夢色のパレット
涼坂 十歌
第1話 夢色の夏
一ノ瀬美奈子が死んだ。
そう聞いたのは、夏休みに入って三日目。卒部製作の油絵を描いているときだった。
美奈子は、美術部員の中でも段違いの実力を誇る少女だった。数多くのコンクールで油絵や水彩画の猛者たちを色鉛筆画で押し退け、賞を総なめにしてきた輝かしい実績をもつ。その実力と実績を名のあるいくつもの美術学校が欲しがり、推薦入学の話ももちあがった。が、彼女はその道を選ばなかった。両親の意向もあり、普通高校に進学予定だったのだ。しかし、そんな彼女の未来は、一台の軽トラックに奪われた。だから、彼女の卒部製作……最後の絵は、未完成。
だから、陽菜はここに来た。
ギラギラとした夏の暑い日差しが、遮るものを持たない陽菜を照りつける。ひりひり痛む腕をさすりながら、一軒の家の前で足を止めた。
ピンポーン
インターフォンを押すと、陽菜の心を逆撫でするのんきな音が鳴る。
小さな家の中から「はい」とか細い返事が聞こえ、ぱたぱたと足音がし、がちゃりとドアが開いた。
現れた女性は陽菜の顔を見ると一瞬驚いて目を見開いたが、その表情はすぐに悲しげな微笑みに切り替わる。
「陽菜ちゃん……」
女性が驚くのも当然だ。もともと血色がよくなく、長い前髪の下の目つきも鋭い陽菜の顔は、模範的な中学生の姿とはかけ離れている。そのうえ最近は、目の下にくっきりとできた隈が彼女の暗いイメージを際立たせているのだ。
しかし、陽菜は思う。この女性に、自分の顔を驚く権利はないと。陽菜よりもはるかに濃いはずの隈を、不自然な厚化粧で隠した美奈子の母親には。
「おはよう。美奈子に、会いに来てくれたの?」
疲れたように微笑む母親に、申し訳なく思いながらも陽菜は口を開く。
「いえ、そうじゃないんです」
きっぱりと言いきられたその言葉を聞いて怪訝そうに首をかしげた母親を見、陽菜は失敗した、と言い方を変える。
「ええと、それもあるんですけど、それだけじゃなくて……」
陽菜はうつむき、癖で着てきたセーラー服のスカートをぎゅっと握りしめた。
「私っ、美奈子の絵を完成させに来たんですっ」
言うと同時に顔をあげ、母親の目をまっすぐ見つめる。
母親は、今度は驚きを隠すことなく表情に表した。
見開かれた大きな瞳から目をそらしながら、陽菜は続ける。
「美奈子、絵、大好きだったんです。描くのも、すごい上手で……。だから、あの子の絵、未完成で終わらせたくなくて……」
勢いよく始まった言葉はだんだん覇気を失い、言い終わる頃にはうつむいていた。ぎゅっと目をとじ、深々と頭を下げる。
「陽菜ちゃん」
母親の優しい声に、陽菜はおそるおそる顔をあげた。
怒られるかと思ったが、母親は声色どうりの穏やかな顔でほほえんでいた。
「ありがとう。美奈子、ずっと言ってたわ。あなたの絵は素晴らしいって。だから、あなたが完成させてくれたら、あの子も嬉しいと思う」
陽菜の顔が、思わず華やぐ。
母親は静かにドアを開け、「どうぞ入って」と、陽菜に笑いかけた。
案内された美奈子の部屋は、彼女らしさがあふれる部屋だった。薄桃色のカーテンがかかった大きな窓、その下にあるベッドにはいくつものぬいぐるみが並ぶ。本棚は半分が教科書や参考書でうまり、もう半分は難しそうな小説。勉強机にはノートが広げられ、シャープペンシルと消しゴムが無造作に置かれていた。
「時間が、止まってる……」
生前の彼女が最後に触れたであろうノートを撫で、ぽつりと呟く。
じんわりと込み上げてきた涙を頭をふって振り払い、部屋の中央にある小さな絵描き机を振り返った。
一枚の画用紙と、百色の色鉛筆。
間違えようもない、彼女の画材だ。
背もたれの長いしゃれた椅子に腰掛け、陽菜は画用紙に向き合った。
画用紙の中央には、美奈子自身をモデルにしたであろう女の子の絵が、柔らかなパステルカラーで描かれている。でも、それだけだ。他のところは真っ白で、彼女が何を描こうとしていたのかは見当もつかない。
「う~ん……」
陽菜は頭を抱えてうなる。
