現実


「じゃあ、私、今から部活だけど…本当に大丈夫なんだよね?」

「えぇ、大丈夫。ありがとう。」

「…じゃあ、また明日ね。」

「さようなら。」


心配そうな顔をしながら、恵理子は教室を出ていく。

あの後私は、なんとか気をしっかり持って、授業を受けた。

これ以上恵理子に心配をかけたくなかったし、特に体調が悪いということでもなかったから。

しかし、その間も常に頭は今の現状で一杯だった。

それは放課後になった今も変わらない。

ただ、一つだけ思いついたことがある。

信じてもらえるかはわからないが、彼に相談してみるということ。

彼と私は同じ高校だった。

そして、幸いにも今日は平成10年6月7日。

私の記憶が正しければ、この日私は彼に告白される。

私一人では抱えきれないが、彼に相談すれば少しは違うだろう。

あの人は、いざという時いつも私を助けてくれて、信じてくれた。

そういう人だから。

私は、机に入っていた封筒を握りしめて、校舎裏の一本松へと向かう。


「放課後、校舎裏へ来てください」


今より少し幼い文字で書かれた言葉。

あの頃はドキドキしながら待っていたが、今はそれとは違う感情で、彼がくるのを待つ。

名前も何も書いてなくて、本当に誰がくるのか不安だったが、彼がだと分かった時、思わず笑顔が溢れた。

好きではないが、気になる存在。

そんな人が私に告白してくれた。

本当に嬉しかった。

そして、今回は私が今の現状を告白する番。

彼は理解してくれるだろうか?

やはり、少し不安だった。

腕時計を見ると、まもなく四時になろうとしていた。

そろそろだ。

彼はあそこから現れる…


「あの…」


はずだった。

なのに、なぜか後ろから声をかけられた。

しかも、その声は彼のものとは違う。


「え…?」


そこにいたのは、全く知らない男子生徒だった。


「中野 志保さん…ですよね?」

「は、はい…」

「俺、ずっと中野さんのことが好きで…

俺と、付き合ってくれませんか?」

「え…?」


一体どういうこと?

この人は誰?

私の記憶は間違っていないはず。

だって、日記につけてたもの。

今日この日、この場所で彼に告白された。と。

それなのに、なぜ私は彼ではない別の人に告白されているの?

やっぱり、これは現実ではない?

夢という事…?


そう思った瞬間、瞼が急に重たくなって、眠気が襲ってきた。

そして、体の力がスッと抜ける。


「大丈夫ですか?」


目の前の男子は、何故か笑みを浮かべながら私を見ていた。

不意に、花の香りがしたような気がした。




「…ぅん…」


意識が徐々にはっきりしてきて、私はゆっくりと目を開けた。

どうやら、私はいつのまにかソファに移動していたらしい。

あの人が運んでくれたのだろうか?

どうせなら寝室まで運んでくれれば良いのに。

ご丁寧に毛布まで…

と、毛布に目をやった時、私はそれが見慣れないものだと気づいた。

そして、今自分が横たわっているソファ、枕がわりのクッション。

それら全て、買った覚えのないもの。

私は急いで体を起こし、部屋全体を見回す。


「どういう事…?!」


そこは、15年間住み続けた我が家とは違う、全然知らない家だった。

大きなテレビに、お洒落なテーブル。

極め付けは、誰一人として置くことに賛成してくれず、買うのを諦めた観葉植物。

私は何がどうなっているかわからず、ただただ茫然とする。

すると、ガチャッと、ドアの開く音がした。

そして、ドタドタと激しい足音と共に、リビングのドアが開いた。

そこにいたのは、ランドセルを背負った男の子。


「母さん!ただいま!」


にかっと笑顔を見せ、そう言う男の子。


「…え、だ、誰?」


見知らぬ男の子に母さんと言われた。

その驚きのあまり、私はそう思わずそう言ってしまった。

男の子は目をぱちくりさせて、首をひねる。


「どうしたの、母さん。

昨日ぶつけたとこ、まだ痛むの?」

「え…?」

「安静にしときなよ!じゃ、俺今から遊んでくるから!」


それだけ言うと、男の子はランドセルを放り投げ、リビングを出ていく。

そして、またガチャツと扉の開く音がした。

一体、何が起こったのだろう。

確かに、さっきの男の子は私の事を母さん。と言っていた。

しかし、私の記憶では、男の子を産んだ覚えはない。

後にも先にも、私の子どもは娘の凛、ただ一人だ。

私はソファに座ったまま、今の現状を考える。


さっきのはやっぱり夢…?

だけど、あの時、確かに夢ではないと感じたはずだ。

そして、今度は知らない家にいる。

何故…?

これも夢なのだろうか…


混乱する頭を整理しようとするも、謎は深まるばかりだった。

そして、こんなことになるなら、うたた寝なんてするのではなかった。

と、自分を責める。


そうしていたら、ふとテーブルに置かれているスマホが目に入った。

おそらく私のものだろう。

いや、私のものと言っていいのだろうか。

とにかく、考えていても仕方がないので、私は急いでスマホを手に取る。

ロックがかかっているが、0122と入れると、すぐに解除された。

これは、いつも私が使っているロックナンバーだ。

つまり、偶然でなければこれは私、つまり志保が使っているもの。

何かないかと、アルバムを見る。

その中には、先ほどの男の子と、高校生くらいの男の子の写真がたくさんあった。

そして、切長の目をした男性と、笑顔の私が肩を寄せ合っている写真も。

一通り見終わった後、今度はメッセージアプリを開く。

自分のアカウントを見ると、フルネームで大橋 志保とあった。

大橋…全く知らない名前だった。

旦那の苗字は野中だ。

だから、結婚してから私はずっと野中 志保だった。

大橋では断じてない。

どういうこと…?私は、野中 志保じゃないの?

