月明かりと狼


 街灯の少ない、とても暗い道だった。前日の雨か夕方の雨か、どちらかによって作られた水溜りが残るコンクリートは、足元から見上げるような湿気の要因となっていた。振り下ろす腕がかき分ける空気は明らかに粘度を増している。幹線道路から少し外れた、住宅街の始まりのような場所。そこを何十キロにも渡って貫く一本道を、僕はよく歩いた。帰る気になればただ振り向くだけで良いので、方向音痴な僕はそう言った道を選ぶよりなかった。いつもなら既に踵を返しているが、その夜はまだ歩きたかった。鬱陶しい湿度のせいで、歩けば歩くほど気分は落ち込んでいった。そして、気分が落ち込むほどに帰る気が失せていくのだ。僕は歩き続け、ふと空を見上げた。ため息すら吐きたく無いほど湿っているのに、月はとても綺麗だった。

まるで海の中にいるみたいで、体の動作は鈍く、液体のような空気がまとわりつくのに、月だけはとても明るかった。


 そんな月明かりの下で、彼女は四つ這いになっていた。細い歩道の真ん中、濡れたコンクリートの上。その場所で彼女は地面に膝をつき、何度も嘔吐していた。


彼女の背中や首が、まるで嵐の海のように波打った。

彼女は喘ぎ、開いた口からは白い歯が見えた。

彼女は呻き、その姿は死肉に牙を立てる狼に似ていた。

僕は彼女を見て、とても美しいと感じた。


     


僕は彼女に近づいた。彼女の髪は肩の上で短く揃えられており、彼女の目はまるで剥離した鉱石のように冷たかった。

「大丈夫ですか?」僕はそう声を掛ける。

彼女を助けたかった。こんな夜道は、一人で苦しむには少し暗すぎる。

「う……」彼女は低く唸り、僕を見上げる。

彼女を助けたい。それは苦しむ彼女を美しいだなんて思ったことに対する僕なりの償いで、ひどく偽善的だったかもしれない。けれど、偽善であれ何であれ、今の彼女は助けを求めているように見えた。僕は膝を曲げてしゃがみ、彼女と目を合わせる。

「何か必要なものはありますか?」僕は彼女が聞き取りやすいように話す。「水とか、何か要りますか?」

 彼女は不審者を見るような眼差しを僕に向ける。

「嫌でしたらすぐに立ち去りますよ」僕がそう言うと、彼女は小さく首を振った。

「……背中に手を置いてくれますか……」彼女は弱々しくそう言った。

僕は彼女の肩甲骨の間に右手を添えた。暖かくて、少し震えていた。彼女はそうした状態で数回息を吸って呼吸を整えると、また嘔吐を始めた。僕は彼女の横髪を掬い、邪魔にならないようにした。

 湿っぽい空気にアルコールの匂いが混ざる。金曜日の夜だ。スーツ姿の彼女はきっと飲み会か何かの帰りで、ハメを外し過ぎたのだろう。数分の後に、彼女はようやく落ち着いた。ふらふらと歩き、近くのバス停のベンチに座り込む。僕はそばに放られていた彼女の鞄を持ち、隣に座る。

「もう大丈夫そうですか?」

「はい……」彼女はスーツの袖で口元を拭いながら呟いた。

「ありがとう、ございました……」彼女は僕を見てそう言った。まだ呼吸が整っていないらしく、息を吸うごとに彼女の肩は揺れた。

「いえ、そんな」僕は首を振る。彼女も僕もベンチに座ったまま、時間がすぎて行った。こんなとき、どう答えるのが正解なのだろうか。僕はそう考えていた。誰かに感謝された時、どう返事をすれば良いのだろう。


 僕はこれまで生きてきて、人に感謝された記憶があまり無い。誰かの役に立ちたいなんて思ったことはなかった。電車に揺られる僕の前に老人がいても、僕は席を譲らない。そもそも僕は電車で座ることがない。誰かに席を譲るために体力や気力を使うくらいなら、初めから立っておくほうがいい。道端で困っている人を見かけても、僕は素知らぬ顔で通り過ぎる。無関心を装いながら、その表情の下を罪悪感で埋め尽くしながら。

