ガラスの部屋


 「ごめんね。念のために言っておくね。君をうちに呼んだ理由は、たこ焼きが食べたいからじゃ無い。勿論、君ともっと仲良くなりたいからと言うわけでも無い。正直に言うと、君に幻滅されたい。嫌われたいし、『もう二度と会いたく無い』と言われたい。それでも、うちに入りたい?」

「入りたいです」僕は何も考えずにそう言った。

彼女が何を言いたいのか、僕にはまるで分からなかったし、そもそもそれがわかったところで、僕の側に否定する選択があったかどうかも分からない。

「じゃあ、いらっしゃい」彼女は鍵を回し、ドアノブを引いた。

「私のどこがまともじゃないか、教えてあげる」


     *


 想像していたよりも、ずっと綺麗だった。整頓されているとは言えなかったけれど、彼女の部屋は全体が薄青く光っていて、それはとても美しい光だった。窓から差し込む月明かりと、それを乱反射させる物の存在。ガラスの角瓶が何十個も、彼女の部屋の床を埋めていた。

「アルコール依存症なんだ。しかも無職」彼女は部屋の中を見たまま、僕に背を向けてそう言った。

「どう?」彼女が呟く。

「お揃いですね」僕は言う。

「お揃い?」

「浪人生で、しかも特に勉強をしていない人間は、無職ですよ」

「そっか。じゃあ……」

「えぇ。特に幻滅はしないです」僕がそう言うと、彼女がこちらを振り向いた。あの夜のような目だった。地面に膝をつき、何度も嘔吐していたあの日と同じ目。

「夜ご飯食べましょう」

「うん」


 僕たちは至って普通の食事を取った。瓶を淡々と部屋の端に寄せ、機械を置く場所を作り、たこ焼きを焼いた。特に楽しかったわけでもなく、居心地が悪かったわけでもなかった。


食事を終えた僕らは、当然のようにベッドへ上がり、当然のようにキスをした。いざその舞台に立ってみると、さほど緊張はしなかった。まるで何かの劇を演じているようだった。僕たちが呟くどの言葉も、誰かの書いた台本を読み上げているようだった。

彼女は瓶の中身を少し口に含む。

そのまま僕の膝の上に座り、斜め上から唇を重ねる。

拒む術もなく、熱い液体が流し込まれる。

その液体は僕の喉を刺激する、僕は顔を離そうとする。

彼女は僕の首に腕を回したまま、僕を強く抱き寄せ続ける。

「死にそうでしたし、僕はまだ未成年ですよ」やっとのことで呼吸を確保した僕は、何度も咳き込んだ後にそう言った。

「お屠蘇くらいは飲んだことあるでしょ?」彼女は笑った。

 その後のことは、あまりはっきりと覚えていない。とにかく、緊張なんてものを感じられないほど、僕の頭は真っ白だった。彼女が僕の目の前で服を脱ぎ、全身に温もりを感じて、すぐに熱さを覚えた。

おそらく、それはあっという間に終わった。全身の血液が脳に昇ったような気がした。頭蓋骨のすぐ真下で、血管が膨れ上がるのを感じた。

そして、僕の体の一部は、彼女の中へと溶け込んでいった。


 僕の頭が回り出す頃には、すでに彼女は僕から離れていて、その体に浴衣を纏おうとしていた。

「浴衣着たくなったんだ」彼女は笑顔を浮かべながら袖に腕を通す。

僕は彼女の体を見て、少し前まで僕を包んでいたその腕の細さに気がついた。その腕を掴んで引いたならば、すぐに折れてしまいそうなほどだった。

「浴衣持ってたんですね」僕はそう言った。

「こっちに来る時にお母さんが持たせてくれた。きっと必要になるから、って」彼女の浴衣は深い紺色の生地で、明るいオレンジの花が刺繍されていた。その花はマリーゴールドだと彼女が言った。

