きっかけ
「志保、今日は一体どうしたんだ?
裕翔も心配してたぞ。自分が何かしたんじゃないかって。」
食事も終わり、「裕翔くん」も部屋に入った後、私は「道則さん」とリビングにいた。
テーブルを挟んで向かい合い、「道則さん」は今日の私の態度がおかしいと指摘をした。
「そんなに体調が悪いのか?」
私はその問いに首を横に振った。
「それじゃあ、何か嫌なことでもあったのか?
と言っても、今日1日は寝ていたんだろう?」
「…わからないんです。」
「何が?」
心臓がバクバクとなっている。
口もひどく乾いて、緊張しているのが分かった。
テーブルの上でぎゅっと手を握り締め、私は口を開いた。
「こんなこと、到底信じてもらえないでしょうし…私も信じられません。
それでも…話さないといけないと思ってまして…」
「志保…?」
「道則さん」の顔を見るため、私は視線を上げた。
そこには、不安そうな表情を浮かべる「道則さん」がいる。
「うまく、うまく話せないんですが…」
そう口火を切って、私は今自分に起こっていることを話し始めた。
私は野中 晃士という男性と結婚し、優衣という娘がいること。
リビングで居眠りをしていたら、なぜか高校時代の夢?を見たこと。
そうして、目が覚めたら全く知らない「道則さん」と結婚していて、息子が二人いるということになっていたこと。
「私は、あなたと結婚したのでしょうか?だけど、私は確かに晃士さんと結婚していたんです。娘もいました。」
「道則さん」は、私の話を最後まで神妙な面持ちで聞いていた。
私との間に、沈黙が流れる。
何かを言うのを探しているのか、それとも私の話を整理しているのか。
それは分からないが、とにかく険しい顔をして押し黙っていた。
そうして、長い沈黙の後、「道則さん」は静かに口を開いた。
「つまり…君は、志保であって志保でない…と。」
とても低い声だった。
「とても、信じられるような話ではないな。」
やっぱり、信じてもらえない…
当然だ。だって、私だって信じられないし、訳がわからない。
「志保、昨日頭を打った時、本当は脳にダメージを受けてしまったんじゃないか?」
「そう…なんでしょうか…」
私は、「道則さん」の言葉に、そう返すことが精一杯だった。
なぜなら、本当に分からないからだ。
「道則さん」と「裕翔くん」の言葉から、私は昨日強く頭を打っていたらしい。
そのせいで、私は記憶を失ってしまったのだろうか?
そのせいで、私は何か勘違いを起こしているのだろうか。
私には、晃士という旦那も、優衣という娘もいなかったのだろうか?
なら、私のこの記憶は、偽りのものなのだろうか…
「志保、明日病院へ行こう。僕も付き添うから。」
「道則さん」が心配そうな顔で私を見つめる。
その真っ直ぐな目に視線を合わせながら、私は「はい。」と頷いた。
「うーん…異常はありませんね。」
この辺で一番大きな総合病院の診療室。
脳のMRIを見ながら、担当医はそう言った。
「でも、妻の様子がおかしいんです。
一昨日脚立から落ちて頭を打っていて。
それで、昨日の夕方から記憶が混乱しているみたいなんです…」
検査の結果を一緒に聞いていた「道則さん」
信じられないとばかりに言葉を放つ。
「ですがね、脳には全く異常はないんですよ。
奥さんの受け答えもはっきりしていますし、出血も見られない。
まぁ、強いて言うのでしたら、頭のたんこぶですが、あくまでたんこぶなので。」
「では、妻の記憶はなぜ混乱しているんですか?」
「うぅん…そうですねぇ。何かショックなことがあったとか。
例えば、精神的に…とかですかね。」
医師が何どこか含みのある言い方をする。
「道則さん」は、その言葉を瞬時に理解し、押し黙った。
「何も異常がないのならばもう結構です。志保、行こう。」
「は、はい。」
「道則さん」に促され私は診療室を出ていく。
お礼のためお辞儀をすると、医師は面倒臭そうにカルテをナースに渡していた。
結局朝早くから病院に来たが、分かったことと言えば、私の脳に全く異常がない。ということだけ。
それは私にとって安心する材料ではあったが、なんの解決にもなっていない。
「道則さん」も同じで、待合室で黙って何か考えていた。
「志保、お昼はどうする?」
私たちが病院を出たのは、お昼をはるかに回った後だった。
「お昼は、そんなに食欲がなくて…」
「そうか…でも僕はお腹ぺこぺこで。何かお腹に入れてもいいかな?」
「はい、もちろんです。すみません、私に付き合わせてしまって…」
一人で行くつもりだったが、「道則さん」はわざわざ仕事を休んでまでついてきてくれた。
正直、とてもありがたかった。
なぜなら、私がいる場所は昨日まで住んでいたところとは全然違っていたからだ。
昨日までは地元岡山のマンションに住んでいたが、私が今いるのは神奈川。