「僕の見えないところで困ってくれ」僕はいつもそう思う。見えないふりをする罪悪感を僕に与えないでくれ。僕には分からない。誰かを助ける方法が分からない。僕の言葉はその人にとって価値があるのか?僕は誰かを助けられるほど生き方について何かを知っているのか?そもそも、人間が誰かを助けるなんてできるのか?僕はそんな考えを浮かべながら、彼らの隣を通り過ぎる。

 

「あの」彼女の声で僕の思考は一時停止した。「もう時間も遅いので……」

「僕はそろそろ帰りますね」僕はそう言った。彼女はきっとそれを望んでいる。

「ありがとうございました」彼女はそう言ってベンチから立ち上がったが、足元がおぼつかないらしくすぐにまた座り込んでしまった。

「一人で帰れますか?よければ近くまで送りますよ」そう自分で口にしておきながら、これではまるで不埒な男のようだと、少し嫌気がさした。

「もちろん家の前までは着いて行きませんよ。良さそうな頃合いを見計らって帰ります」

「では近くまで……」彼女は少し躊躇っていたようだが、結局は僕の提案を受け入れた。

 僕らは横に並んで歩いた。僕は彼女の鞄を持ち、彼女は俯き加減で歩く。

 その夜は本当に月が綺麗だった。頬を撫でる湿った風すら心地よくて、湖の底から水面を見上げているような気分だった。手に届く全てのものが自分だけのために用意されているように感じた。隣を歩く彼女さえ、自分の生活の一要素であるかのように思えた。そしてそれは人助けとは何一つ関係のない、ただの身勝手な空想だった。


 「あ、携帯……」不意に彼女が立ち止まり、そう呟いた。

「どうしました?」僕は数歩先で振り向く。

「いや、携帯落としたみたいで……」彼女はズボンのポケットを撫でる。「鞄にあるのかも……」

 そう話す彼女に僕は鞄を返し、彼女は中を探る。

「やっぱりないみたいです……」

「ここまで結構歩きましたよ」



 結局、僕と彼女はそこで別れ、僕は家に帰った。

明日の夜、二人で携帯を探す約束を取り付けて。

人助けという名目を使い、彼女にまた会えると言うことが嬉しかった。

それは彼女の弱みにつけ込む卑怯な行いかもしれない。

けれど、少なくとも彼女に被害を与えることはないのだ。

良し悪しの比率で判断すると、それは間違いなく良いことだった。


それは月明かりの眩しい、湿った梅雨の夜だった。


     *


 翌日の夜、僕らは二人で歩き、携帯を探した。彼女はその日も酔っていたけれど、流石に吐くほどではないらしく、気持ちよさそうに歩いていた。

「もしよかったら、たまにこうやって散歩しませんか?」そう誘ったのは彼女の方だった。なぜ彼女がそんな誘いをしたのか、当時の僕には知る術もなかった。それは間違いなく不自然だった。けれど、僕はもちろんそれを受け入れた。正直に話すと、僕はおそらく寂しかったのだろう。大学生にもなれず、就職をしたわけでもない僕の生活からは、他者というものが凄まじい勢いで消えていった。一日の中で発する言葉の殆どは呟くように口ずさむ歌で、最後に他人と会話したのはもう何ヶ月も前のことだった。このような生活になることは予め予想できたし、その覚悟もしていた。その生活を望んですらいたかもしれない。けれど、やはり一人でい続けるのは物寂しいのだ。その悲しさは明確な形を持たないけれど、明らかに僕の心の温度を下げ続けていた。隙間風の流れ込んだ真冬の部屋のように、少しずつ、僕は弱っていった。

 だから彼女の誘いを断る理由もなかった。浪人生の暇潰しと、彼女の酔い覚ましは、利害関係としてもちょうどよかった。

僕たちはその日から、毎日のように夜道を歩いた。

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