彼女の拳銃


 次の日の夜、僕は彼女のアパートを訪れた。その日はいつもの場所で待ち合わせをして、いつものように歩く約束だった。どれだけ待っても彼女が姿を見せないから、僕は迎えに行った。

 昨日の夜盗み見た番号を入力し、エントランスのオートロックを解錠する。エレベーターに乗り、八階を選択する。ぴーんと言う冷たい音が響き、ドアが開く。

 彼女の部屋の前に立ち、インターホンを押す。その場に立ったまま一分が経つ。ドアノブに手を掛ける。鍵が開いていることを知る。真っ暗な玄関で、砂浜に立ったような感触を覚える。靴底で踏みつけるそれが、割れたガラスの欠片であることにはすぐに気がつく。僕は靴を履いたままリビングへと入る。ガラス片は床中に広がっている。昨夜までは角瓶の形を保っていたそれらは、バラバラになってしまった。

 ガラスの欠片の中心に、彼女は横たわっていた。隣まで歩いていき、しゃがんで彼女のことを見る。彼女は泣いていた。ここから出してあげないと、僕はそう思った。

「待っていて下さいね」僕はそう言うと、玄関へ行き、彼女の靴を手に取った。

彼女の元へ戻り、彼女の隣に靴を置く。

「立てますか?」彼女は返事をしなかったが、僕が腕を引くとゆっくり立ち上がった。

「風呂場へ行きましょう」彼女の腕を引いたまま、僕はリビングを出る。歩くたびに足元でガラスが砕ける。砂浜に転がった貝殻を踏み割るような音がした。


 空の浴槽の中に彼女を座らせて、僕は彼女の体を洗った。彼女の向かいに僕も座り、裸の彼女に暖かいシャワーを浴びせた。彼女の髪が濡れ、体を覆っていたガラスの欠片は落ちていく。全身にできた傷口から血が滲み、赤い川となって浴槽の底を流れた。

