第2話 それぞれの夢の色

 綾花と陽菜の絵が混ざり合えば美奈子に匹敵するものが出来上がる。そう証明されてから数日間、三人は何度も話し合いを重ね、ついにデザインを決定した。今日は、いよいよ美奈子の絵への描きこみを始める。



 陽菜はすっかり歩き慣れた美奈子の家への道を進みながら、ぼんやりと空を見上げた。

(今日は、雨、かな……)

 どこまでも広がる空は、薄暗い灰色。雲もどこか重たい様子だ。今は雨は降っていないが、降りだすのも時間の問題に見える。


 最後の曲がり角で小さな小石を蹴飛ばして、そこを曲がると。

「あ……」

 思わず呟いた陽菜の声に、そこにいた少女が振り返る。

「あ」

 少女も、陽菜の顔を見て声をあげた。

 肩までの茶色っぽい髪をハーフアップにした少女。ややつり目のその大きな目を、陽菜は知っていた。名前は思い出せないが、たしか、隣の中学校の美術部員だったはずだ。

「美奈子?」

 彼女の手の中にある花束を見て、陽菜はきいた。

 少女は、こくりとうなずく。

「小学校とか塾とかの知り合いにききまくって、家、この辺だって教えてもらったの。ライバルとして、やっぱりお別れはちゃんとしておきたくて」

 陽菜は無言で彼女に歩みより、すれ違いざまについてきて、と告げる。

 美奈子の家のインターフォンを押し、母親が出てくるのを待った。

 少女は陽菜の半歩後ろに立ち、突然「下沢さんは?」と口にした。

「それ、スケッチブックよね?絵、描きに来たの?」

 少女が、トートバッグからのぞく深緑色を指している。

「別に」

 陽菜は無愛想に答える。彼女とは市の合同展示会で数回会ったことがあるが、陽菜とも美奈子とも特別仲がいいわけではなかった。ここへ来た目的を、教える理由もない。

 少女はまた口を開きかけたが、それより先にがちゃりと音がして玄関のドアが開き、どこか楽しげな遥斗が顔を見せた。



「みんな、あの子のために本当にありがとう。あまりおもてなしはできないけど、頑張ってね」

 厚化粧の上に疲れたほほえみをうかべた母親が、四人分の麦茶を置いて部屋を出ていった。

「おばさん、大丈夫かな」

 真っ先に心配そうな声をあげたのは遥斗だ。

 美奈子の死から約三週間。陽菜たちはほとんど毎日ここへ通っているが、母親の表情から疲れが消えたことはない。

「わたしたち、お邪魔しすぎちゃったかな?」

 気後れしたように首をすくめながら、綾花が言う。

「あなたたち、何度来てるの?」

 少女が、呆れたように三人を見た。

「もう一か月弱、かな?でも、日立さんが来てくれるなら、早く終わりそうだね」

 遥斗がにこっと笑うと、少女は少し眉をひそめる。

「私だって万能じゃないのよ」



 少女の名は、日立蘭。水彩画の魔女という異名をもつ実力者で、自他ともに認める美奈子のライバル。玄関で初めて会い、その名に感激した遥斗に誘われて、今日から始まる本番に参加することになったのだ。