問題は、描く内容だけではない。陽菜にはもう一つ、大きな課題があった。
「ほら、あの子、お母さんとお父さんがいないから。だからあんな怖い絵を描くのよ」
幼い頃から絵を描くのが好きだった陽菜は、ずっとそんなふうに言われ続けてきた。
幼稚園のお絵かきでも、小学校の図工でも、中学校の部活でも、陽菜が描くのは、いつも前衛的で奇抜な絵だった。対象を正確に捉えた写実的な絵は好きでなく、極彩色の円や四角形を組み合わせて描くのが彼女のスタイルなのだ。
幼い頃に両親を失い叔母に育てられた陽菜は、周囲から「孤独」、「心を病んでいる」という先入観をもって接されることが多く、個性的な絵はその賜物とされてきた。
中学校の美術部で陽菜の絵を見て、「あら、素敵な絵ね!」と初めて笑ったのが、美奈子だったのだ。
自分の絵を、初めて認めてくれた人。陽菜ちゃん、と笑って名前を呼んでくれた最初の友達。とてもとても大切だった人。いつか恩返しをしたかったのに、もう、彼女はいないのだ。
陽菜はぐっと唇をかみしめ、顔をあげた。
必ず、絵を完成させる。あの子の絵を、人生を、未完成では終わらせない。
トートバッグからメモ帳を取り出し、ページをめくる。ここに来る前に書いてきた、美奈子の絵の手がかりだ。
あれはたしか五月頃。卒部製作の内容をきいたときのことだ。美奈子は「わたしの夢、かな?」と答え、恥ずかしそうに笑っていた。
「美奈子の、夢……」
四月に書いた自己紹介には、将来の夢は人を笑顔にできる人になること、とあった。子どものころは、パティシエールと魔法少女に憧れた、という話も聞いた。
けれど、きっとそういうことではない。すでに中学生の美奈子が絵の中にいるように、彼女は大人になって夢を叶えた自分を描きたかったわけではないはずなのだ。将来の目標とは違う、もっと抽象的な夢……。
「私だったら、何を描くかな……」
自宅から持ってきたスケッチブックを開き、鉛筆を握る。そんな夢をテーマに、自分が絵を描くとしたら?
美奈子の絵に近づけるため、中央には自分に似せた女の子を一人描く。すると、頭で考えるより先に手が動き出した。
数分後、描きあがった絵を見て、陽菜は寂しそうに苦笑した。
真ん中を歩くのは、手をつないだ自分似と美奈子似の二人の女の子。その後ろでは、二人の両親が親しげにほほえみあう。
無心で絵を描くと、こういうものができることがたまにある。とても上手に描けてはいるけれど、いつもの絵とのギャップが大きすぎて、陽菜自身ときどき怖くなるのだ。顔も知らない両親のことはわりきって、叔母との日々を楽しんでいる「私」は、やっぱりにせものなのだろうか。
陽菜は不安を追い払うように頭を振り、スケッチブックをめくった。
(私でいうところの、両親が欲しい、みたいな夢……。もはや夢というより、理想とか、幻想のほうが近いのかな。)
だとすれば、ますます何を描けばいいのかわからなくなってしまう。
美奈子にも、悩みや苦しみの一つくらいきっとあっただろう。頭ではそうわかっていても、彼女が実際に、届かない理想に手を伸ばして苦しんでいる姿は想像できない。そのくらい、美奈子の人生は完璧に見えたのだった。
その翌日も、陽菜は美奈子の家を訪れた。
インターフォンを押すと、今日は母親ではなく見たことのない男の子がドアを開けた。
「……美奈の友達?」
陽菜の顔を見て一瞬驚いた男の子は、そう言って陽菜に笑いかける。
「あっ、はい……。あの、私、絵を描きに来たんです」
陽菜は男の子の明るい瞳から逃げ、うつむいて独り言のように答える。足元に、小さな桃色の花が咲いている。
「絵……?」
「遥斗くん、どなた?」
男の子が呟いたのと同時に、家の奥から見慣れた母親が現れた。
「あら、陽菜ちゃん。来てくれてありがとう」
陽菜は少しほっとして、ぺこりと会釈を返す。
「こちらは高橋遥斗くん。美奈子の幼なじみなの」
母親が、陽菜に男の子を紹介した。
「あ、下沢陽菜です……。よろしく」
幼なじみ……その素敵な響きを、胸の中でかみしめる。陽菜に、そんなものはいなかった。
