納富紫恩.4

 紫恩はごく一般的な家庭の出身である。両親と年の離れた妹の4人家族だった。父は会社員で、母は近所でパートをしている。特に裕福ではなかったが、食うに困るような貧乏でもなかった。よって現在の彼は。


 「こんな建物、入ったこと無いんだけど…文化財とかじゃないよな?俺が触って大丈夫なんだよな?」


 見慣れない寝殿造りの学舎の、荘厳な空気にすっかり尻込みしていた。少し背を丸めるようにして敷石に掛かる階段から簀子縁すのこえん、外廊下へと上がる。


 「もー、紫恩くんは大げさだなぁ…大丈夫だよ。というか学校だし。」

 「いや、皐月は1か月でここに慣れたのか?すごいな」


 紫恩の様子を、くすくすと笑って見ていた皐月は視線を合わせると、照れたように頬を掻いた。


 「んー、実は僕もまだ学舎は慣れてないかなぁ。ほら、ちょっと、見え過ぎてるでしょ?落ち着かなくてねー。それ以外はいい所なんだけど…」

 「待って、これなに、何だ…?」


 外廊下に上がった紫恩が顔をあげると、先程まで壁に見えていたはずの場所がひらひら、キラキラと靡くように揺れている。まるで霧を織って作ったしゃのように光るそれは、布というか膜というか、表現し難い素材であった。確かに、皐月の言う通り、磨りガラスを透かしたような具合に屋内の様子が見える。


 「えーっと。確か、学校を作った時に学舎そのものに、『陣』を刻んで壁の代わりになる物を作ったらしいよ。」

 「なんで素直に壁にしなかったんだ…。」

 「それはねー、僕たちの花雲のせいかなぁ。」


 皐月は揺らめいている輝きを眺めつつ、自分の髪に手を当てた。


 「花雲って、御印からほんの少しずつ漏れ出してるんだよね。建物がその影響を受けないように、僕達の花雲を集めて壁の代わりに、あの花雲の御簾みすにしてるんだって。」

 「いやいや、さっきまで壁だったよな…?俺の目が間違ってるのか?」


 納得いかないように皐月を見る紫恩の表情は困惑しきっていた。


 「あー、それは建物に入ったからだねー。階段から上がると[建物に入った]って判断されるらしくて、階段降りたら壁に見えるよ。もっかい見る?」

 「…よく分かんないけど、まぁ、いいか…。降りるのは遠慮しとくよ。」

 「じゃあー、とりあえず教員室に向かうね。今上がってきたここが、正門から1番近い1期生の教室だよー。」


 よく見ると、御簾には等間隔で切れ目になっている部分があり、皐月はそこから中へ入っていく。慌てて紫恩も後に続いた。


 御簾の内側は入ってすぐ板張りになっていて、御簾から2mに足りないくらいの距離に角材の柱が立っている。柱は等間隔で、長方形の部屋の縦に7本、横に4本並んでおり、その内側だけ畳敷きになっていた。


 畳の上には引き出しの付いた座り机が7台ある。奥側の4本並んだ柱を跨ぐ、凄まじい大きさの黒板を向いている事以外は、生徒が好きに置いているようだ。それぞれの机には、個性が伺える座布団が置かれている。


 「はぁー、すごいな…ここ教室なんだな。なんていうか、神社か寺みたいに見える。黒板以外。」

 「だよねぇー。僕も初めて入った時は寺かな?って思ったよ。黒板以外。」


 交わした言葉に、二人は顔を見合わせて笑う。どうにもインパクトのある巨大黒板である。


 「あー、とりあえず教室の中はこんな感じかな。他の教室はちょっと入りづらいから、中に入るのはここだけね。」


 そう言って皐月は紫恩を連れて、入ってきた御簾の隙間からまた外廊下へ出た。


 「あー、そうそう。外廊下は教室1個に2辺ついてるよ。それぞれに敷石がある上り口が3箇所あるから、場所によっては外廊下じゃなくて、地面走った方が早く移動できたりもするんだー。」


 廊下を進みつつ、皐月と紫恩の会話は続く。


 「そんなに急ぐ事があるのか…?」


 欄干の向こうに、大きめの教室が見える突き当たりを右に進む。


 「あるんだよー、休み時間ギリギリまで寝てた時とか。」


 少し進むと、先程見えた大きめの教室の方へ曲がる。教室の隅の大きな柱には、「救護室」と書かれていた。右手側は白い玉砂利ではなく、芝といくつかの草木が植えられた中庭になっていた。


 「それは半田君だけなんじゃないかな…。」

 「そんな事ないよー!他にも走ってる人、見た事あるよ?」

 「それでいいのか、名門校…」


 御簾の向こうに、いわゆる畳ベッドが数台並んでいるのを見つつ、まっすぐ進むと、異様に大きな教室に突き当たる。


 「う、わ。何だこの教室…教室で合ってる?」

 「そうだよー。ここは大教室。訓練生全員が集まる時とかに使うんだよ。上期生は主寝殿って呼んでる人もいるね。」

 「いや凄い広さだな…。」

 「だよねぇー、訓練生全員合わせても39人しかいないのに…。あ、納富くんが来たから40人になったんだっけ。」

 「えっ、春櫻樹って全校で40人だけ?!」


 皐月の言う生徒数のあまりの少なさに、紫恩が目を見開いた。


 「うーん、そうだよ?他の花守訓練校も、そんなに人数は変わらないと思うけど…。どうかしたの?」

 「…なんか、その人数聞くと、改めて花守って貴重なんだと思ってさ。ちょっとびっくりした。」

 「あー、確かに、普通の学校よりはすっごく少ないよね。でも、僕はこれくらいの方が楽でいいなぁ…。あんまり多いと酔っちゃうから。」


 話しつつ、皐月は大教室の外廊下を右に進む。大教室前を抜け、また中庭を右手に見つつ真っ直ぐ進むと十字に廊下が交錯した場所に出た。右前には教室の柱があり、「教員室」とある。


 「はーい、ここが教員室ね。1期生の教室からはそんなに遠くなかったでしょ?」

 「うん、ありがとう半田君。ちょっと迷いそうだけど、これだけ見通しがよかったら、すぐ覚えられそうだよ。」

 「あははー、確かにね。」


 ふわりと笑うと、皐月は教員室の御簾に手を掛けた。


 「じゃあー、先生の紹介をするね。その後のことは僕も聞いてないから、どうするか指示もらおっか。」


 そのまま、皐月はするりと中へ入っていく。今日初めて大人に会うな、等と考えていた紫恩も、少し緊張しつつ後に続いた。

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