 陽菜は、みんなで描いたデザイン画を蘭の前に広げた。

「へぇ、悪くないじゃない。でも……」

 明るい声色で言い出した蘭だったが、最後には言葉を濁す。

「でも?」

 不安げな綾花が聞き返すと、

「この絵自体はすごく素敵なのよ?でも、一ノ瀬さんの卒部製作としては、どうなのかしら」

 蘭は独り言のように言い、あごに手をあてる。

「どういうことだ?」

「三月の展示会で会ったとき、一ノ瀬さん、これまでの私を絵にするって言ってたのよ」

「これまでの、美奈……?」

 遥斗が呟き、部屋中に不穏な空気がはしる。

「一ノ瀬さんのこれまでには、好きな物しかなかったわけじゃないでしょう?」

 蘭の鋭い目に見据えられ、三人は静まりかえった。

「……私たちは、美奈子から夢、大切なもの、大好きなものっていうヒントを聞いてたけど」

「これまでの美奈子ちゃん、なら、確かにこれじゃあだめだよね」

 やっと口を開いた陽菜と綾花だが、その表情は暗い。

「美奈、何を描こうとしてたんだよ……」

 遥斗が天井を仰いでこぼした。

 まさか美奈子が答えてくれるはずもなく、沈黙が四人をつつむ。


「へこんでても仕方ないわ。好きなものづくしの人生はないとはいえ、わざわざ嫌なものばかりを描く必要もない。この絵を、少し変えればいいだけよ」

 みんなを励ますように、無理に明るい声色で蘭が言った。

 デザイン画を自分の方に寄せ、色鉛筆を握る。

「一ノ瀬さんのこれまでを象徴する道を描きましょう。それから、山とか谷とかも描いたらおもしろいかも」

 シャッシャッと色鉛筆をはしらせる蘭に、みんなも少しずつ顔をあげる。

 三人が描いた美奈子の好きなものの間をぬうように、道が描かれていく。平らな道ではない。太さはバラバラで、カーブも急。まるで、なにがおこるかわからない人生のような。

「すごい……!蘭ちゃん、水彩画じゃなくても描けるんだね」

「顧問が熱心な人でね、美術は全般鍛えられたの」

 綾花の歓声に、恥ずかしそうに答える蘭。

 言葉にこそしなかったが、陽菜も同じく、蘭の絵に驚いていた。市の展示会で見た彼女の作品は、色使いが繊細でやわらかな雰囲気があり、美奈子の絵ととても似ていた。けれどそれは、水彩絵の具だからこその表現だと思っていたのに。色鉛筆画で、美奈子にならぶ実力があるとは知らなかった。


 陽菜の胸の中に、じわりと苦いものが広がる。


「できた!どう?こんな感じで」

「おぉ!」

「すごい!」

 十分もかからずに改良されたデザイン画に、遥斗と綾花が感動の声をあげた。

 陽菜も静かにそれをのぞき、思わず目を見張る。

「どう?下沢さん」

 たずねてきた蘭に、こくりとうなずいて答えた。

 絵が一気に華やかになって、これまでがいかに味気なかったかが身にしみてわかる。


 悔しいけれど、彼女の実力は本物だった。


「すごく……いいと思う」

 静かに呟いた陽菜を見て満足そうに笑い、蘭は美奈子の絵に手をのばした。

「じゃあ、本番を始めましょう!」

 バンッ

 大きな音をたてて、陽菜が本番用の絵に手をついた。

「陽菜ちゃん?」

 怯えた綾花の声が陽菜の名を呼ぶ。

 陽菜は戸惑うように数度口を動かし、

「美奈子の好きなものは、私が描く」

 と小さく言った。

「下沢さんと、倉持さんでね」

 かたまってしまった綾花と蘭を見かね、遥斗がフォローをいれる。

 その言葉に陽菜はこくりとうなずき、蘭の手から画用紙と色鉛筆を乱暴に奪い取った。無言のまま、綾花にそれらをつきつける。

「え……」

「描いて。あなたが描かなきゃ進まない」

 陽菜が冷たく言い放ち、綾花は追われるように色鉛筆を受け取ったが、陽菜と蘭を見比べ、なかなか描き始めない。

「そうね、それはあなたたちの仕事だわ」

 おろおろする綾花に、蘭がそう言って笑いかける。

 それを聞いて、綾花はやっと画用紙に向かった。



 そうして蘭が色鉛筆を握らないうちに時刻は十七時をむかえ、四人は美奈子の家を出た。

 塾があるという綾花は一人先に急いで帰り、蘭もさっさと背中を向けた。

 陽菜と遥斗は二人きりで小さな家の前に残されたが、陽菜もすぐに自宅へと歩きだす。

「下沢さん」

 熱いアスファルトの上で、陽菜が足を止める。

 その背中に向かって、遥斗は遠慮がちに続けた。

「なんか怒ってる?オレたち、なんかしちゃったかな」

 陽菜は、振り返ることなくうつむく。

 それを答えととらえたのだろう。ごめん、と呟く遥斗の声がして、走り去って行く足音が聞こえた。




 陽菜は、ぐっと強く唇をかむ。

 怒ってる。ように、見えたのだろうか。

 怒りとは、たしかに違う感情だったのだけれど。

 遥斗が、一番美奈子と親しかったはずの彼が、たいして仲も良くない蘭を誘ったこと。美奈子とは挨拶をする程度の関係でしかない蘭が、陽菜が憧れ続けたものをいとも簡単に作り出したこと。そして、自分がそれに納得できないこと。

 全てに胸の奥がうずいて、これまで穏やかな気持ちは消えてしまった。

 全てのピースがうまく心にはまらなくて、まるで小学生に戻ったようだ。そう、美奈子と出会う前の、ねじれた自分に。

(明日はもっと、うまくやらなきゃ)