「よろしく。下沢さん……美奈がよく話してたよ。すごい上手に絵を描く子がいるって」
遥斗が、人懐こく笑う。
「……ありがとう」
普段なら、初対面の人に褒められたって特になんとも思わない。けれど今日は、美奈子が幼なじみに自分の話をしてくれていたことがとても嬉しくて、口もとが思わずゆるんだ。
「それで、今日は何を描きに来たの?」
遥斗に問われ、陽菜はいっそう小さな声で、
「美奈子の……、卒部製作」
顔を見ていなくても、少年が驚いたことがわかる。
「あの子が完成させられなかった、最後の絵、どうしても完成させたくて」
言ってしまってから、急に怖くなった。美奈子の母親も、きっと美奈子本人も、陽菜が絵を完成させることに反対しない。しかし、彼はどうだろうか?幼い頃からずっと美奈子のそばにいた遥斗が、彼女の絵に自分なんかが手を加えることに嫌悪感を抱かないとどうして言い切れるだろう。
震えだした両手が、ぎゅっとスカートを握る。
「……あのさ」
しばらくの沈黙のあと、遥斗がゆっくりと口を開いた。陽菜は、おそるおそる目線を彼に向ける。
「それ、オレも手伝っていい?」
「……え?」
予想外の言葉に、陽菜は静かに目をみはった。
遥斗が両手に力をこめて言葉を続ける。
「美奈の絵、オレもすごい好きだった。オレは絵とか全然描けないけど、手伝いたい。……ダメ?」
遥斗の大きな黒い目が、陽菜をじっと見つめる。意志のこもった、強い目だった。
「……ダメじゃない」
陽菜の小さな口から、ささやくような声がもれでる。
行き詰まっている絵も、美奈子のことをよく知る彼の協力があれば何かが変わるかもしれない。
夏のみどりの風が、そっと陽菜の髪をゆらす。
「よろしく、お願いします……っ」
ばっと頭を下げると、細い肩にのる意志の重みが、少しだけ軽くなった気がした。
「これが、美奈子の最後の絵」
遥斗が美奈子の絵を覗き込み、ほぅ、と感嘆のため息をついた。
昨日、自分の絵を描いてからもしばらく頭をひねったが、美奈子の絵は一切進んでいなかった。
「これは……美奈自身、かな?」
「そうだと思う。でも……、あとは何を描けばいいのか、見当もつかない」
陽菜は困り果てて首をふる。
やや上目遣いの遥斗が、不意に陽菜を振り返った。
「オレ、美奈から絵のヒント聞いてる」
「ほんと!?」
陽菜が思わず大声をあげる。
その勢いに驚いて若干身を引きながらも、遥斗は大きくうなずいた。
「たいしたことじゃないんだけど、先月くらいかな?美奈、最後の絵で、私の大切なものをカタチにするって言ってた」
「美奈子の……大切なもの……」
「下沢さんは?何か聞いてない?」
遥斗に問われた陽菜は、一瞬戸惑って目線をそらす。
一緒に絵をつくる以上、情報共有はしておくべきだ。けれど、美奈子とのきれいな思い出を、できることなら口にしたくはなかった。
「私は……、夢って、聞いた」
ぼそりと、聞かせる気のない小さな声で答える。
「ん?夢?」
「うん、私の夢って言ってた」
無愛想にうつむいたままの陽菜を特に気にとめる様子もなく、遥斗はん~と首をひねった。
「夢ねぇ……。美奈の夢……」
絵の中で微笑む美奈子と向き合い、遥斗はつぶやく。
「ちっちゃいころはパティシエって言ってたけど、最近はどうだったんだろう?」
「私、違うと思う」
唐突に放たれた陽菜の言葉に、遥斗がぎょっとする。
「違う?」
「うん。それ、今の美奈子だし、将来の夢ってわけじゃないんだと思う」
それを聞いて、なるほど、と遥斗がうなずいた。
「確かになぁ。夢から攻めるのは難しいか……。じゃあさ、美奈が大切にしてたものは?」
自分の意見を真っ向から否定されても、遥斗は嫌な顔ひとつしない。大きな目をキラキラさせて、痛いほどまっすぐに陽菜を見つめる。
「私がわかるのは、その色鉛筆くらい……。そういうのは、あなたのほうが詳しいんじゃない?」
目を伏せて答える陽菜。
「美奈の大切なものなぁ。カタチにするって言うくらいだから、形のないものなんだろうけど……」
