見知らぬ指輪

錦魚葉椿

第1話

 きっかけがなんだったかは思い出せない。


 外出から帰ったら、洗濯物が雨で全滅していた時だったろうか。

 せっかく干した家族四人分の洗濯物が干す前より水分を含んで、つるされたままだったときの脱力感は、それまでの人生の最大値を記録したと思う。

 夫は居間のソファで寝ころんだまま、「雨降ってたよ」と言った。

 降ってたよじゃねえよ。豪雨だよ。

 怒るより先に、雨が降っているのに自分の家の洗濯物を取り込むだけの判断力のない男とどうして結婚してしまったのだろうと、しみじみ己が人生を悔いた。

 来年には消えそうなくだらない芸人のロケ番組は立ち上がれないほど面白いのだろうか。全く理解に苦しむ。


 生活は脱力と失望と殺意の繰り返し。

 滓のように心の底に溜まっていく。

「何が食べたい」という質問に「おいしいもの。簡単なものでいいよ」とスマホを見たまま答えるな。

 会社ではそこそこ部下がいるらしいのに、そんな具体性のない指示でよく部下が動くものだ。いや、部下が優秀だからこんな上司でも成り立つのだろうか。


 夫の実家に行った帰り、カルピスを持たされた。

「ああ、ごめんねえ。そんな変なもんお中元に贈ってきた人がいてねぇ。持って帰ってくれる」

 すいませんねえ、贈ったのうちなんですよ。


「人生ってどこからやり直したいと思いますかあ」

 語尾をあげてモノを尋ねても、まだ気持ち悪いと思われない年の女の子に尋ねられた。中学校、とか高校何年生、とか次々に答えていく女の子達。

「――――どこからもやり直したくないわね」

 しばらく考えて答える。

「すごーい。自分の人生に満足してるんですねえ」

 子供を必死に育ててここまで大きくした。結婚まではともかく、妊娠と出産と育児をもう一度やり直すなんて絶対無理。先が見えないから頑張れたが、私の育児と遺伝子では全力で最善を尽くしてこのレベルの子供なのだ。何回やったとしてもこれ以上にはならないと確信がある。もう一度同じことを繰り返すなんて考えられない。

 未亡人になりたい。

 ちょっと便利な都会の1LDKに住んで、食べたいものを食べたい時に食べ、入りたい温度のお風呂に入って、キジ猫を飼ってきなこと名前を付けて暮らす70代を夢見ている。




 ママ友が、貴金属を売りたいからリサイクルショップについてきてほしいと言うのに付き合った。

 ママ友は、若いころずいぶん素敵な彼氏がたくさんいたらしく、高級ブランドのカバンや貴金属をたくさん持っていた。車から降ろすのを手伝いながら、ああその為の要員だったのね、と納得する。


「あなたも何かないの。すっきりするわよ」

 彼女は気遣うように声をかけてきた。

 一人では恥ずかしくて行けないわ。というのも、自分が主体だったことをカモフラージュするためなんだろうなあと思う。

 ふと、自分の薬指に視線が落ちた。

「じゃあ、これ」

 結婚指輪を外して店員に渡した私を、ママ友は驚愕の目で見た。


 結婚指輪はプラチナでできていたらしい。

 今週の食費ぐらいにはなるなあ。

 プラチナの塊は業務用サイズの漂白剤とトイレットペーパーになって無くなった。

 結婚指輪が指にある安心感はトイレットペーパー在庫12ロールの安心感に及ばない。



「お前、結婚指輪最近してないなあ」

 半年以上、いや一年以上たって、夫はそう尋ねた。

 最近――――いつ気が付いたのだろう。

「売った」

「その金、なんに使ったんだ」

「漂白剤とトイレットペーパー」

 夫はそれ以上なにも言葉を発さなかった。



 その週末、夫は結婚指輪を買ってきた。

 子供たちの前で取り出して、わざとらしくうやうやしく左手の薬指にはめてみてた。

「ママは指輪をなくしちゃったらしいんだ」

「よかったねえ。ママ」

 子供の笑顔を鉄壁の防御に、チラチラとこっちをうかがっている。

 面倒だなあ。ハンバーグこねるときに指輪って外さないといけなくて邪魔なんだけどな。感慨と言えばその程度だった。


 私の指に再びはまった、見知らぬ指輪を眺める。

 彫られた刻印は「Forever and ever」だそうだ。

 あの満足げなドヤ顔から想像するに自信があるお値段なのだろう。

 なにもかも全然趣味じゃない。

 何の感慨も沸いてこない。

 夫になる前の彼氏の部屋で、綺麗に包装された結婚指輪を見つけた時の高揚感を思い出した。あの指輪にも、全然私の意見は採用されていなかったが。



 今頃鋳つぶされて金属に還り、世界のどこかの恋人をつないでいるのかもしれない。









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