アヌビスとシャロットの女

吉祥寺で飼われている犬は不幸だった。

犬はある夫婦に飼われていたが、夫は家に寄り付かず

妻は非常に気まぐれで、ほとんど犬に関心を払わなかった。


雨のあけた夕暮れ、犬は一日中ミシンに向かっている女の家を抜け出し、見知らぬ街へと走って行った。

ピンク色の空に藍色がまじりあい、ビルの合間に見えるはみごとな黄金色。

その黄金に向かって、犬は心細さと胸の痛みを振り払うかのようにがむしゃらに走っていった。


今日という日のこの夜に出会えるものならなんでも特別であるように思えた。


(河の両辺に横はる 大麦及びライ麦の長やかなる畑地

さて 此の畑を貫いて 道は走る 多楼台のキャメロット城へ)


 犬は路地裏でゴミを漁っている黒い犬を見た。

黒い犬は犬に餌を分け与えると

「今だけだ、這いつくばってゴミをあさるのは」

と言い、来るべきアヌビスの到来について告げた。


アヌビスとは黒い犬の姿の神で、暗き夜に訪れてはすべての犬の鎖を解き放ち、楽園でとこしえに安らぎを与えてくれると言う。

黒い犬の語るそれは、真に夢物語のような輝かしいヴィジョンだった。


(あはれ まだひとりだに真心を傾けて此の姫にかしづく騎士もなし

此のシャロットの妖しの姫に)


 それから犬は毎日、餌をもらってから黒い犬の元を訪れた。女は引き留めようともしなかった。

世間知らずのこの女は、犬を放し飼いにする危険性についてすら知らないのだ。

毎日ミシンに向かい、カタカタ、カタカタと奇妙な音楽のように規則的なリズムで、夢のように美しい刺繍を織り込んでいた。


 レースのカーテンが春の気配を運ぶ風に吹き上げられ、まるで不意に時計の針を見たときのように一瞬、世界は止まり、また永い時間をかけてソファで休む女の髪の一房を撫でていく。

女は夢を見ている。ほんの一瞬でありながらも、はるか高き高原の朝露の一滴のように、凝縮されたひとときの夢を。その夢はいつも必ず一点で終わっていた。

厚き胸の男が女の前に現れ、女はたまらず仕事を放り出し男に駆け寄って行く。

その先はわからない。ミシンのホビンのように少しずつすり減りながら同じ夢を繰り返すだけだ。


(影のような生活には疲れ果てた)


「きみの飼い主を見た」

 ある暗雲立ちこめる夜、黒い犬は言った。

「きれいな家に住んでいる、きれいな女性だった。

 幸せそうに、とても美しい刺繍を編んでいた。

 あんな家があるきみがうらやましい」

犬はぼんやりと女を思い返した。

しかし、本能がそれを斥ける。

 清潔な家、春の日差しに咲きこぼれる花々、さらさらと流れる長い髪の美しい妻と仕事熱心な夫。

犬が飼われるにこんなにも理想的な住まいはないだろう。しかし……

「あの女は恐ろしい女だ。とても気まぐれなのだ」

犬は嘘をついた自分の顔を見られたくなくて、バケツに鼻をつっこんでまさぐった。


黒い犬には何も語るまい。語れば自分の愚かさと忠義のなさを知らしめるだけだ。自分は犬なのだから、誇り高くありたいのだ。黒い犬の友に値する犬でありたい。せめて、そう思われたいのだ。


「私には楽園に見える。アヌビスのもたらす王国があれほどに美しくあったらとすら思う。きみにとっても世界は恐ろしいか、あのような家があっても」


(今や呪いは降りかかりぬ)


 雨が降り出した。

 2匹は寒さに身を縮め、狭く、臭く、不快な路地裏にへばりついていた。

不意に、ああっ、とがうめきがあがった。

「こうしていると、いやなことばかりが思い出されるようだ」

かぶりをふりふり、黒い犬が言った。

「どこでも追い払われてきた。そうでなければとらまえようとされた。

仲間も少しは出来たが、みんな病気や事故で死んでいった。

人は誰でも、私を病をもたらすものとして扱う。

そして、それは、事実だった」

黒い犬の息は荒く、苦しそうだった。

「ああ、悲しい……悔しい。体が震える。牙は今に抜け落ちる。

夢を失い、生きるしかばねとなったこの私に神は光までも奪おうというのか。

どうか、私を慰めてくれ。そばにいて、私から光を奪わないで。アヌビスは来るのか?」

 誇り高かった黒い犬が、今やみすぼらしく震えながらすがりついてくる。犬は一瞬躊躇した。友のそばにいれば、いずれ自分も忌み嫌われ、追い立てられくちはてるだろう。

自分が死ぬとき、そばにいてくれる友があるだろうか。

愛などとうにないけれど、仕えるべきあるじなき日々に耐えられようか。

かつて注がれた女の優しい眼差しが脳裏に浮かぶ。

愛のない生、否、女の愛をもう一度受ける希望と決別した生。


しかし、いやしかし。

 犬は戸惑いながらも黒い犬のまわりを守るようにうろつき、やがて静かに言った。

「アヌビスは来る」

 聞いてか聞かずか、黒い犬はそれきり息を発しなくなった。


 夜、都内のすべての飼い犬が鎖より解き放たれ、アヌビスを先頭にその領地の冥国に赴いた


冥のくらさに犬どもは道を見失ったが、やがて薄明かりにぼんやりと浮かび上がった芥子の花畑を見つけ、疲れ切った犬は眠った



    

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