第8話 令和三十年 香川
令和二年に始まった人類とウイルスとの戦いは令和三十年になった今でも、未だ続いている。
毎年、十月から十二月のあいだにインフルとの混合ワクチンを打つ決まりになっている。日本では、日本人、外国人を問わず無料で予防接種が受けられる。
それについては日本人はもう恐れは感じていない。
もっと怖い細菌が令和十年に登場したからだ。
地球の温暖化によって、北極圏の永久凍土の大地は酷いあり様だった。
地下に眠っていたメタンが膨張、巨大な丘をいくつも作り、その現れたいくつもの丘は湿原を丘陵地帯に変えた。
そしてその永久凍土の大地に新しく作られた丘は、地下からあふれ出すガスによって、風船が弾け飛ぶように次々と爆発した。
そこに残ったのは深さ数十メートルの巨大クレーターだった。
遥か昔、最後の氷河期より前の地球からの贈り物。飛び散った土の中から現れたその長い眠りから目覚めた病原菌は、そこに生息するシカやクマ、リスやキツネを介してユーラシア大陸に徐々に広まった。
人が感染した場合、発症から死亡までの時間は約七日。サルとヒトのみ発症し、死へと誘った。
ただし、この菌には抗生物質が効いた。すぐに薬を飲めば完治する。今のところは。
その新種の病原菌の対処法が確立され、パニックが収まってしばらくした頃、今度は新しいウイルスが登場した。
南極大陸。ペンギンさえ住めぬ極寒の純白の大地は、徐々にその黒々とした素肌を見せ、その範囲は年々広がっていたが、ここへ来てそのスピードは加速していた。
その遥かな昔に凍り漬けにされた大地の下からは、古代生物の凍った死体が数多く発見された。
南米大陸最南端、アフリカ大陸最南端、オーストラリア南部、ニュージーランド。そのウイルスは南から攻めてきた。
最初はオーストラリアの野生の牛だった。具合の悪そうなそぶりを見せた後、ゆっくり腹が腐れ落ち、そのまま倒れた。
その後、南米ではヤギなどが、アフリカではキリンなどが、同じ症状で倒れているのが発見された。
そして人への感染、死亡。
その後の研究により判明したことは、動物については、反芻をする草食動物、胃が四つある種、つまりウシ科やシカ科やキリン科など。そして、その中でも老齢により抵抗力の落ちている個体のみ。
そして人の事例についても、腹が腐れ落ちて死亡に至るまで悪化するのは高齢者のみで、それ以外の世代は発症しても数日の発熱で完治した。しかし内臓疾患の後遺症が多数報告された。
厄介なことがひとつ。このウイルスは空気感染だった。閉じ込められた空間での寿命が長かった。密閉された建築物は当然ながら、物流コンテナの中の空気、梱包の箱の中の空気、製品の内部の空気、どれもが媒介の危険性を秘めていた。
日本人や周辺のアジアの国々はマスクや除菌など、予防対策との付き合い方もマスターし、一部の国を除いては抑え込みに成功していた。
しかし、その他の地域では依然としてマスク着用は浸透せず、手洗いもままならず、また清潔な水道の整備されていない国も多かった。大半の国でウイルスは感染拡大と縮小を繰り返し、そして多くの人が亡くなっていた。
各国は国外からの輸入制限を強化し、国外から持ち込まれるものにはアルコール消毒や紫外線殺菌をおこなった。もう国内に蔓延しているのに。
かつては、コンテナを満載した巨大コンテナ船が、蟻の行列のごとく世界の海を渡り物流を支えていたが、今では物流のコンテナ船は全盛期の数パーセントにまで減った。
船の燃料として、重油や軽油などの化石燃料を毎日大量消費するコンテナ船の、二酸化炭素排出量も問題視され、その温室ガス問題も減少の要因ではあったが、コンテナで運ばれる荷物の中で大きな割合を占めていた食料の輸出入も、世界的食糧危機により大幅に減少していた。
環境問題に、食料問題に、伝染病。世界経済は虫の息だった。
香川
「修生様、空が黄色いのが分かりますね」
高台から見下ろす瀬戸内海は、大小の島々が海流の中で、沈むまい、流されまいと踏ん張っているような気さえする。しかしそれは海と島々の輪郭が霞んでいるからかもしれず、修生たちと島々を隔てる空間は、澄んだ空気とは決して言えないモヤっとしたものだった。
遠く本州側の対岸を見れば、黒く見える対岸の奥、遠くの山と空の境界線は黄色いモヤでまったく判別がつかない。
「黄砂ですね。この時期は私も初めてですが、ここまでとは思いませんでした」
光鈴の言葉に修生が返した。
三人は四国に来ていた。八十八カ所のひとつである長い歴史のある寺だが、住職は若く、修生の活動に理解があった。
住職と挨拶をかわし、活動への前向きな言葉をいただいた。長い急な石段を登った所にあるその寺は小さな山の中腹で、そこからは広く瀬戸内海が見渡せた。
帰り際、長い石段の上から見る瀬戸内海は、想像していた美しい景色とはまったく違っていた。
