名門、春櫻樹 - 紫恩.1
半田君の後に続いて教員室の御簾を捲ると、少しコーヒーの香りがした。
「キンショーせんせぇー、納富くん連れてきたよ。」
部屋の中は他の教室と違って全て板張りで、普通の高校の職員室みたいだった。腰くらいまでの高さのキャビネットで区画分けされているようで、四角い区画が3つづつ、2列で並んでいる。半田君は、そのうち一番近くの区画に一人だけいた教師へ声をかけた。
広い肩幅にがっつりと筋肉が乗った男性教師で、いかにも体育会系な見た目だ。彼は事務椅子に座ったまま振り返ると、半田君へ困ったような半笑いの笑みを向けた。
「おお、来たか半田。でも、ちゃんと敬語使えよー?教員室の中だけでもいいからよ。俺が
「えー、他の先生いないじゃないですか。大丈夫ですよー。」
へらり、と笑い返しながら席へ近づく半田君の後ろに続く。
「まぁ、気をつけろよーっと、君が納富紫恩だな?吉備からよく来たな。俺は
先生は半田君へ適当に返しつつ、こちらへ右手を差し出してくれる。
「の、納富紫恩です、よろしくお願いします!…えっと、先生も花守、なんですね?」
握り返した先生の右手は、深い紫の花模様で覆われていた。模様はぐるぐると巻きつくように肘のあたりまで続いている。
「おう、俺はスミレの花守だな。まぁここで花守じゃない教員は、事務やってくれてる連中5人だけだ。」
そう言うと、先生は握手していた俺の手を改めて両手で握って、しげしげと眺め始めた。
「にしても、こいつは凄いな…。後受けでこれだけ広範囲に御印が出てる奴なんて、俺は初めて見たぞ?」
「それ、うちに来た花園社の偉い人にも言われました。普通は線が1本、花模様が1輪あるくらいだって。」
少し気恥ずかしいけれど、凄いと言われて悪い気はしなかった。実際、俺の手は両手とも、手袋でもしているかのように
「えー、そうなの?」
気になったのか、半田君は俺の左手を取ると、吉国先生の顔と交互に見比べながら目を瞬いている。
「あぁ、お前達に道徳と礼儀教えてくれてる、
先生は俺の手を離して、半田君に答える。それを聞いて少しホッとした。
「春櫻樹って先触ればかりだと聞いていたので…先生は後受けの方もいるなら、ちょっと気が楽になりました。」
「ハハッ、確かに生徒は君以外先触れしかいないな。あと、先触れで教員になるような奴がそもそも…あー、あんまり多くないんだよ。
少し緊張が緩んだところで、半田君に左手を目の高さまで持ち上げられた。
「ねぇねぇー、キンショー先生。納富くんの御印ってどれくらい凄いのー?」
「うーん、そうだな。御印が広範囲でも、本当に凄いかは花雲次第だな。」
その言葉に、少し気になっていた事を聞いてみる。
「あの、今更なんですけど、『はなぐも』って俺よく分かっていないんですけど…」
花園社の人からは「花が与えてくれる力」だと聞いていたけど、いまいち想像が出来ない。先生なら詳しく聞けるだろうか。
「ん、そうか。後受けって事は、まずその辺の説明も要るな。…じゃあ、明日はそのあたりの基本的なところの講釈して、クラスへの合流は明後日だな。すまんが、俺はどうもそういう説明が苦手でなぁ。」
忘れてたわー、とばかりに笑顔で後頭部を掻く先生に、本当に大丈夫かと心配になる。半田君が俺の手を離して、吉国先生を半目で見ながら溜息を吐いた。
「…あー、納富くん。他に気になることあったら言っといた方がいいかも。先生こんな感じだし。」
「おい半田、失礼だぞ。俺だって後受けの訓練生は初めてなんだよ。」
半田君の言うように、少し聞いてみたほうがいいかもしれない。
「えっと、とりあえず俺はこの後どうしたらいいんでしょう?」
