ガラスの部屋
福津 憂
蜘蛛の糸
「誰かを助けたいときはね、その人がいる地獄の中まで飛び込んでしまえば良いんだよ」
「引き摺り出す必要も、周りの敵を薙ぎ倒す必要もないの」
「その人のための靴を持って、隣まで歩いて行けばいい」
「君は靴を履いているから、怪我はしないでしょう?」
「君が踏み込むための靴と、私が帰るだけの靴があれば良いの」
誰かを助けるなんて、とても簡単なことだ。
手をこまねいていないで、地獄へ飛び込めば良い。
糸を垂らす必要も無いし、一緒に戦う必要も無い。
「帰ろう」
足元に靴を置いて、そう伝えれば良い。
それだけで誰かを救える。
誰かを助けるなんて、とても簡単なことなのだ。
*
その春は僕にとって、退屈と焦燥の入り混じった期間だった。受験に失敗し、浪人生になった僕は、明らかに焦りを感じていた。これまで順調だった人生に小さな綻びができたのだ。僕はその<ほつれ>を怖がっていたし、そのことについて誰かに相談さえした。しかし誰も僕を助けてはくれなかった。
「浪人くらいなんてことないよ」両親はそう言った。そんなことくらい、僕にだってよく分かっている。たかが一年二年の差なんて、大した問題ではない。僕が怖がっていたのは物理的な問題ではなく、僕自身についてだった。
何かにつまずいた人間はいとも簡単にバランスを崩す。それがどんなに小さな段差であっても、ほんの少し重心がずれただけで僕らは転んでしまう。
転んだ人間の考えは転んだ人間にしかわからないが、およそ二つの選択肢がある。すぐに立ち上がり歩き出すか、意地を張り、泣いたふりをして座り込むかだ。僕はおそらく後者だろう。たかが擦り傷、たかが数メートルの遅れ。その程度の綻びが怖いのだ。その程度の綻びで座り込む自分が嫌なのだ。
僕が求めていたのは、座り込む僕の横に立っていてくれる人間だった。僕が立ち上がったときに、僕のズボンに付いた砂埃を払ってくれる人間だった。何も言わずにいつまでも僕の横にいて、ほんの半歩先を歩いてくれる人間だった。僕はそんな人間を待ち続けていた。僕は白亜によって運動場に書かれた長いトラックの真ん中に座り、じっと待っていた。
とても退屈な春だった。
*
退屈な人間は散歩に行くものだ。僕はそう思っていたし、実際によく散歩に出かけた。僕が歩くのはいつも夜道だった。昼の街は人が多く、行き交う人間の様子がよく分かった。そして僕はそれが嫌だった。夜の道の良いところは、すれ違う誰もが歪に見える点だ。犬の散歩をしていても、勤め先から帰っていても、誰もが歪に見える。日光の元では取り繕っている歪みが曝け出されているように感じる。僕はそれが心地よかった。昼の街にはない落ち着きだ。昼の街はまるでのりの効いたシャツのようだ。誰もが目的地を持っていて、カバンの中には使命が入っている。そんな往来に立っていると、自分だけが目立っているように思えてくる。いや、自分だけが地下深くに埋まっているような、そんな感覚だ。僕はコンクリートのずっと下にいて、頭上には人々の足音が響いている。僕は身動きが取れずにいるのに、頭の上では絶え間なく人々が動いている。自分はずっとそこにいるのに、座標の原点は人々の中にあって、僕は自分が遠くまで押し流されているように感じる。
だから僕は夜道を好んだ。同じ道を毎日のように、何時間もかけて歩いた。それを数日も続けると足が痛んでくる。歩くたびに膝の裏が痛む。痛む右足を引きずるようにして、翌日も歩く。僕はとてもよく歩いた。けれど、どこへもいけないのだ。どこかで回れ右をして、往路から復路に変えなければならない。同じ場所に戻って、抜け出した時に付いたままのシワが残るベッドに潜り込む。とても退屈な散歩だ。退屈凌ぎの散歩もまた退屈なのだ。
*
退屈な春が終わり、退屈な梅雨が始まった。退屈な季節において、退屈な梅雨というものはかなりの強敵と言える。歩きに出ようと思っても、天気のご機嫌を伺わなければならない。確かあの日も、予報では雨が降るはずだった。でも僕は歩きに行った。濡れることになったとしても構わないと思えるほどに暇だったし、降水確率もそれほど高くはなかった。歩きに出た理由としては後者の比重が大きい。僕はそれほど挑戦的でもないのだ。けれど、その日の散歩は僕の梅雨を、そして次にやってくる夏を大きく変えた。その変化が好ましいものかどうかは今でもわからない。得られた物と失った物を天秤にかけても、だ。
浪人生の暇潰しと、彼女の酔い覚まし。その二つの過程において僕らは、互いに大切な物を預けあった。そのうちのいくつかは綺麗に磨かれた上で返却されたが、少なくない数のものは盗まれた。彼女は僕の物を奪ったし、僕だって彼女の物を奪った。得られた物と失った物。その比率によって物事の良し悪しを図ることはできない。それはそのどちらもが独立すべき事柄だからだ。その二つを同時に眺め、物事を判断するのは難しい。
彼女は僕の暇を取り去った。僕は彼女の酔いを取り去った。まずはそこから始めよう。その事実を独立的に捉えた際には、僕らの出会いはとても素晴らしいものと言える。あの梅雨の夜に僕は散歩に出かけ、いつもより少し遠くまで歩いた。そして僕は彼女と出会った。生垣に向かって何度も嘔吐する彼女に、僕はその夜初めて会ったのだ。
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