第3話
「これ随分変わった見た目してるな」
いつまでもチケット料金の話をしていても楽しくないので一旦そのことは忘れて水族館を満喫することにした。
「チンアナゴ、珊瑚礁外縁部の砂底で暮らしてるアナゴ科の海水魚」
「へぇ詳しいな、じゃあこれは?」
「待って調べるから」
「ウィキ音読してただけか、俺の感心を返せ」
普段食い物としてしか見ていない魚類をまじまじと見るというのは不思議な感覚だ。
食べてるのは一部だろうけど、グロテスクな見た目の奴が多くて複雑な気持ちになる。
いつの間にかさっきまでの緊張もだいぶほぐれ、いつも通り会話ができている。
「見てオオカミが居るー!」
女児が後ろから俺の方を指指してそう叫ぶ。だがそんなはずはない、今は完全に人の姿のはずだ。それにこれだけ大勢の客が目撃者になったらさすがにまずい。
全身を雷が落ちたような衝撃が支配し、からだが動かない。
「オオカミじゃなくてオオカミウオでしょおーちゃん!」
「オオカミウオー! こわーい!」
オオカミウオ? 魚の名前で指していたのは俺の前にある水槽の中に居たオオカミウオという魚のことだったのか。
「はぁ……」
肩の力が抜けてその場に崩れ込む。
「……久遠?」
「少し照明に目が眩んだだけだよ」
「そう……よかった」
「心配かけて悪い、ちょっとトイレ行ってくるわ」
伽々里から逃げるようにしてトイレに駆け込んだ。
鏡に写った俺を念入りにチェックしたがちゃんと人間だ、ただの杞憂だったみたいだな。
「おいあんたが伊織ちゃんの彼氏って嘘だろ?」
その声はサングラスコートか?バスを降りてから居なくなったと思っていたが、俺が一人になるのを狙ってたみたいだ。
「嘘じゃない」
「デート見ててもぎこちなさすぎるんだよ」
「あ、あれはお前がずっと監視してるんだ。こっちだって緊張してしょうがないに決まってんだろ。それよりそんな格好してないで出てこいよ」
こうなったらこっちだって言われっぱなしでは居られない。ちゃんと問い詰めてやる。
「ちょっ……」
「イ、イケメンだと」
嘘だろ。こんなことするような卑屈な奴だからどんな奴が出てくるかと思えば、爽やかイケメンが出てきた。
「か、顔は置いといて……俺だってあんたに言いたいことあるんだ。振られたんなら大人しく諦めろ。お前がいくら断っても諦めない
せいで伊織がどれだけ怖くて辛い思いしてると思ってんだよ。そりゃ告るのだって勇気が居るだろうけど……振る方だって神経すり減らしてんだよ。あろうことかデートしてる所を尾行? ふざけんじゃねぇ。調子に乗るのも大概にしろ。伊織にそこまでさせる権利なんてお前は持ってない」
自分でも言い過ぎているのはわかるが、ヒートアップした口は自分でも制御できない。
声も気付けばだいぶ大きくなっていたし、他の人に聞こえてないといいけど。
「ヴぇ……だっでぇ……だっで納得いかないじゃないっすか。伊織のこと小さい時からずっと好きで……。やっと勇気出して告ったのに断られたりいつの間にかもう彼氏居るわでぇ……。俺だってこんなことよくないってわかってたですけど。でも悔しくで、あなたならきっと伊織を幸せにしてくれるって信じてるんで……彼氏として大切にしてあげてください」
言えねー。仮初の彼氏ですなんて口が裂けても言えねー。
なんで懺悔するの、ねぇなんで急に反省するの。なんで俺を認めるの?
