第11話 彼女らしい

 彼女が俺の腕に身を寄せた。

 一度心臓が跳ねたかと思うと途端に耳に音が入ってこず、代わりに彼女の息遣いに移り変わった。全身の毛が逆立ったように感じ、ただでさえ寒いこの季節に俺の体はさらに寒さを感じた。

 ずっとこうしていたかった。

 初めて彼女に会ったことを思い出す。一生忘れない記憶だろうと俺は思う。

 あの頃、入学したての俺は志望校に落ちたという事実を受け止められず自ら学校生活の質を下げ、湧いて出た感情を押し殺していた。

 4か月ほどその状態でぐだぐだと学校生活を送っていた。でも、君に会った。

 くだらない劣等感を理由にして盲目のふりをしていた俺に彼女が赤黒い思想の瞼を腐らす術を教えてくれた。億劫になっていた登校が停滞していた時間を動かす鍵になると考え始めた。

 それに気付いてからは早かった、あの腐りきった学校生活がひどく遠いものに思える。

 あの頃の俺は、このくだらない劣等感を風化させてはいけないと思った。風化させてしまったら外見が同じだけの別ものになってしまう、今までの自分が消えてしまう、俺はそれに恐れていた。きっとそれは間違えではない、なんなら今でもその恐怖感を拭いきれない、でも今は変わっていくことを期待する自分がいる、それだけで眼前に居座る肉片は朽ちた。その先が枯れるかもしれないし、花や実を成すかもしれない、枯れて花や実を成すかもしれないし、花や実を成して枯れるかもしれない。移り変わる季節を君と共に過ごすなら至極どうでもよいことだ。

 思い出に浸るのは今を見つめる俺達には似合わない、もう考えなくていいし、ただの記憶の話はやめにしよう。


「もうすぐ着くはずなんだけどなぁ」

「まぁ、焦らずゆっくり行きましょうよ」

「そうは言うけど、もう4時だぜ」

「うわぁやばいですね、5時間ですか…確かに軽い遭難レベルですよ」

「まぁ、お前が2分くらい歩いたら20分くらい休むのが原因の一つだと思うけどな」

「あなたの方向音痴も三ツ星レストランに出せるほど絶品ですけどね」

「うぐ…はぁ、マイナス二つ掛けたらプラスになるって言ったやつ誰だよ」

「なってるじゃないですか、時間がプラスに」

「いらない誤算だな」

「文字通りですね」


 久しぶりに彼女と言葉を介した、くだらない話で中身もない、でもこの時間がたまらなく好きなのだ。無粋だがこのまま時が動かなければいいのにと本気でそう思った。


「あれじゃないか?」


 くだらない会話からしばらく歩いてやっと目的地が見える、聖地巡礼の気分で展望台を俺は見つめた。それから瞬く間に求め続ける快感を手放す。


「そうですあれですよ」


 もっと喜ぶと思っていたけれど彼女は淡々と歩き続けていた。

 まぁいっか、と俺はそのあとに続いた。

 初めて来た場所ではない、でもこの展望台はいつ見ても新鮮に感じ、いつ見ても不格好に思う。これを登ればあの連なる山脈を見通せるとは思えない。


「この階段意外ときついですね」

「5時間歩き続けたからなぁ」


 螺旋階段を上がる彼女と俺は息が上がる。

 上から漏れ出てくる夕日の光を目指して足を動かす俺たちは、光を求めて飛び続ける羽虫のように盲目的だった。


「わぁ、きれい」

「あぁ」


 風が吹く、彼女の髪が靡く、その髪の毛一本一本が夕日で照らされる。夕日を取り込んだ彼女の髪は、この目に嫌というほど鋭く鮮やかに焼き付く。

 首の骨が固まったようで彼女を見ることしかできない。

 このまま彼女の髪に取り込まれそうになる。


「何ですか?」


 夕日に反射した彼女のルビーのような瞳が俺を捉えて問う。

 気持ちの悪いほどに俺には彼女に対する賛美の言葉しか浮かばない。

 

「…」

「…変な人」


 彼女は再びモザイク柄の街を見下ろす。

 その横顔はひどく彼女らしかった。

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