第185話 濁りゆく平穏 2
鋸壁を片手で掴んだまま、リュンは身を乗り出して遥か下を見た。体格こそ似ているが、頭を割って息絶えている男の顔は、ラナロフには似ても似つかない。
「幻術…精神魔法の一種だよ。しかも相当に洗練されてる」
投げかけられた言葉に踵を返したリュンは、歩き去るギャラルに追いついた。
「君ほどの手練れをしてそう言わしめるなら、すぐに見破れなかったのも致し方ない…と考えるべきなのだろうな」
「うん。結局見抜かれたとはいえ、一時でも僕を欺けたのは大したもんだよ。あの男自体からはそれほど強い魔力を感じなかった。
…多分、術式自体が長い時間をかけて磨き抜かれてるんだよ。少しでも素養があるなら誰にでも扱える様にね。ちょっとやそっとじゃ、ああはいかない」
臆面もなく言ってのけたギャラルの眼が興味深そうに光った。その隣で口をつぐんだリュンは、彼の言葉が示す解をおぼろげに捉えていた。
他人に成りすます魔法を密かに研鑽し続ける必要のある職務など、自ずと限られてくる。
「にしても…将軍はいつから偽物にすり替わっていたんだろ」
執務室に戻ったギャラルは、主のいない空席の椅子を眺めている。傍らのリュンは問いかけに首を傾げて同調する。
「それは私も考えていた話だ。将軍がこの執務室以外に独りになる時間などない。となると私か君、どちらかの目に必ず触れるはずだが」
ラナロフとギャラル、二人の間で戦を阻止すべく密談がかわされたあの日以来、ギャラルはリュンと自身、双方を交互に執務室で待機する形をラナロフに進言していた。
「だよね…少なくとも、僕がいる間にここを訪ねた人間は普通の来客だった。おかしな魔法の力を感じた事もない。リュンの方は…って、聞くまでもないか」
「私とて修道士、神聖魔法には覚えがある。それなりに魔力を感知出来るはずだ」
机の片隅に置かれた帳面を手にしたギャラルは、書き込まれた第七席の予定に目を通していく。
管轄する商業区の治安維持、指揮下にある兵達の訓練計画、果ては自領の治水工事…三月に一度の十将評議会も含め、めくるめく会合の続くラナロフの多忙な日々が窺えた。
「…ルグラグ補佐官は気付かなかったのかな」
視線を落とすギャラルの疑問に、リュンは片眉を上げる。
「気付いていたなら、何かしら行動を起こすはずだ」
「でもさ、補佐官って常に将軍と一緒に行動してるんでしょ?話す機会だって一番多いはずだし、他の誰より傍にい続けてる。そんな立場の人が気付かないなんて事あるかな…」
十将の部下と言われて、まず民衆の頭に浮かぶのは副官である。有事の際や公衆での面前において傍らに付き従う姿は印象が強く、また実際、現在の十将の多くが、副官を経て将軍から昇格していた。
だが実際、一日の動向計画から煩わしい雑務に至るまで、一切の面倒ごとを担いながら傍で働くのは補佐官である。
通常、彼らは従者として拝命した相手に帯同する。ただ、その相手が国家の運営に関わる合議や会合に出席していた場合は、その限りではない。機密の漏洩を未然に防ぐ為、補佐官達は与えられた部屋で閉会を待つ形になる。
「ザ…ザラーネフ将軍様?!何故このようなところに?!」
アズノロワ城内に幾つか用意されている補佐官達の執務室。西棟のその部屋に突如現れた十将に、部屋中の補佐官達がどよめいた。
「すまんな、驚かせてしまったか。まぁそうかしこまらんでくれて結構だ。少しばかり話したい相手がいてな…ルグラグという補佐官は?」
気安く問いかけるザラーネフの言葉に、一同の視線が一斉に部屋の奥へと注がれる。日当たりの良い窓際の席で、おずおずと線の細い女性が立ち上がる。
「え、はい…あの…私ですが…」
「君がそうか。少し話を聞きたい。…向こうの部屋を借りても構わんか?」
差し示した隣室から、補佐官達が大慌てで出払う。その間、ザラーネフはルグラグの様子を盗み見ていた。下へと伸ばした左腕を右手で何度もさすりながら、俯いた顔色はすこぶる悪い。
「あまり警戒しないでくれるとありがたいのだが」と前置きしたザラーネフは、椅子を彼女に勧めると、自らも机を挟んでその向かいに腰掛けた。
「単刀直入に伺いたい。ラナロフ殿は今どこで何をしている?探したのだが見つからなくてな…少々、困っている」
「…どこに、と申されましても…存じ上げません。しばらく…お暇をいただいたものでして…」
視線を自分の膝に落としたまま、ルグラグは今にも消えてしまいそうな小声を漏らす。
腕を組んだザラーネフは、彼女の置かれた状況を悟った。付き従う事が第一義であるはずの補佐官が行く宛てもなく部屋にい続けたのだ。同僚達からの無言の圧力や耐え難い視線に晒され続けてきたのだろう。
「…何か失態でも?」
「いえ、断じてその様な事は…私には、この職務しかありませんので…」
ザラーネフが重ねた問いかけに、ルグラグは首を大きく横に振る。かすれた声は変わらず細いままだが、否定の語気は幾分か強い様に思えた。
「いつから帯同しなくて良いと言われている?」
「前回の十将評議会が終わってからです…もうふた月と十日経ちます…」
うめく様に漏らした彼女の中の何かが、大粒の涙となって堰を切った様にこぼれ始めてしまう。
「私が…いけなかったのでしょうか…何か…ラナロフ将軍の不興を買ってしまう様な…不躾な物言いなど…知らずにしていたのだとしたら…」
「ルグラグ補佐官」
ザラーネフは膝に手を置くと、机を挟んだ補佐官を真っ直ぐ見つめる。
「この度の申し伝え、ラナロフ殿に何か事情があっての事と聞いている。極めて個人的な話ゆえ、理由は後で話すとも。よって、気を落とす必要など皆無だ。再びいつ声がかかっても良い様、充分な支度を整えておくのが、今の君が為すべき事だと俺は思う」
ザラーネフの地声は大きく、また声色は温かい。作り話を模して朗々と響いた激励は、ルグラグの中で大きく膨らんだ自責を軽くし、隣室から聞き耳を立てる同僚達のつまらない憶測を削いだ。
「…ありがとう…ございます…勿体ないお言葉…」
「そろそろ泣き止んでは貰えないか…女性に泣かれるのは慣れていなくてな」
苦笑いしながら席を立ったザラーネフは、勢いよく扉を開けた。慌てて取り繕う補佐官達の中央を笑顔で通り抜ける。
「では、俺はこれで。仕事の邪魔をして悪かった」
補佐官室を出たところで、ザラーネフの足は自然と止まっていた。
将軍位とは、連綿と重なる公務によって毎日を塗り潰される激務である。その管理全てを担う補佐官を、ふた月以上も帯同せずに執務を行うなど、およそ考えられない事態だ。自分の様に雑な性分だったとしても、とてもではないが捌ききれるものではない。
「…何がどうなってる…?」
呟きながら廊下を歩き出したザラーネフの耳に、背後から小声の会話が聞こえてきた。
「ルグラグ補佐官が何も知らなかったとしたらどうする?」
「その時はその時だよ。先ずは将軍に一番近しい人から話を聞かないと」
思わず振り返った目の前で、二人の男が補佐官室の扉を叩こうとしていた。そのうちの一人の顔に、ザラーネフは見覚えがあった。
「そこの二人…すまんが、少し話を聞かせて貰えないか」
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