「杉の花粉が少なくなってきたと思っていたのですが、西日本に暮らす方々は苦労が多いですね、東京も車などに少し黄砂が積もることもありますが、瀬戸内海の黄砂がここまで酷いとは思いませんでした」
福龍はゴーグルを調整しながら言った。今日の三人はマスクとゴーグルをつけている。
令和初期からのウイルスや病原菌との戦い。
人類は伝染病が蔓延するたびに、マスクやアルコール除菌や、ゴーグルで乗り切ってきた。ゴーグルは、スギ花粉対策用や水泳用、スキー用やバイクのライダー用ゴーグルなどを使用している。
そのゴーグルにELフィルムを張り付け、AR、VRとして使う人も多い。
「こんな黄砂の中でも、ゴミ回収の方々は頑張って働いておられるのですね」
「もしや、あの漁船は魚ではなくゴミを取っているのですか?」
光鈴の言葉に、福龍が驚きの声を上げた。修生が続けて説明する。
「取れたゴミは、その量に比例して国からお金が支給されるそうですよ、漁に出てボウズで帰ってくるよりも、網を投げれば必ず取れるゴミのほうが少しだけ儲けは大きいそうです」
「しかし、この食糧難の時代に、漁船が魚を捕らなくていいのでしょうか」
福龍が疑問を投げ、それに光鈴が返す。
「このあたりの魚は危険らしいです。このあたりから沖縄までと言ったほうが正確ですが」
「危険とは?」
「海水温が昔よりも大きく上がってますから、南国の毒を持つサンゴが海の中に増えてしまいまして、魚がそのサンゴを食べると、魚の身に毒が蓄積するそうなんです」
「それは、食べられませんか?」
「当たり外れがあります。サバなどは危険はないそうですが、タイやヒラメなど、海底に接したりサンゴをつつく習性のある魚は危険かもしれません。魚の種類による危険度は研究中みたいです。でも、どうしても料理に魚を使いたい、天然ものにこだわる高級料亭などでは、一匹一匹、科学的成分チェッカーを使って確認しているらしいです。それでも、もしも人間の体内に毒が入った場合は、長い間、謎の関節痛がしたり、めまいがしたり、原因究明も解毒も、すごく大変らしいです。」
「そうですか」
光鈴の説明に福龍は納得したらしく、階段を降りる足を止めずにコクコクと頷いた。
寺の長い石段を下りながら三人は世間話をしていた。途中、お遍路さんの姿の人と数人すれ違った。その度に挨拶を交わしたが、マスクとゴーグル姿のために修生たちは気が付かれずに済んだ。
下りきるまで三十段ほどの所まで来たところで、石段の上り口に人がうずくまっているのが見えた。
三人は慌てて石段を駆け下り、丸めた背中に修生が声をかける。
「どうなさいました、大丈夫ですか?」
「うぅ・・・」
お遍路さんの白装束に片手には杖を握っているが、白装束からのぞく腕と首は褐色の肌をしている。首は太く、丸めた背中も大きく丸い。
「大丈夫ですか? 日本語は分かりますか?」
顔を覗くと、脂汗をかいている顔は南国特有のものだ。
「ダイジョウブ、タスケテ、アンゼン、ニホン、チガウカッタ」
「こんな天気なのに、どうしてマスクもゴーグルもしていないのですか?」
「ワタシ、パラオからキマシタ。パラオ、みんな、マスクしてない、ダイジョウブ」
「ここは日本です。広い海に囲まれたパラオの風と日本の風は、運んでくるものが違います。日本には大陸からの風が来るのです」
「アナタ、ヒーラー? キュアポイズン、できますか?」
修生の隣で彼の背中をさすっていた光鈴の手を止めさせ、離れるように指示を出す。
「あなたの症状は、ポイズンではなく、おそらくバイオです。唱えるとすればエスナですが、日本では救急車です」
「修生様、これを」
福龍が修生に手渡したのは絆創膏ほどの大きさのピンクの板だった。修生はそれをうずくまる彼の口にくわえさせ、ゆっくり五つ数えてから引き抜いた。ピンクの紙は半分が紫になっていた。
「光鈴さん、119番を」
オブスキーヌスゾンビ菌。発症後、激しい腹痛からはじまり内臓をむしばみつつ七日をかけて徐々に肺が萎んでいく恐ろしい病気だ。だが、すぐに正しい治療をすれば恐れることはない。
程なくして救急車が到着し、パラオ人の彼と修生たち三人は車に乗り込み、病院まで搬送された。
感染症用の裏口から専用の診察室へと彼は案内されていった。修生たちは状況報告と、体と衣服の殺菌、それと二日分の抗生物質が処方され、病院をあとにした。
新しく日本の一部となったパラオだが、本島以外の小さな島の住人は日本本土に移り住んだ。パラオ国内の小さな島は海に沈み、コンクリートが顔を出すだけの島になってしまったからだ。
今は四国に数か所のコミュニティーを作り、漁業や海岸の環境保護事業に携わってもらっている。
パラオ人の多くは元から日本語ができる。
パラオ本島でも街を歩けば「オイシイ」「アンシン」「ナンデヤネン」など、日本統治の名残として、今でも日本語が飛び交っている。
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