ずっと悪い子でいてよ、まだ素を出すのははやいと思うよ。ずっと俺を憎んだままで、恨んだままで、妬んだままでいて欲しかった。ナイフ片手に後部座席で呪いの呪文を唱えてて欲しかった。
だってそっちの方がよっぽど心が楽だから。号泣しすぎて過呼吸になりかけてるせいでまるで俺が泣かせたみたいになってるじゃん。返す言葉も見つかんないし、この子置いてここから去ってもいいですか?
「……とりあえずこれで涙拭けよ、せっかくのイケメンが廃るぞ」
「ありがとうございます……でも持ってるんで大丈夫です」
「そう? 名前は?」
「板橋来人っす」
「じゃあ来人、いい人見つかるといいな。せっかく格好良いんだから」
「ありがとうございます。伊織が待ってるのに引き止めてすいませんでした。俺もう帰るんで気兼ねなく楽しんでください……それじゃあ!」
早口でそう告げて走り去っていく来人の目には大粒の涙が零れ落ちたように見えた。
「——恋愛って残酷だな」
伽々里の元へ戻り、来人が格好つかなくならぬよう、トイレで起きたことを一部省略して話した。
「——ってな訳なんだけど、もう続ける理由もないしこのまま解散する?」
「そっか……でもボクはまだ久遠と一緒にいたい」
「わか……そうか」
わかった。そう言い切ってしまうことを俺自身が拒んだ。
来人が帰った今、このデートを続ける理由はないと思っていた。しかし伽々里が続けたいというからには仕方ないとそう思った。
それなのに俺は複雑な心境に、この状況に耐えられそうにない。
もちろん俺も、来人が居なくなったおかげでこの状況に不満なんてひとつもない。
でも来人の伽々里への思いは決して軽い気持ちなんかではなく、熱意も愛も痛いくらいに伝わったきた。
でも実質的にその気持ちを諦めさせたのは他の誰でもない俺の言葉だ。
なのに本当の彼氏でもない俺が彼氏面で一日伽々里とデートすることを許していいのか? その一日のデートすら来人は長い間焦がれ続けたというのに。
そんな可哀想なことがあるか。
俺が伽々里に対して感じているこの気持ちは、まだ決して恋と呼べるものではない。
それこそ来人と比べれば俺なんて足元にも及ぶはずもないだろう。
伽々里は容姿もいいし、気も使えて優しい。好きか嫌いかで言えば間違いなく好きだ。
でも多分今日伽々里と接して感じた気持ちはきっと恋愛感情なんかじゃない。
あんなのはただ可愛い子とデートしているという、その状態が気持ちよかっただけのばかな俺の勘違いだ。
このまま最後まで伽々里と遊んでしまうことは来人に対する裏切り。あいつの伽々里への想いに対する侮辱。
「ごめん……やっぱり今日はもう帰らないと」
「そう。じゃあボクも帰るね」
気まずい空気のまま並んでバスに乗り、バス停に着くと伽々里は複雑そうな様子で逃げるように走り去っていった。
「どうしたら誰も傷付かずに済んだんだろ」
布団に横たわり、ふと考える。
俺は来人を諦めさせる為に偽装デートの彼氏役として伽々里の頼みを聞いた。
最初は来人が悪いと思っていたけどそれは違った、あいつも伽々里と同じ側、被害者だったんだ。
好きになってしまったのも振られたのも、それでも諦めきれなくてあんな行動をしてしまうのも、ダメだとわかってても止められなかった。
だから伽々里が悪いわけでも、来人が悪いわけでも、誰が悪いでもない。
もちろん人を好きになることが悪いわけじゃない。全員が被害者だから、だからこそどうするのが正解なのかが俺にはわからない。
「でもなんで伽々里は来人じゃダメだったんだろ」
来人にはルックスも愛情も十分だったし清潔感もあった。
それにきっと伽々里のこと大切にしてくれること請け合いの優良物件だと思うのに。
こればっかりは伽々里のみぞ知ることだから、他者がいくら考えようとも答えは出ない。
「あーもう難しすぎて学校のカレカノ持ちに頭上がんねー」
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