考えるときの癖なのだろうか、唇をとがらせる遥斗の半歩後ろに立ち、陽菜も考えを巡らせた。
美術室で共に過ごした二年間の日々に思いを馳せる。色鉛筆とか、スケッチブックとかではない、形のないもの。そして、美奈子が三年間の……彼女の美術人生の最後に形にしたいと思ったもの。
「あ」
二人の声が重なった。
「ひらめいた?」
いたずらっぽく笑った遥斗が、首をかしげてたずねる。
陽菜は静かに、けれど誇らしげにうなずいた。
「家族」
「友達」
「あれ?」
バラバラなことを同時に言って、お互いに同時に聞き返す。
「家族……だと思ったんだけど、そっか、友達もある」
「そっか家族か!一ノ瀬家は仲良かったからなぁ」
遥斗が腕をくみ、しみじみと言った。
一方陽菜は、ふと疑問に思う。
美奈子が最後に形にしたかった大切なものが友達なら、それに自分は含まれるのだろうか。
(含まれててほしいな……)
描かれるのは、美奈子の隣でなくてもいい。けれど、端っこにでもいいから、自分と美奈子が出会った証を世界に残しておきたかった。
「あー、でも、家族とか友達とかだと、夢につながらないや」
遥斗が、言いながら髪をぐしゃぐしゃとかきみだす。
「家族仲はちょっとうらやましいくらい良かったし、友達も多かったろ?」
こくり、と陽菜は小さくうなずく。
両親のいない陽菜に気を使ってのことだろう。美奈子が家族の話をすることはあまりなかったが、彼女が家族にどれだけの愛情を注がれてきたかは、日常生活を通して陽菜にも伝わってきていた。八方美人なわけではなく誰にでも平等に優しかった美奈子には友達も多く、家族や友達を夢にみるとは思えなかった。
「う~ん、なんだろなぁ」
と、遥斗が頭を抱えた、そのとき。
ぴーんぽーん
突然、インターフォンがなった。小さな家は、玄関の音が家中に響く。
「ん、誰だろ?オレ、ちょっと見てくるね」
階段を駆け下りていく足音が十分に遠のいたのを確認し、陽菜は美奈子の絵にそっと触れた。
出会いがあまりに突然すぎてあんな反応をしてしまったが、陽菜も同様に、遥斗のことを美奈子から何度も聞いていた。父親同士の職場が同じで家族ぐるみの付き合いがあり、美奈子と彼は産まれたときから一緒にいたらしい。
それに対して、陽菜が美奈子と過ごしたのはたった二年と三ヶ月。彼らの歴史には程遠い、一瞬のような思い出だった。
(でも、私、忘れないよ)
あんなにもまばゆい一瞬を、私は他に知らないから。絶対忘れないし、誰にもあの日々を否定させない。私達だけのきれいな思い出を、私が責任もって守るからね。
思っているうちに、握る手に力が入っていたらしい。帰ってきた遥斗の、「下沢さん?」という気づかうような声ではっとした。
ぱっと扉の方を振り返ると、そこには遥斗ともう一人、見知らぬ女の子がいた。
大きな黒ぶちめがねをかけた彼女とばちっと目が合い、二人して顔を背ける。
「なにしてるの?」
その様子を見た遥斗がおもしろそうに言い、
「下沢さん、こちら、倉持綾花さん。倉持さん、こっちは下沢陽菜さん。美奈と同じ学校で、同じ美術部に入ってる子だよ」
紹介されて、綾花がはずかしそうに頭を下げた。
「はじめまして、倉持綾花です。美奈子ちゃんと同じピアノ教室に通ってます……」
もじもじしながら言葉を紡ぐ綾花に、陽菜も会釈を返す。
「わたし、美奈子ちゃんの絵はあんまり見たことないけど、美奈子ちゃんとは、毎年連弾してたんです。本当に、大好きな友達だから……。だから、一緒に絵、描かせてもらえませんか?」
淡い緑色のスカートを握りしめて言った綾花をじっと見つめ、陽菜も口を開く。
「私は、下沢陽菜。美奈子と同じ中学の、美術部員……。」
それだけ言って黙り込んでしまった二人の後ろで、遥斗がぱたんと扉を閉めた。
美奈子の匂いの空気が少し動いて、陽菜の背を撫でる。
「人手は、多い方が助かる……。」
陽菜がささやくように言うと、綾花は顔を華やがせて「じゃあ!」と声をあげた。喜ぶ彼女に、陽菜は頷いて答える。
「よーし!じゃ、美奈のためにも、みんなで頑張りますか!」
