第35話 ビアンコスピーノの花言葉

 六年前――


「ハァ……! ハァ……! ハァ……!」


 広々とした廊下の窓から朝日が照らす中……息を切らしながら喜びを全身で表現するように走る少女の姿があった。

 

 清楚感と上品さを兼ね備えた白のブラウスとフリル付きのスカートを身に纏ったそのご令嬢の名は――レイチェル・ヴェンデッタ。今日、十歳の誕生日を迎えたばかりである。


「お父様っ……! お父様が帰ってきた!」


 レイチェルのこの喜びよう……その理由は言うまでもない。誕生日当日には帰ってこれないと聞いていた父親――イアぺトス・ヴェンデッタが仕事の合間を縫って帰ってきたからだ。

 

 朝目覚めるとベットの横には誕生日プレゼントが置いてあり、それを見たレイチェルは大好きな父親の帰還を察し、すぐに身支度をして部屋を飛び出した。


 そして、走るレイチェルのふわりと揺れる黒髪には、煌めく花柄の髪飾りがしてあった。白い花びらを基調としたシンプルなデザインだが、その美しく細かい装飾は高級品だと一目で分かる程だ。これがレイチェルへの誕生日プレゼントだった。

 

「お父様に見せなくちゃ! フフッ……似合うって言ってくれるかな?」

 

 その少女の表情には年相応の純粋な笑みが溢れていた。

 

 ただ大好きな父親に会いたい。

 ただ綺麗な姿を見てもらいたい。

 ただ褒めてほしい。

 

 ただ……それだけだった。


「ハァ……! ハァ……う~ん……お父様、どこに行ったんだろう?」


 立ち止まりつつ辺りに視線を漂わせるが、中々父親の姿は見つからない。十歳の小さな体には、この屋敷は随分と広すぎた。


「早く見せたいのに全然見つからないや……」


 少しばかり落ち込みつつ庭園が見える大きな窓に額をコツンとぶつける。そこからは陽射しによって照らされた草木が青々と生い茂り、それらが風によって揺れている美しい風景が広がっていた。


「いつ見てもいい景色。落ち着くなぁ……あれ?」


 落ち込んだ気分を徐々に取り戻しつつ窓から庭園を覗き込むと、視線の先には件の探し人である父親……ともう一人の姿があった。


「お父様だ! やっと見つけた!」


 レイチェルは一目散に走りだすと、転ばないように長いスカートを脛辺りまでたくし上げ、階段を一段一段降りて行く。庭園に続く廊下の先からは眩しい日差しが光沢感のある床や壁に反射し、その光の中をレイチェルは父親に会うために駆け抜けていく。


「お父っ――様……」


 廊下を抜けたレイチェルは父親に声をかけようとするが……途中でその言葉をトーンダウンさせる。

 

 庭園には神聖な大樹が地面を貫くように一本生えており、その樹下でイアぺトスがある男と神妙な面持ちで話していた。


「あれは……カタリベ様?」


 初代転生者であり、ヴェンデッタ家が住まう帝国と同盟を結ぶ国宝人こくほうびとの語部伝承。この屋敷には時折顔を出していたので、レイチェルとも顔馴染みであった。


「お仕事の話……だよね……?」


 何の話をしているかは聞こえないが、レイチェルももう十歳。父親に甘えたいのを我慢して気を遣うくらいのことはできる……そう思ったレイチェルは近くに会った柱の陰で話が終わるのを待つことにした。





「行かないことを勧める」


 樹下に置いてあるベンチに座っているカタリベは、『煉獄』プルガトーリョと書かれた本を読みながらおもむろにそう語る。


「おや? 普段干渉しないカタリベ殿が口を挟むなんて……珍しいこともあるものですね?」


《ドミナッツィオーネ帝国 大将 イアぺトス・ヴェンデッタ》


 カタリベの向かいに立ったまま驚きの表情で返答したのはイアぺトス・ヴェンデッタ。レイチェルと同じ色の黒髪を靡かせる精悍な顔つきをした男で、青い軍服を着こなす様はまさしく帝国の貴公子という名が相応しい。


「私も帝国に長いこと居るが、君ほどできた人間はいない。他の連中ときたら他人を蹴落とすことしか能がない奴らばかり。だからこそ、そんな君を失うには惜しい……そう思ったのかもな」

