納富紫恩.2

 皐月は名乗るとすぐに、踵を返して部屋の中央へ進んでいった。


 「えーっと…納富くん、こっち来て。」

 「あっ、あぁ。」


 呼ばれて、紫恩も色違いの床に踏み込む。すると体や手荷物に『ふわり』とわずかに浮遊感があった。


 「なんか、体が軽い…?」

 「あー。うん、これから飛ぶからね。」

 「え…?!」


 紫恩が疑問を口にしようとした直後、足元の花弁で覆われた床が『ぐらり』と揺れた。まるで床が下から迫り上がってくるような感覚に、思わず膝をついてしまう。床をよく見ると、白に近い薄紅色の桜の花弁が、踝のあたりまで浮き上がっている。踏んでいた花弁が浮き上がってきて、体のバランスを崩したようだった。


 「これ、なんっ、何…?」

 「うーん、大丈夫。あと、立った方が危なくないよ。」


 皐月の言葉に慌てて立ち上がるが、紫恩は足元の感覚が落ち着かないのか、何度も足を踏み替えている。


 「これはねー。ずっと昔にサクラの花守達が作った、浮遊島行きの転移陣らしいよ。」

 「転移陣…」


 皐月は、浮かぶ花弁の下にある床の方へ視線を動かした。ついと指差されたそこには、刻まれた文字にも、図形にも見える『陣』がある。


 「んーと、僕たちが、花から受け取った花雲はなくもをもっと使いやすい形にしたもの…かな?でも、これはもう誰にも読めなくなったんだって。」


 紅桃色の髪がさらさらと揺れる。桜の花弁は、紫恩の太腿くらいまで浮き上がっていて、くるくると春風に巻かれるように飛び交っている。


 「あの、半田君。花弁がさっきより…増えてる気がするんだけど。」

 「そうだねー。あ、この花弁に頭まで埋まったら、勝手に転移されるんだよ。だから、あんまり動かないでね。」

 「そういう仕様なんだ…。」


 どんどん増えていく花弁に埋まっていきながら、紫恩は未知の現象に苦笑する。


 「花守ってやっぱり凄いんだな。俺はまだ祝福を受けて十日くらいだから知らない事ばっかりだ。」

 「んー、僕だって入学して一ヶ月だよ。生まれた時から祝福はあったし、花雲も使えたけど、訓練校で教わらないと『式』や『陣』については分からないからね。」


 紫恩より頭一つ分背の低い皐月は、既に胸の辺りまで花弁の渦に飲まれている。


 「あー、そろそろ転移かな。納富くん、花弁が目元まで来たら目を瞑って。五秒数えるまで開けない方がいいよ、多分、酔っちゃう。」


 分かった、と紫恩が答える間に花弁は皐月の顔を覆ってしまう。一人取り残された形になったが、すぐに勢いに乗った薄紅色の波に紫恩の首元も飲まれていく。皐月の助言通りに目を閉じる。緊張のせいかトランクの持ち手を握りしめながら、五秒を数えた。


 「五…。うわ、マジか…。」




 目を開いた紫恩の眼前には、先程までいた総ピンクの社ではなく、気持ちよく晴れた空と荘厳な学舎があった。山門のような瓦屋根が乗った大きな木製の門には、風雅な書で【日ノ本国立花守訓練校 春櫻樹学院】の文字が書かれている。


 「んーと、春櫻樹へようこそ。納富くん。」

 「半田く…うわっ?!」


 背後からの声に振り向いた紫恩が見たのは、緩く微笑む皐月と、彼の後ろに広がる大空だった。皐月は土地の途切れた端、ギリギリに立っており、半歩でも足を下げれば空に落ちていきそうだ。


 「流石にそれは、心臓に悪いぞ…」

 「あー、ごめんね?ここ、島の端っこなんだ。あんまり来ないからつい覗いてみたくなって。」


 楽しそうな声を上げながら謝罪する皐月には、申し訳なさそうな様子はない。外縁部から京央の街並みをちらりと見下ろし目を輝かせる。名残惜しそうにしていたが、紫恩の方へ視線を戻すと門へ向かって歩き始めた。


 「さぁ、中に入ろっか。見えるところ案内して教員棟まで連れて行くよ。」

 「あぁ、よろしく。」


 皐月に続いて紫恩も門へ向かう。白壁の高い塀を左右に伸ばした門は立派で、装飾のたぐいは無いのにとても美しい。門の前に来ると、皐月は右手でそっと触れた。と、そのまま手が中へ引き込まれるように埋まった。


 「ひっ」

 「やー、ごめん。これ門の形してるけど、膜みたいな物でね。手当てたらそのまま入って。するっと抜けられるから。」


 今日何度目かの紫恩の悲鳴が上がる。固まってしまった彼を置いて、「お先にー」と皐月は門に埋まってしまった。あんまりな置いてけぼりっぷりに肩を落とすが、言われた通りに空いている右手を門に当てた。


 見た目は木製なのに、触るとふにゃりと人の腹のような感触がする。思考が混乱するが、勝手に手が引き込まれるように入って行く。肘まで入った所で、指先が抜けた様な感覚があり、思い切って踏み込んだ。

 全身にふにゃふにゃ、と柔らかい感覚が当たって気持ち悪かったが、足に力を入れて一気に抜け出す。すぐに全身が門の内側に滑り出た。もう体に変な感覚は残っていないが、体を確認してしまう。


 ほっとして顔を上げると、そこには見事な庭園があった。門からまっすぐ伸びた道は、300mほど先まで続いているように見える。道の左右は様々な花が植えられており、綺麗に区画整備されているようだ。道の奥には京央の旧貴族の屋敷みたいな建物がある。平家の建物がいくつも回廊で繋がっていて、ここからでは全容がよくわからない程広がっている。


 「あー、納富くん大丈夫?」


 先に行った皐月はすぐ近くに立っていた。紫恩へ顔を向けて首を傾げている。


 「ちょっと感触が…よく無かったね…」

 「んー、あれもセキュリティらしいから。まぁ、大丈夫ならこのまま案内していい?」


 校内の様子に目を釘付けにしたまま頷く紫恩を見て、皐月は嬉しそうに笑う。そのまま紫恩の目の前へ移動すると、両手を広げて笑顔を深めた。


 「んーと、改めてようこそ、納富くん。僕たちの春櫻樹学院へ。これから5年間、一緒に頑張ろうね。」


 歓迎の言葉に、紫恩はようやくはっとしたように皐月を見る。


 「立派な花守になる為に。」


 心底嬉しそうな笑みを浮かべた皐月の言葉に、紫恩も彼の目を見てしっかりと頷いた。

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