「まぁ、今日初めて着たんだけどね」彼女はそう言うと、僕の横に腰掛けた。


「あの夜、私すごく気分が悪そうだったでしょ。あれ抗酒剤のせいなの」彼女はそう言うと一度話すのをやめ、僕の方を見た。

「続き、話していい?」彼女が聞き、僕は頷く。

「抗酒剤ってのはアルコール依存症の治療のための薬なんだけど、それを飲んだ後にお酒を飲むとね、すごく気分が悪くなるんだ」

僕は何も言わなかった。どう言った言葉をかけることが正解なのかは分からないけど、黙って聞いておくことは恐らく間違いでは無いはずだった。

「私、美大に通ってたの。高校の時に進路選ぶでしょ?その頃ちょうど絵に凝ってたの。ほら、十代後半って色々悩むでしょ?でも私はあんまり悩まなかった。それはきっと絵を描いてたからなの。恥ずかしいけれど、私には絵の才能があると思ってた。だから私にとって絵を描くことは使命のような物で、私の生き方だと思ってた。でも、美大ってすごいんだよ。私より絵が上手い人が山ほどいる。むしろ、私なんて下から数えた方が早いくらい下手だった。最初の頃は練習しなきゃと思ったけれど、すぐにどうでも良くなった。結局、絵なんてそこまで好きじゃなかった。私が好きだったのは、絵を描いて自分を認めること。絵の技法とか、有名な画家とか、そんなものはどうでも良かった。絵を描いて、自分はすごいんだって思えれば良かったの」彼女はそこまで話すと、少し僕の目を見た。そしてすぐに続きを話した。

「美大に来て初めて、他の人の絵をちゃんと見たの。やっぱりみんな私より上手い。それは勿論、私よりあの人たちの方が絵を愛してるし、私より練習もしてる。私より上手で当たり前。それでいつの間にか、私は絵なんて描かない方がいいと思い始めた。他の人の絵を見ることが怖かったし、『自分には彼らほどの愛がないから』とかなんとか言って、自分の技術の低さを許そうとしてた。それで、そんな私にアルコールがつけ込んできたの」

僕は彼女の目を見て小さく頷いた。彼女もまた小さく頷いた。


「でも、やっぱり絵を描きたいんだ。けれど、一枚も描かないまま四年が経った。おかしいよね、こんなの。自分でもそう思う」彼女は俯きながらそう言った。紺色の浴衣の中で、彼女は段々と小さくなっていくように見えた。

「人はみんなまともじゃない。唯一違うのは、それに気づいているかどうかだって言ったのは志賀さんですよ」僕はそう言った。

「その呼び方嫌だなー」彼女は笑う。僕の返事に同意も反対も示さず、ただ笑う。

彼女は僕の肩を掴み、ベッドの上に倒す。

僕の頭が彼女の枕に沈む。彼女の匂いがする。それは冷たく、澄んだ香りだった。

「今くらい名前で呼んでよ」数コマ分遅れて、彼女の頭が隣に落ちる。

「呼べない?もしかして恥ずかしい?君、きっと今日が初めてだったでしょ?」彼女が楽しそうに笑う。

「舞さん」僕は彼女の目を見て言う。

「なに?」

「僕、多分何も付けませんでしたよね」からかわれた仕返しに、僕はそう言った。僕の目線は自然と彼女の腹部に落ちた。

最悪だ、と彼女は言う。

「もっとロマンチックな話のために呼んでよ」彼女は冷たい目で僕を睨み、僕の胸骨に指を突き立てる。

「例えばどんな感じですか?」

「綺麗だよーとかかな」

「舞さん」僕はそう言うと、彼女の頭を抱き寄せた。こうすればぎこちない表情を見られないで済む。

「なに?」僕の腕の中で彼女の声が震える。

「綺麗だと思います」

「弱く思う?強く思う?」

「強く思います」

「どのくらい強く思う?」

「かなり強く思います」

僕がそう言うと、彼女は足をばたばたと動かし、僕の胸をおでこで何度も叩いた。

「舞さん」僕は出来るだけ静かな声色でそう呟いた。

「なに?」

「舞さんの好きな絵を描けばいいと思います。上手とか下手とかじゃなくて、舞さんの好きな絵を描いてほしいですし、いつか僕も見たいです。絵が下手なことくらいなんてことないです」僕がそう言うと、彼女は僕の腕の中で笑った。とても小さい震えだったけれど、確かに笑った。


全ての始まりのような夜だった。

何かと不慣れな二人の関係は、夏祭りから始まる物だと思っていた。

当然、僕と彼女の関係も、これからなのだと思っていた。


「志賀 舞」それが彼女の名前だった。

彼女の近くにいた記憶は、そう長い物じゃない。

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