僕と彼女


 社会との関わりを持たずにいると、日付の感覚が薄れてくる。まず平日という概念が薄れ始め、休日もまた相対的に薄れてくる。やがて時間の感覚は二極化され、昼と夜の区別しかつけられなくなる。月日の流れが明暗のコントラストによってしか理解できなくなり、日々は早回しのフィルムのように過ぎていく。何もすることがないと、暇つぶしだけが上手になり、時間ばかりが過ぎていく。

 その夏においては、彼女と会う夜だけが<時間>として僕の中に存在していた。僕たちはとても長い距離を共に歩いた。会話はあまり多くなく、日によっては一言も話さずに別れることだってあった。それは全て彼女次第だった。程よく酔いの回った彼女はぽつりぽつりと話したが、青ざめた顔とおぼつかない足取りでひたすら歩くことも多かった。

「大人ってそんなに毎日お酒を飲むものなんですか?」ある日僕はそう聴いたことがあった。

「何?君は私がおかしいって言いたいの?」彼女は僕のことを<君>と呼び、いかにも年上の人間が年下と接する時のような、遠慮のなく大雑把な口調を使った。打ち解けた会話に慣れていない僕は少し戸惑ったが、気を使われないということは心地よかった。

 彼女は二十四歳の会社員で、僕は彼女よりいくつも若かった。

「あのね、人は皆んなまともじゃないの。私も、君も、どんな聖人君子も。それに気づいているかどうかってだけ」彼女はそう言いながら僕の前を歩いた。彼女が歩くたびに髪が揺れ、シャンプーの香りだけが僕の前に残される。その甘い香りの中に居続けると脳の奥が溶けてしまいそうな気がして、僕は歩みを早め彼女の前に出る。

「それは誰の言葉ですか?」僕はそう聞く。

「うそ!君ノルウェイの森読んだことないの?」彼女はびっくりしたような表情でそう言った。いつもは角々しい彼女の目が柔らかく開かれているのがわかった。

「名前だけは聞いたことあります」

「えー、君って仮にも文学部志望なんでしょ?」彼女は呆れたように言う。「その小説の中のセリフ。その要約」

「良い言葉ですね」

「当たり前でしょ?どれだけ有名な小説だと思ってるの?」

 彼女は色々なことを僕に教えてくれた。好きな小説の話だとか、好きな映画の話だとか。歩いている時の会話の殆どはそう言った話で、彼女が一方的に自分の好みについて弁舌を振るった。僕は彼女の話を聞くことが好きだったし、僕の側には会話の引き出しはないから、とても楽だった。


     *


 二人で海に行ったことがあった。梅雨が明けたあたりの暑い日で、もちろんそれは夜の海だった。

「海に行かなければならない」それは僕らの間に存在した共通認識のようなもので、どちらが先導するでもなく、自然な流れとして海岸へと辿り着いた。僕たちは漂着物の少なく、潮の匂いの薄い浜辺を選び、波打ち際まで歩いた。歩くたびに靴の中に砂が入るので、僕と彼女は靴を脱いで裸足になった。

「怪我しそうで怖いですね」僕は恐る恐る足を踏み出しながら言った。海水浴場でも何でもないただの海岸であるこの浜辺には、綺麗な場所を選んだとはいえゴミが多かった。ガラス片を踏めば足を切りかねない。

「大丈夫、大丈夫!」彼女は足元など気にせずに、駆け足で波打ち際を目指す。

「怪我したら帰るの大変ですよ」小さくなる彼女の背中に向けて、僕は少し大きな声でそう言った。

「怪我したら背負ってもらうから大丈夫!」彼女はこちらを振り向かずに歩き続ける。

「浪人生にそんな力はないですよ」そう返すけれど、きっともう彼女には聞こえていない。

 僕はなんだか近寄り難くて、打ちつける波に足をくすぐられる彼女のことを少し遠くから眺めていた。彼女は僕の様子に気がついたらしく、こちらを見て手招きをした。僕はゆっくりと彼女へ近づいていく。月明かり以外に光源のない砂浜では、彼女のシルエットだけがぼんやりと光り、彼女の表情は見て取れない。黒い影が僕を誘っているように思えた。

 結局僕らは、その海岸で一時間ほど過ごし、日付が変わる前には別れた。

 

     *


 二人で夏祭りに行ったのは、それから少したった土曜日だった。初めからそうするつもりではなかったし、他人との関わりのない僕には夏祭りなんて縁もなかった。その日だって、夏祭りがあることを知ったのは会場の手前まで来てからだった。

 日が落ちて少し時間が経ち、薄青に包まれていた街もようやく暗くなった。道はいつものように静かで、コンクリートに置き去りにされた昼間の暑さが、行き場を求めてまだ漂っていた。僕たちはいつものように静かに歩き、たまに話をした。