「絵を描こうとしたんだ」彼女が初めて口を開いた。薄く尖った唇は異常なまでに白く、頬を伝う血はとても赤かった。

「でも、やっぱりだめだった」彼女はその両腕で抱いた膝をさらに引き寄せ、僕を見てそう言った。

 彼女を見ていると、僕の感情は激しく高ぶった。彼女の体を抱きたいと思った。昨日の夜よりもずっと強く、僕の体は彼女を求めた。そして恐らく、彼女はそれに気づいていた。

「ごめんなさい」僕は謝る。

「良いよ」彼女はそう呟く。「悪いのは私だから」


違う、悪いのは僕だ。何から何まで、僕のせいだ。

絵を描いたらいい、なんて言ったのは僕だ。

彼女に絵を描かせるべきではなかったのだ。

僕が思っているよりもずっと、彼女は暗い場所にいた。

そしてその場所は、この浴槽よりもずっと血生臭いのだろう。


     *


「私ね、冬の夜を歩く時は、コートに拳銃を入れるの」彼女はそう言った。


「指を拳銃の形にして、それをポケットの中で構えるの。

そしてすれ違う人を全員撃ち殺す。

その血で絵を描いていたの」


 僕は何も答えられなかった。

「例えだよ、例え」彼女がそう言って笑い、僕の体に抱きつき、軽くキスをした。

彼女は自分の創作欲求を拳銃に喩えた。


「知ってる?銃弾が体に飛び込むとね、入口よりも出口の方が大きな穴になるんだ」僕の唇から数ミリ離れたその場所で、彼女は話をした。

「銃弾は体の中で回転するの。内臓を抉って、筋肉を押し広げて、最後は大きな穴を開けて外に出ていくの」

 彼女の裸体から滲む血液でシャツが汚れ、口の中には薄く血の味が広がった。


「きっと、誰かに助けて欲しかったんだろうね、私は」僕の体に身を寄せたまま、彼女は話す。

「私を助けてくれる人じゃなきゃ嫌だった。私を助けてくれるのかどうか、見極める必要があった。だから絵のことは昨日まで話さなかった」

「初めからこうしてもらうつもりだった。そうでもなければ、君と仲良くなったりしない。君を誘ったりなんてしない。分かるでしょ?」彼女が首を傾げ、僕は頷く。


君じゃなくても良かった。誰でも良かった。

でも、君しかいなかった。


「誰かを助けるなんて、僕には無理ですよ」僕がそう言うと、彼女は覆い重ねるように話した。


「誰かを助けたいときはね、その人がいる地獄の中まで飛び込んでしまえば良いんだよ」

「引き摺り出す必要も、周りの敵を薙ぎ倒す必要もないの」

「その人のための靴を持って、隣まで歩いて行けばいい」

「君は靴を履いているから、怪我はしないでしょう?」

「君が踏み込むための靴と、私が帰るだけの靴があれば良いの」

ゆっくりと、断片的に、彼女はそう言った。


 彼女の体をタオルで包み、彼女に靴を履かせる。

彼女のために部屋をほんの少し片付け、二人で眠るための場所を作った。

僕たちは深い眠りについた。口の中に残る血の味だけを、最後まで覚えていた。

目が覚めるとすでに夜は明けていた。

少ししか眠っていないような気がしたけれど、明け方の薄い光が部屋に差していた。

これは夢なのかもしれない。そう思うほどに綺麗な光だった。


 僕たちは目が覚めてからも、しばらくの間はベッドの上で横になっていた。僕は枕元に小さな瓶があることに気がついた。それは小さな茶色の小瓶で、「シアナマイド」と書かれていた。僕は瓶の蓋を開け、それを口に含み、飲み込んだ。彼女はそれを黙って見ていた。僕が瓶を元の場所に戻すと、彼女もそれを手に取り、口に含んだ。

「ちょっと待つの」彼女がそう言う通り、僕たちは数分の間座っていた。

「そろそろだよ」彼女は立ち上がり、どこかから酒の入った角瓶を持ってきた。彼女はそれに口をつけ、数口分飲み込んだ。僕もそれを真似た。

 鼓動が早まりだしたのは、緊張のせいだと思っていた。顔が熱くなり、息が苦しくなった。先に風呂場へ向かったのは彼女だった。僕もすぐその後を追った。浴室に四つ這いになり、僕たちは吐いた。激しい嘔吐だった。息を吸って、胃の内容物を吐く。吐くものがなくなったとしても不快感は消えず、僕は透明な胃液を吐いた。僕の吐き出した透明な液体が、彼女の吐いた胃液と混じる。彼女が唇から垂らすその液体は、薄赤く染まっていた。

「食道が炎症起こしてるの。何度もこうしてるから」


 あぁ、僕は何も知らなかった。僕の頭にはそれだけが浮かんでいた。

あの夜、彼女がこうして吐くのを、僕は遠くから、まるで映画でも見るかのように眺めていた。僕はそれを綺麗だと思った。僕が見たのは、ほんの僅かな部分だったのに。

彼女は毎晩、ずっと一人で、吐き続けていたのだろう。


 僕たちはその後も、何度か嘔吐した。もうこんな気分は味わいたくない、そう思った。


     *


 それからの時間は静かに過ぎていった。彼女は美大を辞め、就職した。夏が終わって行き、僕たちは次第に会わなくなった。彼女は恐らく絵を辞めただろう。それは僕のアドバイスであり、僕の望みでもあった。彼女はもう絵を描かない方がいい。得られるものと失うものの比率で考えた場合、それは間違いなく良い選択だと思えた。退屈な秋が終わり、冬が来た。僕は大学受験に臨み、第三志望の学校にようやく合格した。僕は大学へ通い、初めの一年を何事もなく終えた。大学を苦に思うことも無ければ、好きになることも無かった。平和だった。

「どんな過程を踏んだとしても、平和な終わりを迎えられるのならば、それで良いのだろう」僕は成人し、彼女の部屋にあったものと同じブランデーをたまに飲む。そして軽やかな酔いが訪れると、いつもそんなことを考える。

 彼女が僕にしたキスのことを思い出す。それは唇を通して流れ込んだブランデーの味だった。けれどどうしても、その味が分からないのだ。思い出すようにブランデーを飲んだとしても、それは記憶と上手く結合しない。まるで限りなく透明な板を挟んでいるような、無機質な違和感だった。

