うつになった理由ーリーフと私の旅

想夢みさ

第1話 自殺未遂と幕開け

19世紀の時代、ダーウィンは、こう述べたという。世界は、進化と自然淘汰の法則で成り立っている。その環境に馴染めた種だけ、生き抜くことができ、現実に適応できなければ、生き抜けないのだと。本当にこの世が適応力の強いものが生き残り、弱いものが淘汰されていく世界だったら、私は絶対に生き抜けない。一番に負けて死んでしまうのが、きっと私だから。


私は病院のベッドの上で目を覚ました。

これが現実なのか、それとも夢なのか、わからない。しかしただ一つわかっている事。それは、動物のように人間を恐れ、人間に支配されているような感覚。そして、もう一つ、抗えない法則や規則に支配され、自分の存在が消えてしまうような感覚。

それとともに、私はベッドの上に横たわる自分を見た。どうやら私は自殺を図ったようだ。


何もない病室に、たった1つ私の持ち物が枕元に置かれている。私の大事にしていたくまのぬいぐるみは、私がここに運ばれてからも、ずっとそばにいてくれたらしい。彼女の顔は当たり前だけど、泣きもしないし、笑いもしない。でも今は、なんだか悲しそうな顔をしている。なぜだろう。私が悲しいから、そう見えてしまうのだろうか。かわいそうに日の光に当ててもらっていない彼女は、ホコリを被っていて、頭についているリボンも少し濁った茶色に変わろうとしていた。

彼女の手を握ろうと手を伸ばしたが、それは鉛のように重く、伸ばしかけた手は彼女と交わることなしに、ベッドの端に置かれただけだった。


トントンと部屋のノック音が聞こえた。

私はその音に、動物のように怯え、襲ってくる捕食者に残っているほんの少しの力で立ち向かおうとするかのように、反射的にドアの方を注視した。

「みささん、目を覚まされたようですね。良かったです」

部屋へ入って来た初めて見る白衣の医師は、どうやら私の名前を知っているようだ。

「少し体が痛むかもしれません。ゆっくりしていてくださいね。くれぐれも、色々なことを考えないように」

医師はそう言って、部屋を出て行った。

部屋の窓から入ってくる朝日の光が、妙にまばゆくて、自分の心に合ってない。でも、一生懸命私に働きかけて、消えてしまった心の明かりを灯してくれるかのようだ。


果たしていつからここにいるのだろう。


ベッドの上では、天井しか見ることが出来なかった。右に少し首を捻ると、「ロンドン医療病院」と書かれた小さい文字が見えた。私はそれを見ると、ここにいる理由が走馬灯のように頭の中に駆け巡り、恐怖が止まらなくなった。


ある日を境にして、私の信じていた現実が、一気に真逆の世界に変化した。


海外のブランドの花柄ワンピース。白地にピンクのアクセサリー。そして足元には、ヒールのある赤い靴。若い女の子なら誰でも憧れるだろう、高級品。私は、晴れたその日に、久しぶりに、東京の表参道に出かけた。大通りを1人歩いていると、通りに建つ高級デパートのショーケースに並んだ流行の海外ブランドの洋服が並んでいるのを見つけた。私はそれらに目が引き寄せられ、2年前、ここへ引っ越してきた時よりも、それらが今日は、とても綺麗に私の目に写った。それを着るモデルは、まるで自分と一体化したかのように、当たり前のように買うことを私にせがんできた。これを買えば、幸せになれると教えてくれるかのように、その洋服を着たモデルは誰よりも輝いて見えた。そのモデルのように現実が輝いてはいない私は、そのショーケースの中に佇んでいるモデルを信じてみたくて、私はその高級店へと足を入れる。近くで見る彼らは、ショーケースの中で見るよりも、生き生きしていた。可愛い服が良く似合い、この世に生まれて来て良かったと心から思っているかのように、綺麗で人生を楽しんでいるかのようだった。私は衝動的に、花柄のワンピース、アクセサリー、赤い靴を全てクレジットカードで購入した。その時の行動に迷いは全くなかった。一日にして貯めていた貯金を全て使い果たし、それと同時に、高揚感が高まり、まるで自分自身の身体のような形を纏った運命のようなものから、自分が抜け出せたような気持ちがした。まるで夢の中にいるようで、現実感さえなかった。