小さな女の子が僕たちを追い抜いた。小さな体に纏った小さな浴衣。

「浴衣だ」彼女が呟く。

「夏っぽいですね」僕たちは浴衣の少女を見ながらそう話した。

「ここ、右に曲ろう」彼女は左手の人差し指で曲がり角を指す。


それは突然現れた。

「うわ」彼女が無感情にそう呟く。

角を曲がったそこは駅から続いている大きな道で、その道幅いっぱいを埋めるように人の波が連なっていた。

「祭り……?」

「お祭りなんだろうね」

「行きますか……?」

「行こう」彼女は少しの間考えを巡らせた後でそう言った。

僕らは往来に混じるために呼吸を整え、リズムを合わせて飛び込んだ。

誰もが同じ速度で歩いていた。彼らの中に滑り込んだ僕たちは、彼らの速度に合わせて前へ進んだ。普段ならどちらかが適当な速さで歩き、もう片方がそれに追従するのが僕たちだったが、夏祭りへ向かう人混みの中とあっては必然的に隣を歩くことになった。

「やっばい……人多い……」そう呟く彼女は、握った手のひらを体の前に寄せ、ボクシング選手の防御姿勢のように身構えている。

「人間ってこの世界にこんなにいたんですね……」僕たちは人の住む街にやってきたぬいぐるみのような感想を言い合った。


 夏祭りは海岸に近い大きな公園で行われていた。街路樹の間を繋ぐように下げられた提灯は赤黒い光を周囲に広げ、小さな子どもが手に持ったおもちゃは五色ほどのLEDを光らせている。警備スタッフが振り回す誘導棒すら、祭り特有の情緒を引き起こしているように思えた。僕たちは地元の企業が配布していたうちわを貰い、大して涼しくならない上に嵩張るのですぐに捨てた。

「人多い……」彼女はいつまでもそう愚痴を言い続けており、僕が数えた限りでは合計で十五回呟いていた。

人が多い、彼女はそう文句を言っていたけれど、表情は明らかに和らいでいた。

「ねぇ、何か食べようよ」彼女は僕にそう言うと、早速ポケットから財布を取り出した。意外と楽しそうだな、僕はそう思った。

「僕財布持ってきてないんですが」僕はポケットをぱんと叩く。

「そう言うことはね、年上に任せておけば良いんだよ。ほら、何にする?」彼女は笑う。

「良いんですか?」

「良いよ」

「ほら、何食べる?たこ焼き?綿飴?」

「たこ焼きが食べたいです」

「よし。じゃあ買ってきて」彼女は財布から千円札を取り出し、僕に手渡す。「二人分ね」

 一緒に買いには行かないんだ、僕はそう思ったけれど、後ろで手を振る彼女を見ると、そんな不満は些細な問題へと変わった。

 「ソースとマヨネーズのたこ焼き、二つお願いします」僕は夜店の店主にそう言った。千枚通しを器用に扱うその店主は体格のいい中年の男で、なんともまあ<夜店の店主>らしいなと感心した。見渡すと全てがそうだった。どの物事も、全て「夏祭り」と言う極めて量産化された劇を演じる役者や小道具だった。僕は<二人分のたこ焼きを買う客の役>に徹し、それはどこか懐かしく、僕を楽しげな気分にさせた。