 変われたのだ。美奈子が引き合わせてくれた遥斗や綾花と、やっと笑えるようになったのだ。だからきっと、蘭とも大丈夫。

 美奈子のためにも、明日はちゃんと笑って、みんなとうまくやらなければ。


 陽菜はトートバッグの肩紐を強く握り、再び歩きだした。



 翌日、四人はまた美奈子の家に集まった。

 今日の作業は、綾花の絵を陽菜が加工するところから始まる。

 陽菜は綾花から画用紙と色鉛筆を受け取り、かわいらしいその絵に色を足しだした。

「へぇ、下沢さん、そういう絵も描けるのね」

 いつもの陽菜とは違う絵に、蘭が感心して言う。

 陽菜は一呼吸おいてから

「うん、描けるようになった」

 と答えた。

 刺々しい言葉にはならず、落ち着いた様子の陽菜に、遥斗もほっと肩をなでおろす。


 そうして順調に描き進め、いよいよ、陽菜の仕事が終わる。陽菜は丁寧に蘭に画材を託した。

 真剣な陽菜の目に、蘭も力強くうなずき答える。

 蘭が道を描きだした、そのとき。


 ピーンポーン


 玄関で、インターフォンが鳴った。

「お客さん?」

「わかんない。オレ、ちょっと行ってくるね」

 付き合いの長い遥斗は美奈子の母親の体調を気にかけていて、陽菜がはじめて来たときよりも前からここに通っていたらしい。無遠慮な報道陣から母親を守るため、来客にいちいち反応しているのだ。


 数分後、遥斗は一人の少年を連れて戻ってきた。

 女子三人は一斉にその少年を見つめる。

「えぇと、北野良介くん。絵に参加したいって言うから連れてきたんだけど……」

 遥斗が少年を紹介した。

 良介と呼ばれた少年は丸い体を二つに折る。

「北野良介です。み、美奈子ちゃんと同じ塾に通ってました。美奈子ちゃんの絵を完成させるの、ぼくも協力したい」

 陽菜と綾花が顔を見合わせた横で、蘭が一歩前に進み出た。

「いいわよ。一緒に頑張りましょう」

 陽菜はぎょっとして蘭の肩をつかむ。

「ちょっと勝手に……!」

「ほんと!?」

 陽菜の必死の抗議の声は、良介の明るい声にかきけされてしまう。

「えぇ。こっちよ」

 蘭は陽菜を無視して良介に手招きし、美奈子の絵の方へ案内した。

 とことこと歩いてきた良介に、陽菜は反射的に道をあける。

「わぁ、これが美奈子ちゃんの絵か……。上手だなぁ」

 歓声をあげる良介の後ろで、陽菜は小さく蘭につっかかる。

「勝手に決めないで。美奈子と特に深い関わりがあるわけでもないのに、入ってこられたら困る」

 蘭は鋭い大きな目で陽菜を見返し、

「一ノ瀬さんが誰と親しかったかは、一ノ瀬さんが決めることよ。あなたや私が判断できることじゃない」

 言い返せなくなった陽菜は黙り込んだが、その目は良介をきっと睨んでいる。

 そんな目線には気づきもせずに絵を見つめたまま、良介はぽつりと言葉をもらした。

「会いたいなぁ。美奈子ちゃん」

 みんなが、はっと息をのんだ。


 会いたい。


 それはみんなが心のどこかで思っていて、けれど誰も口にはしなかった一言だった。

「ぼく、美奈子ちゃんに伝えられなかった言葉があるんだよね」

 良介のふくよかな背中が、しゅんとまるまっている。

 陽菜の胸に、あの日の気持ちがよみがえる。辞書にある言葉でいえば悲しみ。けれど悲しみなんて言葉では足りないくらいの、あの熱くて冷たい気持ちが、お腹のそこからわき上がってくる。