大橋 志保って誰…

持っているスマホに自分の顔が映る。

どう見ても、そこにいるのは正真正銘、私だった。

何故こんなことになってしまったのだろう…

私は、深くため息をつき、大きく脈打つ心臓の音を、ただ聞いていた。


一体どれくらい経ったのだろう。

急に、近くにあったスマホが震え出した。

画面には「道則さん」という文字。

道則…誰かしら…

当たり前だが、聞き覚えのない名前に私はその着信を放置した。

しばらくすると電話は切れる。

そして、今度はメッセージアプリの通知が入った。

また、「道則さん」からだった。


「今から帰るよ。調子はどう?」


恐らくこの人は私の旦那なのだろう。

そしてまた次の通知が入る。


「まだ体調悪いなら、何か買って帰ろうか?」


どうしよう…答えた方がいいの…?

そこでハッと気がついた。

時間は間も無く18時。

恐らく、私には旦那がいて、息子がいて。

そして、この時間に主婦がすることと言えばどこも同じ。

ご飯を作らなければいけない。

でも、私にとってはここは他所様の家庭。

勝手に台所を触るわけにもいかないし、何よりそんな余裕はない。

どうやら私は体調を崩しているみたい。

この提案に乗ってしまいましょう。


「ごめんなさい、まだ体調が悪いの。

夜ご飯、準備できていなくて。」


そう打って送信すると、すぐに返事が返ってきた。


「了解。君の好きなハンバーグにするよ。」

「ありがとう。」


ハンバーグ…私の一番大好きな食べ物。

何故だかわからないが、唐突に私の目から涙が溢れた。


「ただいまー。」

「ただいま!」


「道則さん」から連絡があって30分。

玄関から二つの声が聞こえてきた。

一つは先ほども聞いた男の子の声。もう一つは、低い男性の声。


「ただいまー!腹減ったー!」

「こら、裕翔。お前泥だらけじゃないか。」


リビングに入ってきたのは、やはりさっきの男の子。

顔と手を泥だらけにしている。

続いて入って来たのは、40代くらいの男性。

先ほどスマホで見た人だった。

この人が、私の旦那さん…

スラッと背が高くて、すごく上品そうな方だ。


「母さん、体調は平気?はい、買ってきたよ。」


そう言って、持っていた袋をテーブルの上に置く。


「あ、ありがとうございます…」

「ございます?どうしたんだ、そんな言い方。」

「あ…」


そうだ、私にとって他人でも、この人は一応旦那さん。

敬語は少しおかしいのね。


「なんか母さん変なんだよ。

俺が学校から帰った時もさ、誰?って言うんだよ。

自分の子どもにそんなこと言うー?

俺、超ショックだった!」

「そうなのか?どうした?」

「あ、えっと…ごめんなさい、ちょっと、寝ぼけてたのかも…」


私は思わずそう言って、ごまかし笑いをする。

「道則さん」は、小首を傾げて、袋からお弁当を取り出す。


「まぁ、昨日あんなことがあったんだ。気をつけろよ。」

「え、えぇ。ありがとう。」


「裕翔くん」も言っていたが、どうも私は昨日何かあったらしい。

それを聞こうかと思ったが、グッと堪えた。


「そういば、今日透は?部活か?」


急にそんなことを聞かれ、私は言葉を詰まらせる。

透が誰だかわからなかったからだ。

しかし、ふと写真を思い出し、それが自分のもう一人の息子だということに気づくのに時間はかからなかった。


「さ、さぁ。連絡入ってないか確認してみま…るわね。」


そう言ってメッセージアプリを開く。

「透」のトーク履歴を確認すると、12時に連絡が入っていた。

そこにはシンプルに一文。

今日友達と遊ぶ。ご飯いらない。


「透、ご飯いらないみたい。」

「そうか。透の分も買ってきたんだけどなぁ。」


「道則さん」が、残念そうに呟く。

それを聞いていた「裕翔くん」が、

「じゃあ、俺が二つ食べる!」

とキラキラした笑顔でそう言った。


「お前はとりあえず手を洗ってこい。」

「えー面倒臭い〜。」

「じゃあご飯はお預けだな。」

「それはやだ。」

「じゃあ行ってきなさい。」

「へーい。」


すこぶる面倒臭そうな態度で、「裕翔くん」はリビングを出て行った。

「道則さん」は、せっせと食卓にお弁当を並べていく。


「母さん、食欲は?」

「あ、えっと、少しだけしかなくて…」

「そうか。酷いようだったら明日病院でもいくか?」

「い、いいえ、大丈夫です。平気なので…」

「母さん、本当にどうした?」


「道則さん」が怪訝そうに尋ねる。

言ってしまって良いのだろうか…今のこの状況を。

だけど、私自身何も分かっていないのに、ちゃんとうまく伝えられるのだろうか。


「母さん…?」

「お腹すいたー!ご飯、ご飯!」


手を洗い終わったのであろう「裕翔くん」が、勢いよくリビングに入ってきた。

「道則さん」はじっと私の顔を見ていたが、

「ご飯、食べようか。」

と、声をかけてくれる。

テーブルに置かれたまだ暖かいハンバーグのお弁当。

大好きなハンバーグのはずなのに、口に運んでも、ほとんど味がしなかった。


私は一体どうしたというの…

この人たちは一体誰?

二人の話し声を聞きながら、私は不安な気持ちをじっと抱えていた。

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