「ありがとうございました。またお越しくださいませ。」

店員さんから見送られ、私はウキウキとした気分で、大きなショッピングバックを左手に持ち、その店を後にした。


しかし、その一時的な幸せは、長くは続かなかった。衝動的なショッピングは私を幸せというよりむしろさらに不幸にした。銀行の預金残高は一気にゼロになり、代わりに借金を抱えた。幸せになろうと、お金をつかったのだ。しかし、お金をつかっても、幸せは続かなかった。この渦を巻くような矛盾した法則に支配された世界で、私は行き場をなくしてしまった。現実は、どう自分で足掻いても、良くなっていなかった。何かする度に、悪くなる一方だった。私は、まるで渦を巻く海の中に飲み込まれているようで、出口のない、冷たい、人のいない場所にたった一人取り残されたようだった。そして、お金を使うことと引き換えに与えられたものは、大きなショッピングバッグに入ったブランド服と、将来への不安、失望だった。


記憶が頭の隅をかすめると、思い出したくないというかのようにパニックになり、ベッドの上で頭を覆った。何もない病室で、見えない敵から隠れるかのように、自分の頭を覆い、身を守ろうとする反射行為をした。怖くて怖くて仕方がなくて、うす暗い将来を見たくなくて、しばらく毛布を被り蹲っていた。私の頭の中で、誰かが、この世で最も愚かでバカな選択をしたのだ、と私に囁きかけていた。そう、その後、たしか私は、前に医師から処方された抗うつ薬を水で一気に大量に飲みほした。そして、私はその何か正体の分からない黒いものに引っ張られたように、大学の寮の自分の部屋から、飛び降りようとした。部屋から下を見た時の景色がとても鮮明に蘇った。私は自殺を図ったということが、頭の中に記憶として鮮明に浮かび上がった。


しばらくして、私のやったことを客観的に見つめることができた時、ただ何もない天井を眺めていた。大学で心理学を学んでいるから、これを心の病ということくらい知っている。そして、私は報酬が欲しい動物のように、本能的に快感を求めていた。動物も人も、報酬が貰えると、とても嬉しい。罰が与えられると、とても悲しい。報酬は、ドーパミンという神経物質を増やし、快楽を感じる。私にとって、まるで、有名ブランドの服を着た主人公のような気分がそれだ。ドーパミンの快楽は非常に依存的で、効果が切れると、人はその快楽を求め続ける。しかし、それは長くは続かない。借金をしてまでも得たその異常な高揚は、現実を反映した途端、一気に下降し、その快楽を求め続けることさえも不可能であるということを暗に意味していた。


病室にある一つ窓から、右肩を下にして横になったまま、私はふと外を見つめた。頭の中で渦巻くこの現実に支配されていると、外は雨が降っていた。ちょうど、雨に打たれている草むらに、一本の花が咲いているのが自分の目に入った。とても気持ちが悪い。草と花は命もないのに、雨をたくさん浴びて、気持ち良さそうに生き生きしている。自分よりも、もっと。生きているもの全てが気持ち悪くて、毛布を頭から被り叫んだ。


ベッドで横たわっている私の頭の中で渦巻く声は、まだ消えない。選択を間違えたのだと馬鹿にする声。自分に対する消えろという心無い声。どうなったって知らないという自己中心的な声。止まらない全ての否定的な声。動くものはなんでも、私にマイナスのことを囁きかけて来る。

母は、小さい頃、私にこう教えてくれた。”雨が降って雷が鳴ると、神様が怒っているんだと。この世界の裏切り者たちに、神様が怒っているのだと。お天道様が出て、夏晴れの天気が続いた日には、神様が喜んでいて、植物が実り、美味しいお米が食べられるように、みんなに贈り物をしているのだと”。そして、年を重ねるにつれて、この言葉が現実に根ざしたものでない事に徐々に気づき始めた。真っ白な心が大人になるにつれて、経験が増えるほど黒ずんできて、もういっその事消えることのないほど濁った色に変化してしまった。

いいことをしても、雨も太陽も、私の味方はしてくれない。私は、どちらも苦手だ。雨が降ったら、それを栄養にしている植物が気持ち悪い。太陽が晴れれば、捕食をしに行く動物と人間が恐ろしい。私にとって安全な場所は日光も雨も、そして生き物も入ってこない自分の部屋だけだ。


もちろん見舞いに来る友達も彼氏も親もいなかった。誰にも、今の状況は話していない。当たり前だけれど、全てに怯え、慄いている私に近寄って来るものは何もない。私の苦しみという現実を知っているのは、ただ一人私の病院の担当医師だけだ。しかし、人間は自然治癒という大きな力を持っているらしく、ゆっくりとまるで死人のようにベッドで寝ている私は、徐々にエネルギーを溜め、自分の力で歩けるまでに回復した。

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