 それ以上はやめて。

 心が叫んだが、震える唇ではそれを声にできない。

 わななく両手を握りしめ、ごくりとつばを飲み込んだ。

「伝えられなかったこと?」

 か細い声で、綾花がきいた。

「うん。ぼく、あの日、美奈子ちゃんに告白するつもりだったんだ」

 さみしげな良介に、蘭がそう、と優しく相づちをうつ。

「うん。忘れてないよ。一時に塾の前に待ち合わせだった。でも、来れなかったんだ」

 それをきいた瞬間、陽菜の全身の震えが嘘のように止まった。代わって心臓がどくどくと鳴り始め、良介の言葉が頭の中でこだまする。


 告白。塾の前。午後一時。


 遥斗の、そっか、という声が遠くに聞こえる。

 口の中がカラカラに渇く。指先は氷のように冷たいのに、頭は熱くてたまらない。

 陽菜の頭の中でいくつもの点と点がつながり、あるひとつの真実にたどり着いた。

「……じゃないか」

 ダメだと思う間もなく、口にでる。

 え?と聞き返してきた蘭を無視して良介に歩みより、気づいたときには彼を拳で殴っていた。

 ガタンッ

 良介がひっくり返り、机が音をたてて倒れる。

「お前のせいじゃないか!!」

 赤くなった頬をおさえる良介に、怒鳴りつけた。

「良介くん!!」

「下沢さん!?」

 綾花があわてて良介にかけより、遥斗が振り上げられた陽菜の手を掴む。

 そんなことは意にも介さず、陽菜は続けた。

「お前のせいでっ、お前のせいで美奈子は死んだんだ!お前が……お前が美奈子を殺したんだ!!」

 それは夏の暑い日曜日。いつも塾へ行くときに通る道に、美奈子は倒れていたと聞いていた。勉強道具は、持っていなかったという。


 呆然とする良介、怯えた綾花。

 遥斗が陽菜を羽交い締めにして良介から引き離し、蘭が二人の間に立った。

 陽菜の頬を、大粒の涙が流れる。

「下沢さん。北野くんは何も悪くない」

「悪い!!お前なんかが美奈子と付き合えるはずないのに、無駄な告白なんてしようとするから!だから美奈子は事故にあったんだ!」

「下沢さん!」

 泣き叫ぶ陽菜に蘭が語気を強めた、そのとき。

「なんの騒ぎ?」

 ガチャリと音がして、美奈子の母親が現れた。聞こえてきた言葉の端々から状況は想像できたのだろう。その表情は厳しい。

「おばさん……」

 陽菜の手首を握る遥斗の手から、ふっと力がぬける。陽菜はその手を振り払い、母親から顔を背けた。

「ここは美奈子の部屋。あなたたちは、それを本当にわかってるの?」

 母親の言葉に、すみませんでした、と蘭が頭を下げる。

「何があったのかはわからない。でもね、私には、あの子を守る義務がある。たとえ命は守れなくても、心だけは、絶対に」

 一言一言、母親は噛み締めるように言い、美奈子と同じ大きな瞳で五人を睨んだ。

「あなたたちが何を目指しているのであれ、美奈子を汚す結果になるなら認められない……。もう、帰ってちょうだい」

 部屋中が、しん、と静まりかえる。

 誰も動かない……動けないまま、時計の秒針だけがカチカチと音を鳴らす。



 良介が、寄り添う綾花を振り払うように立ち上がった。そのままの勢いで部屋をとびだしていく。

 何か言おうと口を動かしていた蘭も、やがて唇をひき結んで母親に頭を下げ、足早に部屋を出ていった。

 綾花と遥斗も顔を見合わせてうなずきあい、ゆっくりと陽菜の横を通りすぎていく。

 一人取り残された陽菜はしばらく立ち尽くしていたが、とうとうおぼつかない足取りで部屋を出て、家路についた。






 陽菜は、制服のままベッドに身を投げ出した。

 朝から続く曇天は、数分前から静かに雨粒を落としている。

(どうして、こんなことに)

 枕に顔をうずめ、熱い頭でぼんやりと考えた。

 美奈子の絵を完成させたい。ただそれだけなのに、どうしてうまくいかないのだろう。


 遥斗や綾花の絵が下手だから?蘭が乱入してきたから?良介が、来たから?


(違う)

 はっきりと、思う。

 原因は、遥斗でも綾花でも蘭でも良介でもない。

(私の、せいだ……)

 陽菜が、自分だけが美奈子の特別な友達なんだと思っていたから。遥斗や綾花との関係も認めていたつもりでも、心のどこかで、彼らを見下していた。

 ぐっと、強く唇をかむ。シーツを力任せにぎゅっと握りしめる。

 美奈子の人生を、尊重していたはずなのに。

(私、美奈子を否定してた)

 美奈子が十五年間で築き上げた人間関係を、ほとんど否定していた。自分以外との関係を認めなかった。蘭とどういう関係だったのか、良介のことをどう思っていたのか、知りもしないのに。


 静かな雨が、ぱらぱらと窓を打つ。

(時間がない……)

 優しい美奈子は、自分のために陽菜たちが生活を犠牲にすることはきっと望まない。もう夏休みも終盤だ。約六ヶ月後に受験を控える陽菜たちが、二学期以降も絵に向かうことは難しい。なんとしてでも、今月中に絵を完成させなければならないのだ。

 ごろんと寝返りをうって仰向けになり、真っ赤に腫れた目で天井を見つめる。

「このままじゃ、だめだ……」



 静かに、けれど激しく降っていた雨は、いつの間にかずいぶん小降りになっていた。










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