「カタリベ殿ともそこそこ長い付き合いになりますが、そんなストレートに言われたのは初めてです。嬉しいですね……」


 イアぺトスは柔らかな微笑みを浮かべるが、すぐに真剣な顔つきに変えつつ言葉を続ける。


「でも私は行きます。行かなければならない」

「やはり、奴の件か?」

「ええ。先日、帝国領土に住まう兵士五千人が兵舎ごと消されたのは御存じですよね? 今年転生してきたばかりの男……アルバス・ブレイカーたった一人によって」

「ああ……とんだ新星が現れたものだな。ここまで事を起こす奴も随分久しい……」

「あの騒動によって、今まで貴族側についていた裏社会の連中が、挙ってブレイカーの傘下に入ってしまいました。中には寝返り始めている貴族もいるとか。その勢力の拡大スピードは異常なほどです」

「今やマリオネッタは奴の国になりつつある。そうなると奴は当然狙うだろうな……女神を」

「ええ。前任の女神から引き継がれたばかりの現女神。彼女が墜とされれば、科学宝具の全システム権限は失われる。そうなれば帝国にはもう為す術がない」

「だから帝国の大将である君は行かなければならない……たった一人で。母や妻、そして娘を残してね。そこまでの価値が帝国にあるとは思えないが?」

「どうでしょうね……ですが私は……生まれ育ったこの国に忠を尽くすだけです。私一人動いたところで、すぐに帝国が変わるということはないんでしょうけれど……世界は皆で回すものですから。誰かが後に続いてくれることを祈るだけです。まあ、一家の大黒柱としては失格ですかね」


 イアぺトスの表情は笑顔だったが、無理に作ったものだと一目で分かるほどで……相変わらず顔に出やすい男だとカタリベは思った。


「というかカタリベ殿。今日は随分お喋りですね? 『全知のカタリベ』の異名をとるほどの貴方なら、わざわざ聞かずとも分かるのでは?」

「最後になるかもしれないからな」

「最後……縁起でもない。ですが、まあ……そうですよね」


 イアぺトスは溜息を漏らしつつ、無理を承知で言葉を続ける。


「カタリベ殿。もし私に何かあったら娘のこと……お願いできませんか?」


 本に視線を落とすカタリベ……両社の間には一瞬、沈黙の時間が流れる。


「私は手を貸さない……貸せない。私の力は奴を倒す為だけに存在する」

「ですよね……知ってます」


 カタリベは本を閉じて立ち上がると、目を伏せつつ去るように歩き出す。


「………………」


 その後ろ姿を見つめるイアぺトスは、決して呼び止めるようなことはしなかった。分かり切っていたことだからだ。


 だが、予想に反してカタリベは立ち止まり、振り返らずに言葉を紡ぐ。


「まあ、そうだな……遠くない未来、ある男がこの世界に来る。君の娘をそいつに引き合わせることくらいはしてやれる」

「この世界に来る……? つまり転生者ということですか?」

「ああ。そいつは無駄にポジティブでな……馬鹿で変態で破天荒で、さらには卑怯者――」

「ちょっ、ちょっと待ってください⁉ なんだかすごい不安になってきたんですけど……」


 そのリアクションにカタリベは顔だけ振り返ると――


「だが……お前の娘を助け、並び立ってやれる。そんな奴さ」


 ――笑みを浮かべながら、そう告げた。


「へえ、カタリベ殿にそこまで言わせるとは……それなら任せられそうですね」


 その言葉に驚くイアぺトスもまた……笑みを浮かべながら、そう返す。


「じゃあな……精々娘を悲しませないよう生き残れよ」

「ええ。また会いましょう……カタリベ殿」


 互いに笑みを交わした後、カタリベが立ち去ろうとする道中、柱の陰に隠れていたレイチェルと目が合う。


「あっ……カタリベ様。お仕事のお話終わりましたか?」

「ああ。悪かったな長々と……それと誕生日おめでとう。残念ながらプレゼントは用意していないんだ。それはまた……いずれな」

「べっ、別に私は何も言ってないですよ? 先読みしないでくださいカタリベ様! それじゃあ!」


 恥ずかしそうに会話を打ち切ると、最愛の父に駆け寄って行くレイチェル。


 そんな嬉しそうに駆け寄る最愛の娘を抱きしめるイアぺトス。


 その二人の姿を見つめつつカタリベは思った……彼はきっとこれから告げるのだろう。最後の想いを……と。



 過去の記憶は更に巡る――

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