第2話 自殺屋(男)

「ほら…静かにしていると聞こえるでしょ?君を呼ぶ、深淵しんえんの声が…。」

怯える男の目線の先に立つのは全身真っ黒な服装に身を包み、縮れた濡れ羽色の黒髪が額に掛かる程度に伸び、やけに大きな薄灰の瞳をした病的な美しさの男。その男は微笑みを浮かべながらフルートの音色のように柔らかく、しかし心に入り込んで凍らせるような冷たく透き通った声で不可思議な言葉を溢している。

「や、やめろ…そんなの聞こえない…!」

「嘘じゃないさ。ほら…深淵が今も君を呼んでるよ。早く、こっちにおいでって。」

彼がにっこりと満面の微笑みを浮かべた瞬間、怯えていた男から一切の表情が欠落する。座り込んでいた男は無表情のまますっと立ち上がり、「…聞こえた…。」と呟く。その言葉を聞いた彼は頷きながら「うんうん。その深淵は君に何て呼びかけてるかな?」「…早くこっちに来い…って。苦しみから救ってやる…って。」

「そっかそっか。それならもう…やる事はひとつ、だよね?」

男は首を縦に振り、すぐ側のダイニングテーブルに載せられていたテーブルナイフを手に取って首にその丸い刃先を当てる。

「「おいで おいで こっちにおいで」」

彼の声と不可視の声が交差し二重にブレた。その声に導かれるかのようにテーブルナイフを喉に突き刺し、切れない刃先を横にして凄まじいまでの力で首の皮膚を切り裂く。飛び散る鮮血のシャワーを浴びても彼は身じろぎひとつせず、穏やかな微笑みを浮かべたまま男の倒れる姿を見守る。むしろ彼の身体に飛び散る血が、彼の病的な美貌にスパイスのような妖しい美しさをプラスしていた。

「…ふふ、おつかれさま。あと一件で今日のお仕事は終わるから、もうちょっと頑張ってね。」

倒れて微動だにしない男の死体を一瞥すると彼は自分の腹部辺りを優しく数回撫で、そう語りかける。彼の名は…「自殺屋」。

警察や司法の手が届かない闇の世界で対象を「自殺」させる専門の殺し屋。彼の異能は…

クトゥルフ・コーリング深淵からの呼び声』。

その呼び声が聞こえてしまったら最後、もう逃げる事は不可能。その声に従って自殺するしか方法はない…そんな異能から彼は「深淵の支配者」と呼ばれ、同業者からも恐れられていた。

**

男の家を立ち去り、しばらく歩くと今度は大きな豪邸の前で足を止める。窓は黒いカーテンが閉め切られ、その上ブラインドも閉められている周到ぶりで、外観も徹底的に黒い。明らかに普通ではないその家を眺めて彼は満足げに頷き、「ここだよ。さあ、今日最後のお仕事だから、頑張ろうか。」また自身の腹部に語りかけてするりと家の壁をすり抜け、中へと侵入した。家の中は真っ暗で、毛布を被った女がベッドの上で静かに眠っている。彼は女の側に音もなく歩み寄るとその頬に手をかけ、「…君には聞こえる?深淵が君を呼んでいる、声。早くこっちにおいで…って。」またあの冷たく透き通った声で耳元に囁く。女はいきなり目を覚まし、「…聞こえる。」とだけ呟いてキッチンから菜箸を一本だけ持参する。流石の彼も少しだけ困惑したような表情で首を傾げていると女はその菜箸を自身の眼球に躊躇無く突き立て、痛みなんて感じてすらいない様子でかき回して視神経やさらに奥の脳組織を攪拌かくはんする。彼はそんな様子を眺め、唇をかすかに開いた。

「「おいで おいで こっちにおいで」」

彼の声が不可視の声と交差し二重にブレる。

そのまま倒れ込んだ女を一瞥すると彼は腹部を優しく撫でて微笑む。

「おつかれさま。今日はお仕事終わりだよ。さ、帰ろうか。」

足音ひとつ立てず静かに立ち去っていく彼の名は…ジュリア・アレクセイ。裏世界では「自殺屋」とだけ呼ばれる病的な美貌の男。

そして彼は自らの腹部に深淵を飼う、

「深淵の支配者」でもある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る