「おう、そうだな…今4時過ぎか。とりあえずは寮に向かってくれ、荷解きもあるだろうしな。」
ちらりと卓上の時計を確認して、指示をくれる。
「
「えっ、5時半までって、かなり短いですね。」
思わず驚きが口から出てしまった。花守に関係ないことは、あまり積極的にやらない方針だろうか。
「うーん?結構時間あるよー?3時間くらい。」
「はい?!」
半田君の言葉に更に衝撃を受けた。午後2時半には授業が終わる学校って、何だ…?小学校でもそんなに早くないと思う。
「ねー、先生…納富くんの入学書類って、僕らのと違うのー?」
「悪い、転校手続きは花園社の
急に吉国先生からの視線が、申し訳なさそうなものになった。どうやら不手際があったらしい。
「まず、春櫻樹だけでなく、花守訓練校は午前と午後の1日2時限制だ。1期生と2期生は、通常の高校の単元も少し入るが…3期生以降の訓練生は、花守としての能力開発がほとんどになるな。」
2時限制というのは、春櫻樹だけの特殊ルールではないらしい。先生は机の引き出しを開けて、ごそごそと何かを探し始めた。
「なるほど…。」
「ま、授業が2時半に終わるのはウチくらいだけどな。春櫻樹は実践を重視する校風なんだ。同好会や委員会で、花守としての経験を積む事を奨励しているのさ。」
花守の経験を積むとはどういうことだろうか。気になったが、今は先生の説明に集中する。
「んで、活動が終わると全員寮に戻るんだが。今日はそのタイミングで他の1期生に納富を紹介する時間にしよう。」
目当てのものを探し当てたのか、先生が顔を上げ、こちらへ随分と分厚い封筒を差し出してくれる。見れば表面には、『春櫻樹学院 入学者説明会資料』と書かれていた。中にはいくつも冊子が入っている。
「明日1日は別行動だし、顔合わせだけでもしておけば、こいつを読んで分からなかった所とか、聞けるだろ?3月の入学直前説明会で配った奴だから、全員同じものを持ってるはずだぞ。」
「ありがとうございます。すごい厚さですね…。」
「あー、僕もこれびっくりしたー。でも花守についてきちんと説明してくれる、初めての書類だし。すっごく分かりやすかったから、たくさん読んだよー。」
こちらを覗き込んだ半田君が、嬉しそうに教えてくれた。先触れでも、訓練校に入るまでは、花守について詳しく教えてもらう機会は無いそうだ。
「さて、と。じゃあとりあえず寮に行くか。半田、この後暇ならお前も来るか?」
そんな様子を見て、吉国先生は立ち上がると半田君へ声をかけた。
「んー、そうですねー。ここまで来たし、僕も一緒に帰りまーす。ちょっと眠たいし。」
「おい、まだ16時半なってないぞ…。午前もお前寝てたんだから、起きとけよ。」
目を擦り始めた半田君に、先生は呆れ気味だ。
「ま、ついてくるなら、荷解き手伝ってやれよ。6時には寮に全員帰ってるだろうし、納富の紹介するからな。」
それまでにある程度終わるように、と言うと、先生はそのまま御簾の方へ歩いていく。勝手に半田君の手伝いが決まってしまった。
「半田君いいの?先生、話進めてるけど。」
「んー?僕、委員会も同好会も入ってないから暇だし、いいよー。」
そっと半田君へ確認すると、眠そうな目のまま快諾してくれた。
「あー、先生行っちゃう。納富くん、行こ行こ!」
「あ、うん!」
見れば、吉国先生は御簾を捲って廊下へ出る所だった。慌てて俺と半田君も教員室を出る。
「失礼しましたー。」
「あ、失礼しました!」
教員室の中はもう誰もいなかったが、半田君に釣られて退出の挨拶をし、二人で先を行く先生の後を追った。
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