた唯一の魔具を思い出したネネイは、一か八かそれに賭けてみた。吸い込まれる振動で発動した炎の宝珠は、影の中で紅蓮の炎を巻き上げたのだった。
「これは…予想外だな…」
荒く息をするローギンダールは、対峙する暗殺者を強く睨んだ。視界の先にいる黒装束は悠然と佇んでいる。
「ふんっ!」
気合と共に伸ばされた槍の穂先が暗殺者を貫く。だが先ほどまでと同じ、手応えはまるでない。
伸びた槍が戻るまでにローギンダールに迫った暗殺者は、手にした短剣を振るう。間髪入れず飛び退いたローギンダールだったが、その胸は鎧ごと切り裂かれていた。
「魔具、か…とんでもない切れ味よ」
この程度の傷など薄皮一枚。どうという事もない。自らにそう言い聞かせながら、ローギンダールは思索を巡らす。
影から這い出たこの暗殺者には、こちらの刺突や斬撃は悉く手応えが無く、反面、向こうの攻撃は自分に傷を成す。その仕掛けが分からない。
懐に潜られたローギンダールは、矢継ぎ早に繰り出される攻撃を必死に槍で受け止め続ける。だが執拗なまでに押し込まれ、足元が大きく滑った。
「しまった!」
手にしていた槍を、襲撃者の足が蹴り飛ばす。仰向けに倒れた老将に跨り、襲撃者は腰を下ろした。必死に下から抗う右手を押さえて刃を振り上げた時、襲撃者の視線はふとその左手に向けられた。
「応じよ!」
大地に触れていたローギンダールの左手から瞬時に、大地を覆う影まで浸透するほどの強い冷気が放たれた。振り上げられた刃が止まって大地に落下し、同時に襲撃者の姿が掻き消える。
「やはり…中にいたか…」
深く溜息をついたローギンダールは、ゆっくりと立ち上がった。
襲撃者は影が創り出したまやかし。その本体は影の中から短刀のみを操っていたに違いない。
「まぁ…それが正しいのか、確かめる術などないが」
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