生まれてこの方、岡山以外に住んだことがない私にとって、知らない土地で一人で歩くのは不安で仕方がなかった。
「じゃあ、あそこに行こうか。」
「道則さん」は、近くにあった喫茶店を指差し言った。
店内は落ち着いた雰囲気で、優しいピアノの音が響いている。
観葉植物が座席の近くに置いてあり、それを優しい色の電気が照らす。
「すごく良いところですね。」
私がそう言うと、「道則さん」は、ほんの少し困った顔をした。
「あの、私なにかまずい事でも言いましたか…?」
「いや、その…ここは君と良く来ていた所で…」
「あ…」
彼が何を言おうとしているのかが分かって、私は思わず俯く。
私と彼の間に気まずい雰囲気が漂う。
「ご注文、お決まりですか?」
そんな雰囲気を壊してくれたのは、初老の男性だった。
白のシャツと黒のズボン、青のエプロンがよく似合っていて、にこりと微笑んでいる。
「お久しぶりです、田村さん。」
「お久しぶりです、大橋さん。随分お顔を見ていないような気がしますが、いつ振りですかね。」
「すみません、仕事などで立て込んでまして。」
「お忙しいなら何よりです。暇だといけませんからね。
奥様も、お元気そうで。」
急に話を振られ、私は狼狽える。
どうも「道則さん」とこの男性は知り合いで、私も顔見知りらしい。
だけど、私には一切覚えがなく、どう答えていいのか迷ってしまう。
結局、私は「はい、おかげさまで。」と、当たり障りのない言葉しか言えなかった。
「道則さん」は、その後田村さんと少し会話をした後、日替わりパスタを注文した。
私は、サンドイッチとコーヒーを頼んだ。
しばらくしてやってきた料理はとてもおいしかった。
ただのサンドイッチだが、程よい酸味と辛味が効いていて、それほどなかった食欲が一気に湧いてくるほど。
私はペロリと平らげてしまった。
「道則さん」のパスタもとても美味しそうで、食べたはずなのにお腹が鳴る所だった。
「ふぅ…
志保、これからの話をしようか。」
食後のコーヒーを飲みながら、「道則さん」は切り出した。
「はい。」
「僕はね、昨日からずっと考えていたけど、結局分からなかった。
頭を打ったことが原因かと思っていたけど、それも違うと言われてしまった。」
「はい。」
「道則さん」は、真剣な目で私を見る。
「志保、僕が君を傷つけてしまったのか…?
知らないうちに、君にストレスを与えてしまったのか…?
だから、だから君は記憶を失って…別の記憶を作り出してしまったのか…?」
消え入りそうな声で、「道則さん」は言った。
その声はとても震えていて、心に突き刺さった。
「わ、私は、本当に分からなくて…
だけど、私には確かに晃士という旦那がいて、優衣という娘がいた。
これだけは間違いないはずなんです。」
「じゃあ、君は誰だ?志保だろう。正真正銘、大橋志保だ。
透と裕翔、二人の息子がいて、僕と結婚して。
僕の名前は道則だし、優衣なんて娘はいない。そうだろう?」
「道則さん」は、必死に私に、自分に言い聞かせるように言った。
あぁ、私も不安なように、「道則さん」も不安なんだ。
「昨日までは普通だったんだ。
朝、いつものように君が見送ってくれて…それなのに…」
静かな店内に、綺麗なピアノの音色。
項垂れる「道則さん」に対して、私は何もいうことが出来なかった。
ただ、こんな状況になっていながらも、パニックになっていない自分の事が不思議でたまらなかった。
「ただいまー!」
大きな声とともに、「裕翔くん」が部屋に入ってきた。
時刻は間も無く17時になろうとしている。
「おかえり、裕翔。」
「あれ、母さんもう大丈夫なの?」
「えぇ、病院に行ってもなんともなかったから。
心配かけてごめんね。」
「よかったー!俺、怒らせたのかと思ったよ!」
「ううん、大丈夫。お母さん怒ってないから。」
「よかったー!あ、じゃあ俺今から公園行ってくる!18時までには帰るから!」
「あ、うん、気をつけて。」
「裕翔くん」は、そう言ってまた部屋を出ていった。
玄関のドアが開閉される音を聞いて、私は台所にいた「道則さん」に声をかける。
「今の、大丈夫でした?」
「あぁ、バッチリだったよ。」
そう言ってもらって、私はほっと胸を撫で下ろした。
喫茶店での話し合いはあれから1時間ほどした。
なぜこうなってしまったのかの結論は出なかったが、私たちの間である約束を交わした。
それは、「記憶が戻るまでの間、子どもたちには自然に振る舞うこと。」
ただ一つ、気になることと言えば、「道則さん」は、作り上げた記憶と言っていること。
彼は、私がなんらかの原因で記憶喪失になっていると思っているみたいだ。
だけど、私は
花はいつも誇らしく 大豆 @mame0218
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