 二つのプラスチックトレイを持った僕が彼女の元へ戻る頃には、あれだけ僕らを覆っていた人混みの密度は少し小さくなっていた。

「人減りましたね」僕は彼女にトレイを手渡しながらそう言った。

「そうだね。何でだろう」彼女は嬉しそうにそれを受け取る。

道の端でトレイを持った僕らの前を、何組もの集団が早足で通り過ぎる。

「何かあるんですかね」

「着いていってみようか」彼女は歩き始めた。ここではたこ焼きを落ち着いて食べることも出来なさそうだったので、僕は彼女に着いていくことにした。


「打ち上げ花火観覧席」彼女が張り紙の文字を読み上げる。

「今から上がるらしいですね」僕は張り紙に記載された時刻を見て言う。

「らしいね。でも……」

「人多いですね」

「うん」

 結局僕たちは、そこから少し離れた場所で花火を見ることにした。公園の外れのその場所にはあまり人もおらず、空を覆う木々もそう多くはなかった。

「たこ焼き、冷める前に食べよっか」

「そうですね」僕たちは竹串に刺したたこ焼きを口に運ぶ。

「うん」少しぬるくなったたこ焼きを頬張って僕は言う。

「うん」彼女もまた、それを噛みながら頷く。

「そんなに熱くはない」彼女が言う。

「そうですね」僕は二つ目に手を伸ばす。しかし、それは情けなく地面に落ちることになる。


 一発目の花火が上がった。後に続く物のための道を切り開くように、とても高いところで破裂したそれは、彼女の心臓を驚かせ、僕の手を滑らせた。

「びっくりした……!」彼女はそう言うと僕の失態に気づいたらしく、大きな笑い声を上げた。それは二発目以降の花火と人々の歓声にかき消され、僕の耳には届かなかった。

「ズボンにつかなくて良かったね」ため息をつく僕を見た彼女がそう言った。多分。


 花火は三十分ほど上がり続けた。あまりに大きな音と振動に晒された僕はなんだか息苦しくなり、彼女の方を向く。彼女の目はどこかうつろで、あと一度でも気温が上がれば虹彩ごと溶け落ちてしまいそうだった。彼女の唇が小さく開いていることに気が付く。薄桃色の花びらのようなその唇は空に向かって薄く尖り、彼女の持つ全てにおいて一番美しいように思えた。普通の男女だったら、暗闇に紛れてキスでもするのだろうな。どう考えても、この状況の真後ろにはキスが控えている筈だった。けれど彼女の側には勿論そんな気は無いだろうし、僕にだって勇気はなかった。すぐそこにある筈なのに、その距離はとても遠かった。


 花火が終わった。僕たちは少しの間、その場所に留まり続けた。人がいなくなるにつれて、目立つのは交際しているであろう二人組ばかりになった。僕たちの目の前に座っていた二人が軽く口づけするのを見た。条件反射的に彼女の顔を見ると、彼女もまた僕を見ていた。僕たちは互いの目を見つめあい、感情を探った。数秒それを続け、どちらともなく不思議な表情を浮かべた。上がる口角と、それを押し留める自制、そして自制を少し上回る、照れ隠しの笑み。合計すると不思議な笑顔となり、僕らは二人ともそれを浮かべた。笑っちゃダメだよね、彼女はそう言いたげだった。

「あのさ」彼女が身を乗り出して呟く。

「さっきのことだけどさ」彼女がそう言い、僕は頷く。

「さっきのたこ焼きってさ」彼女の口角はさらに上がる。

「不味かったよね」「美味しくなかったです」僕たちはほぼ同時にそう言った。

「だよね」彼女と僕は声をあげて笑った。目の前の二人組が疎ましそうに去っていた。


 

「君って実家はこっち?」ゴミ箱にトレイを投げ込み、公園を出ると彼女はそう聞いた。

「はい。この近くですよ」

「実家暮らしなんだ」

「浪人生なので」

ふーん、と彼女が言う。

「じゃあ、やっぱり家でたこ焼きとか作るの?」服の襟元を直しながら彼女が言った。

「まぁ、少しは」

「君も作れる?」

「いや、多分無理です」

「なんだ、頼りないな」彼女は非難のこもった目で僕を見る。

 

どうしてですか、と僕は聞く。

今から私の家でたこ焼き作ろうよ、と彼女が言う。

いいですよ、と僕は返す。

なら早く行こう、と彼女が笑う。

まだ夏祭りは終わっていないけれど、僕たちは二人で抜け出した。


     *


 僕たちは一駅だけ電車に乗り、彼女の住むアパートへ向かった。途中でスーパーに寄って、足りない食材を買った。

「たこ焼きって何の粉使うの?」買い物カゴを僕に押し付けた彼女がそう聞いた。

「わからないです」僕はそう言う。

「えー、役立たず。もっと家事手伝いなよ」彼女は僕を睨んだ。

分からないと言うのは、半分嘘だった。その時点での僕にはもう思考の余力なんてなく、はっきり言うと、とても緊張していた。

「何使うのー」反対に彼女はいつもより口数が増え、棚に並ぶありとあらゆる粉―小麦粉から米粉まで全て—をカゴに放り込み、結局端に置かれていたたこ焼き粉を見つけてはため息をついた。


 「ほら、こっち」彼女が僕の背中を指で突く。

具材やら何やらを満載したビニール袋を手に掲げた僕は彼女にせかされる。

「どっちですか?」

「あっちの方」彼女は抽象的な指示しか与えず、僕が間違えた道を選ぶたびに僕の背中を突いた。


 彼女のアパートは小綺麗で、いかにも彼女くらいの歳の社会人が住んでいそうだった。去年の受験期に見にいった学生向けのアパートとはまるで違う。彼女がオートロックを解除して、僕たちはエレベーターに乗り込む。

「八階押して」彼女は僕に頼んだ。

僕はボタンを押す。ぴーん、と言う小気味良い音が鳴り、目的の階に着いた。


 鍵を差し込んだ彼女は、それを回す前に僕を見てこう言った。

「ごめんね」

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