カゲコ

 学校に行きたくない。そう思ったのはいつからだっただろうか。今日まで、何とか学校へ行って、何とか一日過ごして、何とか家に帰ってきていたが、もう限界だった。


 そして、次の日。目が覚めたのは登校する時間から、三時間が過ぎたころだった。慌てて布団から出るも、その足が床についた時点で動かなくなった。もう三時間も過ぎてるし、学校に行かなくてもいいか。そう思ってしまえば気が楽になった。毎朝、両親は私より早く家を出るし、今の私を咎める人はいない。チャンスだ。今日は休んでしまおう。


 そうして、次の日も休み、その次の日も休んだ。父も母も体調不良と言えば休んでいいと言っていたが、多分、仮病なのはばれている。




「今日は学校に行ってみたら?」


 今日は母も父も仕事が休みだった。まだ、学校へ行こうと思えば間に合う時間。しかし、心が重く、足はきっと外に出ない。


「お父さんからも何か言ってあげたら?」


 私が顔を下に向けると、母はそう言った。顔を下に向けていた私はその時、父がどんな顔をしていたかはわからない。でも、父が普段はしない厳しい顔をして、学校に行けと言ったようなことを言うのだろうと思っていた。だが、父はしばらく何も言わなかった。


「学校を休むのはいい。だが、引きこもりにはなるな。せめて、午前中に起きて、一日合わせて二時間外には出ること」


 父は私の予想とは違うことを言った。それに、言葉の意味そのものを理解できても、そこに込められた意味まではくみ取れない。


「なんで外に出ないとダメなの?」


 もう、外に出るのも辛い。玄関から先は暗い夜道のように感じる。太陽が出ていようとも、それと同じくらいの不安と恐怖があるのだ。それを父は感じたのかはわからないが、にこりと口角を上げた。


「いきなり外は無理かな。だったら、庭でもいいよ。そこに座って本を読むのでも、ゲームするのでもいい。とにかく、部屋に引きこもるのが駄目だってことだから。庭に慣れたら、さらに外に出てみるといい」


 そうやって、条件を引き下げられると断れない。庭なら塀があるので、外から見られる心配もない。きっと、最大限の譲歩だ。それにこの約束を守らなくても、父はきっと私を家から出したりしない。そう思えば、庭に出るだけと言う約束は守れそうだと思った。


「……うん。わかった」




 父との約束通り、私は庭に出た。久しぶりの太陽がまぶしく、日が肌を照らす。三日引きこもっていいただけなのに、そう感じた。そして、日の光が気持ちいい。思わず、伸びをしてしまう。軽い立ち眩みがしたが、すぐに収まる。父は本でもゲームでもいいと言っていたので、今日は本を読むことにする。学校では休み時間になる度に読み進めていたものだ。引きこもっていた三日間では漫画すらも読まず、ただただベッドの上でじっとしていたので、その本の感触も中々新鮮味がある。読んだところまでの内容は覚えているので、栞を挟んでいたところから読み始めた。


 集中していると時間はあっという間に立つもので、ふと顔を上げて、リビングにある時計を見ると、十二時をすぎたところだった。それを認識するのと同時に腹の虫が鳴いた。母が用意していった昼食を庭まで持ってきて食べる。中々、気持ちがいい。太陽の下で食べると、小学生のころのピクニックを思い出す。いつもと変わらない母の手作りの弁当だが、よりおいしいと感じる。昼を食べ終え、弁当箱を洗い終えた。そのまま、庭で読書の続きを始めた。


 どれだけの時間集中していたのかわからないが、塀の外から女子高生らしき声が聞こえてきていた。聞こえてきた情報だけで言えば、二人ほど。


「カゲコの家はここか」


 自分の名前が入ったその言葉だけははっきりと聞き取れた。庭は玄関のある面と同じ面にあり、玄関の前は塀が途切れている。そこからなら誰でも入ることが出来る。足音が聞こえる。その塀の前に誰かが立っていた。私は視線をその人の足元にやってしまったために顔を確認することはできなかった。確認したくなかった。私をカゲコと呼ぶ人にいい印象がない。いじめられていたわけではないが、そのあだ名にいい印象を抱けず、それを気にしているのを知っているような口ぶりなのに、呼び名はそのまま。いじめと言うには軽いが、気にしないのも無理だったのだ。


「あれ、カゲコ?」


 顔を上げなくても、そこに立っていた人が自分に気づいたのがわかった。さっきまでの楽しい気持ちはそこになく、ただただ怖い。足音と声が近づいてくる。


「いやっ」


 思わず後退りして、腕を自分を守るように構えてしまう。


「ごっ、ごめん。大丈夫?」


 あまりに優しい声に、警戒が弱まる。まるで、母が私に話かけてくれる時のような声だった。ゆっくりと顔を上げるとそこには知っている顔があった。

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