 収納棚の奥で見つけた、血だらけのシャツを見ている。一年近くが経ち、黒く乾いたシミとなった血痕。僕はそのシャツをまだ捨てられずにいた。まだそのシャツには何かが残っているような気がしていた。捨てることが許されないようにも思えた。僕はシャツを手に取った。嫌な手触りのそのシャツを、僕は鼻先に近づける。死の匂いがした。僕の体は生理的な嫌悪感を呈し、胃が激しく収縮する。ブランデーが喉元まで上がってくる。僕はそれをやっとのことで飲み込み、シャツを手放す。感情を伴わない涙が一粒だけ浮かぶ。シャツが地面に落ちる。

 僕は気付く。

僕は彼女を助けた。彼女の地獄の中へ歩いて行って、彼女のための靴を渡した。そして彼女を連れ出した。出口の扉を開けて、彼女を地獄から連れ出した。

「もうここには戻らなくていい」僕はそう言って彼女の腕を引いた。

知らない街へと彼女を連れて行った。そして僕は腕を離し、一人で去った。去るべきではなかった。着いているべきだったのだ。彼女の見覚えのある風景に近づくまで。

そもそも、彼女を連れ出すべきではなかった。彼女のために地獄の針山を取り去るべきだった。それが出来ないのなら、靴なんて渡さない方がよかった。

 僕が悪いのだ。彼女を、誰も知らない、遠い場所に置いてきてしまったのだ。彼女から絵を奪い去ったのだ。そんな必要はなかった。彼女に取っての絵は、自分を認める手段だった。僕は彼女からそれを奪った。得られるものと失うものの比率で判断するべきではなかった。

 目眩がした。横になりたかった。僕は何かにつまずいた。左半身に衝撃を感じた。口の中が切れ、血が流れ出る。彼女のキスの味がした。


 僕の意識は遠ざかり、長い夢を見た。現実と夢との間は滑らかだった。水平線に落ちる夕焼けが作った、昼と夜のグラデーションのようだった。

その濃紺の向こうで、僕はとても寒い冬の夜の夢を見る。川沿いの長い遊歩道を、一人の女性が歩いている。肩の上で切り揃えられた髪と、剥離した鉱石のような冷たい目。彼女だ、と僕は気付く。彼女は長いコートを着ている。塹壕に潜った兵士のような、分厚く暗い色のコート。彼女は右手をポケットに滑り込ませる。そして拳銃を取り出す。彼女は大きく手を振って歩く。右手に拳銃を下げて。彼女以外には誰もいなかった。何キロも続くその道の上では、彼女だけが歩いていた。彼女は拳銃を持て余す。残念そうな目でそれを見る。彼女は立ち止まり、空を見上げる。何を見ているのだろう、僕は彼女に近づく。彼女は固く目を閉じている。その代わりに、彼女の口は大きく開けられている。白い歯が覗く。狼の遠吠えのように、彼女は口を開け続ける。

 彼女は銃口を咥える。彼女の小さな舌先が冷たい金属の上を這う。彼女の白い歯が金属に触れて音を立てる。彼女は手慣れた様子で安全装置を外し、引き金を引く。あまりにも距離が遠すぎるから、銃声は聞こえない。彼女は静かに崩れ落ちる。僕は彼女の元へ走る。なんで誰も止めなかったんだ。僕はそう叫ぶ。誰もいないからじゃないか。また叫ぶ。彼女をここに連れてきたのはお前だろ。叫ぶ。お前が一緒にいれば良かったんだろ。叫ぶ。僕が叫ぶのをやめると、道はまた静かになった。

 彼女の流した血溜まりの中に座る。彼女の首に手を回し、膝の上に載せる。溢れた脳を掬い上げ、彼女の頭蓋骨の中に注ぐ。全てを中に戻すと、僕は彼女の体を抱き上げ、唇にキスをする。彼女の後頭部に空いた大きな穴から、全てがこぼれて行く。彼女はもう目を開けない。だから僕は、彼女の死体を抱き続けることしか出来ない。彼女の血液に濡れ続けることしか出来ない。流れて行った彼女の血液を思い、後頭部の穴から吸い出された彼女の命を思う。その命がどこかで花となっていることを、僕はただ願う。長い長い夢の中で、僕は祈りを捧げる。


「誰かを地獄から救い出すことなんて、僕らには出来ない」

その言葉で僕は目を覚ます。ゆっくりと、静かにベッドから足を下ろし、靴を履く。台所でコップに水を注ぎ、口内に残る血の味を薄める。僕は深く息を吸って、部屋の中を眺める。掃除をしないとな、そう呟く。

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