遥斗がぱんっと手を叩いて宣言し、拳を高々とつきあげた。「おー」と控えめな掛け声と共に綾花も右手を高く上げ、少し遅れて、陽菜も右手を上へ伸ばした。
「オレたちは、ちょっとだけど美奈から絵のヒントを聞いてるんだ。オレは、美奈の大切なもの」
「私は、美奈子の夢……」
進展のない絵を見せながら、二人は綾花に解説した。綾花は興味津々な様子で絵を見て、
「わたしも、少しだけど聞いてるよ」
と顔をあげた。
「ほんとか!?」
今度は遥斗が、喜んで大声をあげる。
綾花ははずかしそうにほほえみ、うん、と頷いた。
「レッスンで最後に会ったとき、美奈子ちゃん、今の私が大好きなものを絵に残すって言ってた」
「大好きな、もの……」
陽菜と遥斗が声を揃えて呟く。
「うん。だからわたし、てっきりピアノとか数学とか、美奈子ちゃんが好きだったものを描くつもりだと思ってたんだけど……、この絵を見ると、そういうわけじゃないのかな」
綾花の白い指が、すっと絵の中の美奈子を指した。
画用紙の真ん中に描かれている美奈子は、何かをしている様子ではない。アニメ映画のポスターのように楽しげに浮かんでいるだけで、ピアノや机が描き足されてもかみあいそうにないのだ。
「でも、大好きなものってキーワードなら、だいぶ描きやすくなったよな。オレたちのより具体的だし」
と、遥斗が両手を頭の後ろで組んだ。
陽菜もこくりと頷いて同意する。
「好きなものなら、わかるかも」
トートバッグから青いメモ帳を取り出し、真ん中あたりのページを開く。
「あげて。美奈子の、大好きなもの」
言いながらカチカチっとシャープペンシルの芯を出した陽菜に、遥斗と綾花は目を輝かせて向き合った。
午後四時。陽菜は自宅への道を歩きながら、今日の話し合いでのメモを見返していた。
美奈子とそれぞれ違うふうに関わっていた三人が集まった今日、陽菜の知らないたくさんの美奈子の一面が見えた。
絵、ピアノ、歌、数学、英語、お菓子、本……
書き出された「美奈子の大好きなもの」は、多種多様。
描きあげよう、とあらためて決意する。美奈子自身が完成させることは不可能でも、私が、美奈子の意志を継いで。
「見てて。美奈子」
鮮やかな朱色の夕日に照らされ、陽菜は静かに呟いた。
遥斗と綾花には塾の夏期講習があり三人が集まる機会はしばらくなかったが、その間、陽菜は集められたキーワードをもとに、自宅で何枚かデザイン画を描いていた。
今日は久々に三人そろって美奈子の家に集まり、陽菜のデザイン画に付け加えたり削ったりして採用するデザインを決める予定、だったのだが。
「おぉ……」
陽菜の絵を見た遥斗の第一声である。
その声色は感嘆ではなく驚き、それよりも失望のほうが近いかもしれない。
陽菜は暗い顔でうつむき、ごめん、と謝る。
「あっ、謝る必要性ないよっ!陽菜ちゃん、頑張ってくれたもん。わたしは陽菜ちゃんの絵、いいと思う」
綾花が慌てたようにフォローをいれる。
同じような絵を見て口にされた同じような言葉なのに、どういうわけか、美奈子のときのように心にスムーズに入ってこない。
そう。頑張ってはみたのだ。自分の絵は殺して、できるだけ美奈子の絵に近づけるようにやってはみた。けれど結論として、陽菜にはできなかった。それらしい絵はできても、やはり違うのだ。心にブレーキをかけた状態では、溢れ出る想いを表現できなかった。
だから、やめた。
無理に美奈子の絵に近づけるのはやめて、彼女が好きだと言ってくれた自分の絵で挑んだのだが。
「うん、オレもこれはこれでいいと思うけど、美奈の絵とはちょっと違いすぎちゃうんじゃないかな」
ぱっと目をひくビビットカラーの油彩絵の具で描かれた色鉛筆やスケッチブック、ピアノを見ながら、遥斗が苦笑した。
陽菜だって、そんなことはわかっている。もし、美奈子が描き残した女の子のまわりに自分の絵が描かれたらどうなってしまうか、描いた張本人の陽菜が一番よくわかっているのだ。
いっそう深くうつむいた陽菜を気づかって、
