第4話 兄と弟

そういうわけで、春は三郎の居城である那古野城に身を置くこととなった。身分は三郎の家臣、池田恒興の弟。なぜ弟かというと、この戦国の世、女であれば政略結婚の種にされてしまう可能性が出てくるからだそうな。自分はまだ12歳なのに!?と驚いたものだが、この時代では14歳やら15歳やらで結婚するというのはなんら珍しいことではないらしい。むしろ、春の時代では30歳ぐらいまで結婚しない人だってたくさんいるのだ、と言えばたいへん驚かれた。同じ国でも時代によって随分常識が違っているものである。

 さて、明日から池田恒興の弟として生きることになった春だが、名を「池田春信」と名乗ることとなった。「俺の名を一文字やろうじゃねェか」という三郎(殿様)の申し出を断ることなどできるはずもなく、あれよあれよという間に名前が決められた。はて、三郎という名のどこに「信」という文字が入っているのかと首をかしげたが、なんと三郎のフルネームは「織田三郎信長」だという。なんていうことだ、この男がかの有名な織田信長だったのである。結婚年齢の話の10倍は驚いた。しかしなるほど、確かに「織田」という単語を何度か聞いたような気もする。大変な有名人の家来になってしまったものだ、昨日までの平凡な生活からは全く想像もつかないことである。

さあ、明日からは新しい生活が始まる。がんばろう。明日に備えて横になろうとしたその時、春は自身の尿意に気が付いた。そういえば、今日この時代に来てから一度もトイレに行っていない。ど、どうしよう。

 話し合いが終わった後、「今日からここがあなたの部屋です。」とこの部屋を案内されただけで、トイレの場所なんて聞いていない。これは困った。とても静かだけれど隣の部屋の恒興さんは起きているだろうか。三郎さんの部屋は知らないし、彼しか頼れる人はいない。漏れそうだからトイレに案内してほしいなどとお願いをするのは情けないにもほどがあるが、背に腹は代えられない。

「つ、恒興さん…起きていますか、!」

「おや、どうされましたか。眠れませんか。」

よかった。恒興は起きていた。障子をあけてこちらに顔を覗かせる恒興は寝間着に着替えたのだろう、先ほどとは違う着物を着ていた。春は制服のままである。このまま寝れば皺になってしまうだろうが、替えの服を持っていないため仕方がない。一応は年頃の女子なので、障子を隔てた部屋に男の人がいることがわかっていて裸で寝るわけにもいかない。

「トイレ…、あ、えっと、お手洗いに、行きたくて、」

「お手洗い…あぁ、厠ですか。場所を教えていませんでしたね、すみません。すぐに案内します。」

合点がいった、と恒興はすぐに廊下をすすみ、案内をしてくれた。以外と遠くにあったため、恒興に声をかけねばたどり着くことができず、間に合わなかったことだろう。恒興のおかげでなんとか粗相をせずに済んだ。春の名誉が保たれて何よりである。しかし、戦国の世のトイレはいわゆるぼっとん便所というのか、用を足すのにいささか、いやかなりの緊張を要するものであった。様式のものに慣れている春は少し足が震えた。あと、単純に暗くて怖い。虫もいそう。怖くてあまりじっくり見ていないけれど。

「ありがとうございました、恒興さん。」

「いえいえ。これからも何かあれば、どんな小さなことでも私を頼ってくれて構いません。」

わたしはあなたの兄ですから。そう優しく微笑むは、どこか嬉しそうであった。

「そうだ、もう眠たいですか?もしまだ眠気が来ないようであれば、私の部屋に寄っていきませんか。」

あなたに渡したいものがあります。そう言われれば、断るのも気が引ける、実際春はまだ眠くない。おそらくまだ、元の時代にいたときにはリビングでテレビを見ているぐらいの時間だ。時計がないので正しい時間はわからないが。恒興に連れられ、元来た道を戻る。そして自身に充てられた部屋の隣、恒興の部屋へと足を踏み入れる。恒興の部屋は春の部屋よりも荷物があるものの、とてもきれいに片づけられていた。

敷いてある布団の隣に、畳んだ着物がいくつか重ねてあった。

「私が以前着ていた着物です。使い古したものですみませんが、この時代に馴染む服がないと困るかと思って。」

よかったら使ってください。と渡された。三郎さんが着ていたものと比べ、とても落ち着いたデザインのものばかりだった。よかった。

「いいんですか?すごく助かります。」

「喜んでもらえたならよかったです。」

「はい、ありがとうございます!」

しかし、春は今までに着物を着たことがない。夏祭りのときに浴衣を着たことがあるが、母親に着付けてもらったものだから、自分で着ることができない。どうしよう、と相談すると、恒興はふむ、では今から少しだけ着付けの練習をしましょうか。今着ている服の上から試しに着てみましょう。と、ありがたい提案だった。

男のふりをする手前、城にいる女性たちに着替えを手伝ってもらうわけにもいかない。そもそも人に着付けをさせられるような立場のものではない。なんせ、殿の雑用係である。自分のことぐらいは自分でできるようにならねば。

と、制服の上から、(多少ごわついてやりにくかったが)何度か着る練習をレクチャーしてもらい、なんとか一人で着ても形になるようになった。恒興様様である。

「こんなもんでしょうか。明日の朝、自分でやってみて、必要であれば私が仕上げをしましょうか。」

「本当に、何から何まで、ありがとうございます…!」

「いいんですよ。弟の面倒を見るのは兄の仕事ですからね。」

ふふ、と恒興はまたもや嬉しそうに笑うのであった。

どうやらこの男、自身に弟ができたことがうれしくてたまらない様子であった。

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