「あ、じゃあ、わたしと遥斗くんも、デザインしてみようよ。三人の絵のなかで一番よかったのを大元にして、それにみんなで手を入れていくのはどう?」
ひらめいた、と、綾花が言った。
陽菜はほんの少しだけ顔をあげ、遥斗もやってみよっか、と頷く。
陽菜がスケッチブックのページを二枚ちぎり、二人に渡す。
みんなで美奈子の絵描き机に向かい、デザイン大会が始まった。
そして、三十分後。
「できた!」
遥斗が歓声とともに両手をあげ、綾花も満足そうな顔で鉛筆を置いた。
陽菜は期待の目で二人の手もとを覗き込み……絶句した。
「……なに、これ」
かろうじて口からこぼれ出たのは、救いようもなく失礼な一言。しかしそれもしかたない。もはや気をつかっている余裕などない。
綾花の絵は、まだ許容範囲内だ。美術の勉強などしたことはない一般的な中学生としては充分な出来だろう。
しかし、遥斗は……。
「幼稚園児?」
陽菜は顔をしかめ、思ったままに呟いた。
失礼極まりない発言だが、遥斗にも自覚があるらしい。へへ、と薄く笑い、目をそらす。
遥斗の絵は、もはやなにが描いてあるのかわからなかった。その点では陽菜も似たようなものかもしれないが、陽菜の絵にある芸術性は遥斗の絵には皆無。中央に陽菜が描いた女の子を取り囲むのは、巨大な黒い物体と無駄にカラフルな円盤、積み上げられた四角い箱などなど作者の解説なしには正体不明なものたちばかり。必死に目を凝らせば、猫に見えなくもないものがとらえられる程度だ。
陽菜はしばらくその絵を睨んでから無言で裏返し、机の端に押しやって自分の絵と綾花の絵を並べた。
「う~ん、わたしの絵じゃあ、美奈子ちゃんにつりあわないな……」
二枚を見比べ、綾花が少し悲しそうに言う。
絵の雰囲気としては、間違いなく綾花のほうが美奈子に近い。けれど、やはり素人の絵だ。正反対なイメージでも、陽菜の絵のほうが美しい女の子には合っていた。
「じゃあさ、倉持さんの絵に、下沢さんが手を加えたらいいんじゃない?」
みんなの視界からシャットアウトされた絵を恥ずかしそうにかばんにしまいながら、遥斗が提案する。
「わたしの絵に……」
「私が?」
怪訝な顔をする二人に、遥斗がにこっと笑いかける。
「そ。倉持さんの絵は維持したまま、足りないところだけ下沢さんが修正していけばバランスとれるかなって」
「なるほど~」
綾花がその発想に感心したような声をあげ、やってみて、と陽菜の方に自分の絵を滑らせた。
陽菜は戸惑いながらも色鉛筆を手に取り、気になるところに色をつけ始める。
手を動かしながら、気がついた。
(お手本があると……うまくできる。同じような制約があっても、自分で制限するより自由に描ける……)
自由に描いても、調和は乱れない。
初めてだった。自由に描いて、誰かの絵と混ざり合えるなんて。
思ってもみなかった。普通じゃない自分が、ありのままで誰かと繋がれるなんて。
お腹の底から、感じたことのない暖かなものがこみ上げてくる。あふれでる高揚感と興奮を、色鉛筆にのせる。美奈子に届くように。
美奈子、私、こんなにあったかい気持ちになれるようになったよ……。
「おぉ!」
「わぁ!」
遥斗と綾花の歓声が耳に届く。
少し暑い夏の風に、桃色のカーテンがはためく。
陽菜が、手にしていた色鉛筆を置いた。
未熟だけれどかわいらしい綾花の絵と、陽菜の鍛え上げられた技術とセンスが溶け合って出来上がった絵は、言葉では表せないほどにすばらしかった。
中央で楽しそうに舞う美奈子を囲むのは、色鉛筆やピアノや本……彼女の、大好きなものたち。
「できた……!」
陽菜の声色に、胸につのる喜びが抑えきれずににじみ出る。
「いい感じじゃん!」
「すごいよ、陽菜ちゃん!」
遥斗がぐっとガッツポーズをきめ、綾花が満面の笑みをうかべて陽菜の肩を抱いた。
初めて感じるその暖かさをかみしめながら、陽菜は答える。
「ありがとう……!」
美奈子の前でも見せたことのない、おそらくはじめての、心からの笑みがはじけた。
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